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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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始皇帝

 初めましての方からお久しぶりの方まで、今回の内容は秦末~漢初までです。どうぞよろしくお願いします。


 ご感想、ご指摘お待ちしております。

 秦王・せいは天下統一という偉業を成して、始皇帝しこうていとなった。


 項羽こううは常人を超えて神話の人となって西楚の覇王となった。


 劉邦りゅうほうは人を謳歌し、漢の高祖となった。











 紀元前221年


 天下統一を果たした秦王・せいは自らの徳を古の聖君子・三皇と兼ね、功においては五帝を越えていると考えた。


 そこで丞相・王綰、御史大夫・馮劫、廷尉・李斯等に命じた。


「異日(過日)、韓王が地を納めて璽を献上し、藩臣になることを請うたが、すぐに約に背いて趙、魏と合従し、秦に叛した。故に兵を起こして韓を誅し、その王を虜にした。私はこれを善と思い、兵革(武器。戦争)を休めることができたと考えた。趙王がその相・李牧を送って約盟したため、質子(人質)を帰国させた。しかしすぐに盟に背き、我が太原で反した。よって兵を興して趙を誅し、その王を得た。趙公子・嘉がなお自立して代王になったため、兵を挙げて撃滅した。魏王は始めは服従を約束して秦に入ったにも関わらず、すぐに韓、趙と謀って秦を襲った。よって秦の兵吏が魏を誅して破った。荊王(楚王)は青陽以西を献上したにも関わらず、すぐ約に叛して我が南郡を撃った。よって兵を発して荊を誅し、その王を得て荊の地を平定した。燕王は昬乱であり、その太子・丹が秘かに荊軻に命じて賊とした。よって兵吏が燕を誅してその国を滅ぼした。斉王は后勝の計を用いて秦使を絶ち、乱を為そうとした。よって兵吏が斉を誅してその王を虜にし、斉の地を平定した。私は眇眇(些少。取るに足らないこと)の身であったが、兵を興して暴乱を誅し、宗廟の霊のおかげで六王を全てその辜(罪)に伏させ、天下を大定させることができた。今、名号を改めなければ成功を称して後世に伝えることができないと考える。帝号について議論せよ」


 命令を受けて皆こう言った。


「昔、五帝の地は方千里に過ぎず、その外の侯服・夷服・諸侯が朝見するかどうかは、天子には制御できませんでした。今、陛下は義兵を興して残賊を誅し、天下を平定されました。海内は郡県となり、法令は一つにまとめられております。これは上古以来いまだかつてなかったことであり、五帝と言えども陛下には及ぶことはないでしょう。私どもは謹んで博士と議論し、こう話しました。『古には天皇、地皇、泰皇(人皇)という三皇がおり、泰皇が最も貴い』と、そこで、我々は死を冒して尊号を献上します。王は『泰皇』と号すべきです。また、命を『制』とし、令を『詔』とし、天子の自称を『朕』と致しましょう」


 政は、


「『泰』を去って『皇』を留め、上古で位を表した『帝』の号を採用し、『皇帝』と号すことにする。その他のことは議の通りにしよう」


 政が制を下して「可」と言った。群臣に対して皇帝が述べる言葉を「制」といい、「可」は「採用」を意味することになる。


 これによって「皇帝」という号が誕生した。


 さて、この皇帝の号をできる上で参考になった三皇と五帝についてそれぞれ誰であるかということについては複数の説がある。


 伏羲・神農・黄帝を三皇、少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜を五帝とする説。


 伏羲・神農・燧人を三皇、黄帝・顓頊・帝嚳・唐堯・虞舜を五帝とする説。


 三皇は伏羲・女媧・神農の三人。五帝とは徳が五帝座星に符合する帝を指し、実際は黄帝・金天氏・高陽氏・高辛氏・陶唐氏・有虞氏の六人がいるが、五帝座星に合わせるため五帝と称することになったとする説。


 三皇を伏羲・神農・祝融とする説。商の湯王、周の文王、武王を五帝の中に入れるという説もある。


 本来、帝とは天の別名で、皇は美大な名を指し、帝より大きいことを表す。


 皇帝は臣民の前で自分を「朕」と称することにしたが、古くは貴賎に関係なく身分が低い者も「朕」と称していたと言われ、この秦代になって「朕」は天子の自称と定められることになった。


 父・荘襄王そうじょうおうを追尊して太上皇にした。「太上」とは「極尊」を示す称号である。


 政は制を発して言った。


「天子が死んでから生前の行動を根拠に諡号を贈るのは、子が父を議し、臣が君を議すことであり、全く道理がないと言える。よって今後は諡法を除くことにする。朕は始皇帝となり、後世は代数によって計れ。二世、三世から万世に至り、無窮に伝えよ」


 こうして秦の始皇帝が誕生した。中国史における最初の皇帝となったのである。そのため以降は彼を始皇帝と書くことにする。


 因みに『諡法』というのは周公旦しゅうこうたんによって作られたという。そのため今まで君主の者に生前の行動の善悪によって諡号が定められた。始皇帝が諡号を排除したのは後人によって悪諡をつけられることを恐れたためであるとされている。


 かつて斉の威王いおう宣王せんおうの時代、鄒衍すうえんが「終始五徳の運」という説を唱えた。


 どのようなものかというと、五徳(五行)には木、火、土、金(金属)、水という五つの物質がもつ徳性(性質)があり、古代中国ではこの五つの物質があらゆる事物・現象の根源になっていると考えられてきた。


「終始五徳の運」とは、その五徳(五行)が順番に興隆し、途絶えることなく循環するというものである。


 鄒衍は「五行相克(次の徳が前を徳に打ち克って交代するという考え方)」を基本にして王朝の交代に関して解説を行った。


 まず帝舜を土徳の帝王と定めると「五行相克」では木徳が土徳に克つため、帝舜の後を継いだ夏王は木徳になる。同じように金徳が木徳に克つため夏王を継いだ商王は金徳になり、火徳が金徳に克つため商王を継いだ周王は火徳になるとしたのである。


 漢代になると「五行相生(一つの徳が次の徳を生むという考え方)」の考え方から王朝交代が説明されるようになった。


 まず伏羲を木徳の王とみなし、「五行相生」では木徳が火徳を生むため伏羲を継いだ神農は火徳の王になり、同じように火徳は土徳を生むため神農を継いだ黄帝は土徳の王となり、土徳は金徳を生むため黄帝を継いだ少昊が金徳の王となり、金徳は水徳を生むため少昊を継いだ顓頊は水徳の王となり、水徳は木徳を生むため顓頊を継いだ帝嚳は木徳の王となり、帝嚳によってまた木徳に戻ったことになる。


 その後も、帝嚳を継いだ帝堯は火徳の王、帝堯を継いだ帝舜は土徳の王、帝舜を継いだ夏王は金徳の王、夏王を継いだ商王は水徳、商王を継いだ周は木徳の王になったとしたのである。


 始皇帝が天下を併合してから、斉人が鄒衍の学説を上奏した。


 始皇帝はこの説(五行相克)を採用し、火徳の周に代わった秦は、水徳が火徳に克つため、秦を水徳の国と位置付けた。


 またある時、ある人が言った。


「黄帝は土徳を得て、黄龍・地螾が現れ、夏は木徳を得て、青龍が郊に止まって草木が茂ったと言います。商は金徳を得て、銀が自ずから山に溢れました。周は火徳を得て、赤烏の符がありました。今、秦が周に代わりましたが、水徳の時です。昔、秦の文公が狩りに出た時、黒龍を獲ました。これは水徳の瑞祥と言えましょう」


 これにより、黄河を徳水に改名した。水徳の始(源)とした


 始皇帝はこの五徳の思想によって秦帝国の存在を正統化しようとした。それほど五徳の考え方は当時、受け入れられていたということである。新政権の権威付けはこの後の歴代王朝にも継承されていくことになる。


 次に始皇帝は周暦を改めて全国で秦暦を用いさせた。


 新年の朝賀は十月朔に行うこととされた。


 また、黒が水徳を象徴する色とされたため、衣服も旌旄も節旗も全て黒を尊んで使用することになった。水徳の数とされる六が一つの紀(単位)とされた。


 これにより符や法冠は六寸になり、輿の幅(車輪の距離)が六尺に統一され、六尺を一歩とし(これ以前の一歩には諸説があるが一般的には八尺が一歩としている)、一乗を六頭の馬にした(乗は車を牽く馬の単位で、周代の一乗は四頭の馬だった)。


 始皇帝はこう考えた。


「剛毅戻深(強硬で厳酷なこと)な態度で事に当たり、全て法に基づいて採決するべきであろう。刻削(苛酷)で仁恩和義がなくなれば五徳の数(命数。原理)に一致できる」


 水は陰を主宰し、陰は刑殺を象徴する。始皇帝は五行思想を刑罰を重視する政策の根拠としたのである。


 この後、秦はますます過酷な法を行い、罪を犯して久しくなる者でも赦すことはなかった。


 こうして秦の政治が天下に向けて始まった。

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