出発
黄色い服を着た老人はそよぐ風を感じながら歩いている。彼が歩いている近くで女性が二人の子供と共に田で草を刈っていた。女性の名は呂雉である。
「もし、少し良いでしょうかな?」
「なんでしょう?」
老人が話しかけると呂雉は立ち上がって老人を見た。
「飲み物をもらいたいのだが、よろしいかな?」
「構いませんよ」
呂雉はすぐに用意して持っていき、飲み物と簡単な食べ物も渡した。老人は笑いながらそれを受け取り、彼女の人相を看て言った。
「夫人は天下の貴人というべきでしょう」
「もらうお礼としては大きすぎますわ」
(ほう、そう返すか)
老人、黄石は内心笑った。彼女の返答の面白さを感じたのである。
「どれ、お子さん方も見ましょう」
彼に請われて彼女は二人の子の人相も看させた。黄石は後の恵帝となる方を見て、
「夫人が貴人となるのはこの男児が原因でしょう」
黄石は後の魯元公主となる女の子も見て、貴人になると言った。
「では、そろそろ帰るとしますか」
そう言って、黄石が去ってから休暇中で酒屋に行っていた劉邦が帰ってきた。呂雉は老人が通って、
「母子とも大貴の相がある」
と話した事を詳しく語った。
「ほう、で、その老人はどこだ?」
「もう帰っていかれましたが、遠くには行っていないと思いますよ」
劉邦は急いで後を追って老人に追いつくと話しかけた。
(これが……)
黄石が直接、劉邦を見るのは初めてである。そして、彼を見てこう言った。
「先ほどの夫人と嬰児は皆、あなたに似ています。あなたの相は言葉にできないほどに高貴なものと言えましょう」
それを聞いた劉邦は感動したのか身体を震わせ、
「もし本当にあなたの言う通りであるのなら、この徳(恩)を忘れることはありません」
と言った。
劉邦には他者を信用する上で無自覚にあるものを基準にしている。それは感動できるかどうかである。その他者の言動や行動が自分を感動させることができるか。もしくは天を感動させるものなのか。それこそが彼にとっての評価基準である。
彼にとって黄石の言葉は、天を震わす言葉であると劉邦は思ったからこそ老人の言葉にお礼を言ったのである。
(変わった男だ)
黄石はそう思いながら劉邦から離れた。
一見すると劉邦には特に印象があるというわけではない。しかし、彼の言葉や行動を見ていると憎めない人であることがわかっていく。
(こんな男がなあ)
黄石はそう思いながら劉邦の元から立ち去った。後に帝位に着いた劉邦はこの時出会った老人を探させたが、見つけることはできなかった。
劉邦は常に竹皮の冠を被っている。これは求盗(盗賊を見つける仕事)の部下を薛(地名)に派遣して作った物である。
彼が高貴になってからもよく被ったため、「劉氏冠」と呼ばれるようになる。
それを被りながら珍しく仕事をしていると彼の元に夏侯嬰がやって来た。彼は県の厩舎係(馬車の御者)・書記を勤めている男であり、昔から劉邦を慕っていた。
彼の逸話でこのようなものがある。以前、劉邦とふざけ合っているうちに取っ組み合いになり、夏侯嬰は劉邦に剣で斬られてしまって怪我をした。
これを問題視して、県の者たちは怪我をした理由を尋ねたが、夏侯嬰は断固として劉邦に傷つけられたことを言わなかった。それでも怪我の理由を問い詰めるため夏侯嬰は拷問に掛けられたが、それでも彼は言わなかった。
「もう良かろう」
蕭何が手を回して夏侯嬰は開放された。このことを聞いた人々は彼を男の中の男であると称えた。また、劉邦も彼の行動には感動している。
そんな彼が劉邦の元にやって来た。
「兄貴、県令が亭長として県のために徭役の徒を酈山に送るようにと言っています」
「ほう、そうか仕方ねぇな」
「ただ兄貴、どうにも妙です」
「妙とは?」
夏侯嬰は劉邦の耳元で言った。
「県令の悪意を感じるのです。蕭何様もそう言っていました」
「悪意ねぇ。まあろくでなしには違いねぇから、悪意の一つや二つあるだろうさ。実際、その仕事は誰もやりたがらない仕事だしな」
徭役の徒を送る仕事は遅刻すれば死刑、連れてきた人数が少なければ死刑というもので過酷な仕事である。
「それはそうですが」
「まあ、心配することはあるまい」
劉邦はそう言って笑った。
「また、県令は兄貴に人を集めるのもやれと言っています」
「はあ?」
それは明らかに仕事の範囲を超えている。
「つまりあれか今から集めろってか」
「はい」
流石の劉邦もこれには困惑し頭を抱えたが、
「まあ仕方ない。知り合いをかき集めてどうにかするとしよう」
「そうですね。それしかないでしょう」
劉邦はため息をついた。
どうにかこうして劉邦は人を集めることができた。連れてきたのは肉屋(狗肉の専門店)の樊噲、葬儀屋の周勃、天邪鬼の紀信、金好きの曹無傷、傲慢な雍歯である。
雍歯に至っては木に括りつけて連れてきた。
「離せぇ、俺は行かん。行かんぞ」
「いいぞぉもっと暴れろ」
そう言いながら紀信は雍歯の頭を叩く。彼は言動と行動が逆になることがしばしばある。
「いやあ、静かなやつですぜ」
喚く雍歯を背に紀信はそう言った。こんな奇っ怪な言動の紀信と劉邦は上手く付き合っている。
「よし行くぞおめぇら」
「応」
劉邦は沛から酈山に行くため、出発した。これが乱世という嵐に巻き込まれていくことになるとはこの時の劉邦には知る由もなかった。




