韓信
韓信は家臣と策を謀り、夜の間に詐詔(偽の詔書)によって官徒(罪を犯したため宮内で労役している者)や奴隷を釈放して、宮内にいる呂雉や太子・劉盈を攻撃することにしていた。すでに配置も決まっていたが、韓信はこの策が失敗することを早めに知った。
なぜなら陳豨が邯鄲で戦わなかったためである。邯鄲を手に入れ、そこで篭って戦えば、多くの将兵を引きつけることができる。その間に韓信が長安を制圧すれば良いのである。
それでも陳豨は邯鄲で篭るのではなく、更に北方の地で闘うことにした。その理由は匈奴との連携を図ってのものであろう。つまり陳豨は長安の韓信、北の匈奴とどちらとも連絡をしやすい点で匈奴に近い方にしたのである。
陳豨はどちらにも配慮しすぎて、両方との連携を損なう動きをしてしまったのである。
これは成功しない。韓信としてはそう考えざる負えなかったが、彼は迷った。このまま陳豨が負ければ、彼と手を結んだことは悟られることになるだろう。しかし、このまま行動しないというのも……
そのようなことを考え、決断に迷ったことが韓信の最大のしくじりであった。ここで駟鈞の仕込みの者により、以前、韓信の舎人で罪を犯したため、逮捕されて殺されそうな男に弟がいた。その弟に密告のことを伝え、呂雉に面会させ、韓信の謀略を密告させた。
「わかりましたはあなたとあなたの兄はしっかりと保護しましょう」
呂雉はそう言って、密告者を下がらせるとにやりと笑い、薄姫を呼んだ。
「相国に私が呼んでいると伝えてきて」
「承知しました」
薄姫はついに動いたかと思いながら、相国・蕭何を呼びに行った。
「御用とは何でしょうか?」
「韓信に謀反の疑いが出ています」
蕭何は唾を飲んだ。
「証拠はあるのでしょうか?」
「あります。密告者がいるのです」
「そうですか……」
「陛下が留守の間に事を行おうとしています。これはもはや疑いの余地はないでしょう。私が韓信を召そうとすれば、従わない恐れがあります。そこであなたの力を借りたいのです」
「わかりました。ではこうしましょう」
二人は相談し、このようにした。
劉邦の使者が還ってきたように装い、
「陳豨はすでに平定されて斬られた」
と宣言した。それを聞いた列侯や群臣が祝賀のために集まった。
䔥何は行こうとしない韓信に言った。
「汝は病ということであるが、陛下に従わなかったことを踏まえ、無理にでも入朝して祝賀するべきだ」
(蕭何もあっち側か……)
韓信はため息をついた。行けば死ぬだろう。それがわからないほど鈍くはなかった。
「まあ良い。蕭何殿には恩義がある。私の首を手土産にさせてやるか」
大将軍になれるきっかけを作ってくれたのは蕭何なのである。最後に良いことをするのも悪くない。韓信は入朝した。
「来たわね」
呂雉は武士に命じて韓信を縛らせ、長楽宮の鐘室で殺した。
韓信は斬られる前に、
「蒯徹の計を用いなかったことが心残りだ。児女子(女子供。もしくは単に「婦女」の意味)に騙されることになった。これが天意なのだろうか」
と言って斬られた。
「傲慢な男だとこと」
呂雉は一気に韓信の三族も皆殺しにした。
この頃、匈奴に逃走していた韓王・信が匈奴の騎兵と共に参合(代郡)に入ったところを漢の将軍・柴武が参合でこれと戦い、韓王・信は斬った。
その報告に湧いていた時に韓信が謀反を図ったために殺したことを伝えられた。
「韓信が……」
劉邦は驚き、急いで洛陽に戻り、正確な韓信の死を聞くと憐れみの表情を浮かべた。
「あれは扱いの難しい男であったことはあったが、功績のある男であった」
劉邦は次に長安に戻ると呂雉に問うた。
「やつは死に臨んで何か言っていたか?」
「韓信は蒯徹の計を用いなかったことを悔いていると言っておりました」
それを聞くや劉邦は機嫌を悪くし、
「それは斉の辯士・蒯徹であろう」
と言ってと、斉に詔を発して蒯徹を捕えさせた。蒯徹が連れて来られた。
劉邦自ら尋問を行った。
「汝は淮陰侯に謀反を教えたか?」
蒯徹は頷いた。
「はい、確かに私が教えました。豎子が私の策を用いなかったため、ここにおいて自らを滅ぼしてしまったのです。もしも私の計を用いていれば、陛下はどうして滅ぼすことができたでしょうか」
ふてぶてしい態度であったこともあり、劉邦は激怒して、
「煮殺せ」
と命じた。すると蒯徹は言った。
「ああ、煮殺すとは冤罪だ」
劉邦は怪訝な表情を浮かべた。
「汝は韓信に謀反を教えた。何が冤罪であろうか」
蒯徹はこう答えた。
「秦が鹿(天下の喩え)を失い、天下が共にそれを逐いました。能力があって行動が速い者が先に鹿を得たのです。跖(古代の盗賊)の狗が堯(聖人)に吠えましたのは、堯が不仁だったからではありません。狗は堯が自分の主ではないから吠えたのです。当時、私は韓信だけを知り、陛下を知りませんでした。そもそも天下には武器を磨いて鋒を持ち、天子になりたいという者は大勢いるのです。ただ自分の力が足りないだけです。彼らを全て烹に処すことができましょうか?」
彼の言葉を聞き、劉邦はすっと冷静になると、
「彼を放て」
と言って彼を許した。
「ついに皇后による粛清が始まった……」
薄姫は恐怖を感じた。先に呂雉は殺すべき人物を挙げて、そのとおりに行動を始めた。
「そろそろ距離を持たないと」
信用を稼ぐため、傍に居続けていたが、こうなれば彼女の信用を稼ぐだけでなく、他者からの恨みを稼ぎかねない。息子を守るためにも彼女は行動を起こした。
「何か用でしょうか?」
陳平の元にやってきた薄姫は言った。
「私の子・恒に代の地を守らせることはできない?」
「皇子を辺境に、危険すぎませんか?」
「だからこそよ」
陳平は薄姫をじっと見つめたあと、頷いた。
「図ってみます」
「ありがとう」
薄姫はお礼を述べると部屋を出て行った。一人になった陳平は呟いた。
「手札は多い方が良いだろう……」
翌日、劉邦は言った。
「代の地は常山の北にあり、夷狄と辺(国境)を共にしている。趙は常山の南にあり、夷狄から遠い。それに対して代はしばしば胡寇を受けており、国を為すのが困難である。よって、山南太原から一部の地を割いて代の地を増やし、代の雲中以西を雲中郡に改める。そうすれば代が辺寇を受けることが少なくなるだろう。王、相国、通侯、吏二千石は代王に立てるにふさわしい者を挙げよ」
燕王・盧綰、相国・蕭何ら三十三人がそろって言っや。
「子・恒は賢知温良な方です。代王に立てて都を晋陽としてください」
「よかろう」
こうして趙の常山以北の地が代に編入され、劉恒が代王に立てられ、都は晋陽となった。
「都から離れることに複雑な思いがあるだろうけど、許してね」
薄姫は息子にそういった。
「大丈夫です。母上、国のために働けることは嬉しいことです」
「そう……ありがとう」
二人は辺境の地・代へ向かった。