第三章 ソウルダイブ Ⅰ
新井映見。四十五歳。前章ラストで二つ名のみの登場となった、「白衣の魔女」である。生業がサイコセラピストなのでそう呼ばれているのだが、とはいえこのような店に現われる時まで、白衣で登場というわけではない。長めのサラサラ髪がよく似合う、ちょっとレトロな美人である。
『結』の止まり木に腰を据え一時間弱、『コリン・マイケルと氷の都の陰謀』下巻を廻る問題は、一向に解決のきざしを見せない。著者とはやはり我が儘なもので、例のフニフニ口調ながら、千香は責任転嫁的発言を繰り返している。
「なっちゃん酷いんですようっ。恋煩いなんじゃないかなんて、ゆうんですようっ。女が仕事に詰まるとすぐそれ……。まるでオッサンじゃないですかああっ」
この著者は酒癖もあまりよくない。それに城田の伝家の宝刀、涙も多分効き目がないだろう。美留は微かに、いやかなり明確にイライラしていた。
「でもねえ千香ちゃんっ、自分でも原因解んないんだから、そういうこともちょっとは、考えてみたほうがいいんじゃない?」
ユッコ・ママのハスキーヴォイスに乗り、そこに唐突に降臨したのが、「白衣の魔女」だった。
「……この子、バッシングにムキんなって筆が荒れちゃうことはあっても、それで折れちゃう玉じゃないしねえ……。原因不明……。だったら映見ちゃんかねえ……」
美留と城田が「映見ちゃんっ?」と疑問形をハモった。
「そう。映見ちゃん。表の仕事がサイコセラピストなんで『白衣の魔女』なんて呼ばれてるんだけど──」
続く疑問形は城田のみの発言となった。
「でも『魔女』って……」
「まあ一応グループセラピーみたいなもんなんだろうけど、彼女が採る方法がね……。ちょっとその、集団催眠ってゆうか、なんてゆうか……」
さらに城田が「ドラッグッ?」と食い下がる。
「まさかっ!」
どこかヤバそうな話だったが、美留も城田もそれなりに好奇心旺盛である。ふと気づくと、千香はカウンターに突っ伏している。
「この店はまあセミプロ・クラス専門だけど、一応クリエーターたちの溜まり場だからね。書けなくなっちゃう奴、自分の世界に引き籠って出て来らんなくなっちゃう奴、色々いるわけよ。そんな時彼女が……。あっ、噂をすれば──」
実にタイミングのいい登場だった。そこにはやはり、ママの計らいがあったのかもしれない。もっとも「魔女」は店の入り口で立ち止まって、
「あっ、ひょっとして今晩、お邪魔だった?」
などと言ってはいたが……。
彼女は店の中程のボックス席に着いたので、美留も城田もそちらの席に移った。淡いブルーのコートを脱ぐと、映見の上半身はダークグレーのニットだった。バストが品よく盛り上がっている。
カウンターの千香にチラッと眼をやり、城田が前のめりに飛び込んで行った。彼女も相当焦っていたようで、あのファミレスでの涙も、まったくの嘘泣きではなかったようだ。
「映見さんですねっ? 私青進社って出版社でブック・プロデューサーやってる城田奈津っていいますっ。あなたならあの先生、治せるかもしれないって聴いたんですけど……」
「セラピストとしての正式な仕事じゃないし、事態を悪化させるケースだってある。それに私の母は、カルトの教祖みたいなことあっちこっちでやった挙句、最後はまあ壊れちゃったって言うか、なんて言うか──。それでも私の話、聴く?」
「はいっ!」
映見はその手法を、取り敢えずソウルダイビングと呼んでいるのだそうだ。
「後知恵的には集団催眠なんてことになっちゃうんだろうけど、心理療法士の勉強の過程で私が常々感じてたのは、あれとこれとはまったく別もんだってこと──。現実の世界で覚醒しても、あれが夢だったなんて思えたことないんだ、私。母はね、相手の心に入り込むんだって言ってた。とにかく、あの先にはもう一つの宇宙があるのよ」
「インナースペースに入り込む……」
「そう。今は色々、便利な言葉があるよね」
「事態を悪化させるケースって……」
「校舎から飛び下りちゃった大学院生がいたけど……。でも大抵は、元の症状を悪化させる程度。『はてしない物語』って本の中に、どっかの島だか町だかで、ずっと意味もなく文字を組み続けている子供たちがいたでしょ? あんな感じかな? ああ勿論、少なくとも肉体はこっちの世界にあるんだけどね」
そして今度は、映見は城田の言葉を待たず、一人で話の先を続けた。
「でも私、ほんと言うとね、彼らのケースだって失敗したなんて思ってないの。『はてしない物語』に即して言えば、実はあの『物語』のほうが彼らを裏切ったんだって思ってる。だってそうでしょ? あの主人公の男の子だけ、どうして特別なの? 『はてしない物語』から帰還して、古本屋のお爺さんたちに新しい物語を持って来てくれるから? それじゃ結局、こっちのひとたちが楽しめるかどうかだけが問題ってわけ?」
映見の言葉は止まらない。
「表の仕事関連でもね、精神分裂病を妙に持ち上げるひとたちがいたの。彼らには近代を超える新しい可能性がある、そんな彼らに私たちの『正常』を無理矢理押しつけるな、なんてね。でも結局、『はてしない物語』のケースと同じ……。最近になってその内の一人が、ついに創造的な精神分裂病患者とは出会うことができなかった、なんて、勝手に持ち上げといて勝手に失望してんの。その創造的って何? あの島の子供たちだって何か作ってはいたわけだよね? でもそれじゃ駄目なんだ。こっちのひとたちにとって価値があるかどうかが、結局問題なんだ──」
ブック・プロデューサーである美留にとって、映見のその見解は到底納得できるものではなかった。城田はどう出るのかな? と、引き続き一歩下がって観ていると、
「私はあの本好きなんですけど、でも映画のほうも好きだったから、原作ファンのひとたちがどうして映画のことあんな風にゆうのかなって、ちょっと疑問でした」
と、どうやら無難にお茶を濁したようだ。
「相手の心に入り込む」という話だったが、美留も城田も、千香のインナースペースへのダイビングにつき合わされることになった。日曜日の昼下がり。場所は変わらずスナック『結』。ただし店は終日休業とし、壁際のボックス席を一組、フロアの中央に据えた(狭い店だし却って動線が切れてしまうような気もするのだが……)。千香は壁を背にしたお誕生日席。店の奥側に映見、城田。ドア側の席は私一人かな? などと美留がボーッと考えていると、映見がカウンターのママに向かって、
「ユッコさん! 今度もお願い! こっちの世界へのアンカーとして、第三者的なひとがどうしても必要なの!」
と──。美留たちは既に第三者ではないのか? 確かにそうなのかもしれない。
「それじゃみんな、手を繋いで、水晶の中央をじっと観て──」
という導入方法はなんとも怪し気な雰囲気だった。因みにその水晶、大きさの割りに分厚い座布団状のものに載り、テーブル中央にドンと鎮座している。
だが美留は、「こんなので本当に──」という自分自身の思考を、最後まで辿ることはできなかった。
いきなり飛行機のアラート音のような音がして、眼の前に焼けた岩塊のようなものが迫って来たのだ。
「キャアアアアッ!」
そして美留はそれを避けた。多分避けたのだと思う。……でもどうやって? 焼けた岩塊が視野から消えると、その向こうには真っ青な海が広がっている。水平線が見えない。上から見下ろしているのだ。雲とは違う黒い煙が、視野の右上に尾を引いている。
突然悲鳴に近い声が響く。電気的な歪み。ごくごく狭い範囲での反響。美留はヘルメットのようなものを被り、小さなスピーカーの音を聞いているのだと覚った。
「こちらスプリング・リーダーッ! ナツですっ! 完全に包囲されましたっ! 援軍を請うっ! 援軍をっ! キャアアアッ!」
(ナツッ? なっちゃんっ? スプリング・リーダーって?)
続く声はすぐにママの声だと分かった。
「オータム・リーダーッ! 回避っ! 回避っ! 何やってんのミルッ! 避けてっ!」
(オータム・リーダーって私なんだ! 避けてって?)
「上っ!」
ママに怒鳴られ上を観ると(どうやってそうしたのかは分らないが)、今度は焼けた岩塊ではなく、鎧とゴリラとトンボとをかけ合わせたようなものが、青空の中を急接近して来る。
(ロボットだ、あれ! 私もあんなのに乗っかってるんだ!)
と認識した刹那、相手のロボットの右腕が火を噴く。
(ああ、あれ!)
例の焼けた岩塊だった。今度も避けられると思ったのだが、相手ロボットは左腕からもその岩塊を発射し──。
次に美留が知覚したのは、右頬のヌルッとした感触だった。
(エッ? 怪我したっ?)
とまずは考えたのだが、体が鉛のように重く、どうにも危機感が起きない。
薄眼を開けると、視界の先のくすんではいるがなんとなく安心できる漆喰の壁は、『結』だ。同時にムッと生ぐさい臭いがした。血ではない。涎だろう。美留はテーブルに右頬をペタッと着け、気絶していたのだ。
身を起こし、思わず手の甲でそれを拭ってしまい、自分でウエッとなった。
千香は大口を開け、椅子の背もたれに大の字になった感じ──。そしてその左手の映見は……。既に起きていたらしく、サッと視線を落とし、スーッと奥のトイレに消えた。
(嫌だ、私、いつから観られていたんだろう……)