第二章 作戦会議へ
元気にしていた城田が、ぐすっと洟を啜ったような気がした。美留はコーヒーカップをソーサーに戻し、やや上目づかいに様子を窺う。すると確かに、彼女は両眼を因幡の白兎にしている。「ちょっとっ──」と言いかけ、その言葉を飲み込む。無意味な言葉だ。
社の近くのファミリーレストランだった。
十六時から問題のシリーズとは別件の打ち合わせがあるとかで、城田はパスタを食べていたのだが、もうすぐ大台の美留には「若い子でもライスはもたれるのかな?」などと、意地悪な笑いが零れてしまいそうな光景だった。彼女は奢りのケーキもペロリと平らげた。ところが……。
「『コリン・マイケル』の件ですよね? 声をかけて下さったの……。やっぱり私じゃ、頼りないですか?」
「そっ、そういうことじゃなくて……」
確かにその件が問題なのだが、娘にせっつかれてというのでは公私混同のような気がして、美留のほうからは言い出せなかったのだ。
「美留さん、三巻以降の軍事ヲタク的傾向にも、なんかなあって感じ、あるんですよね……」
「うんっ。その感じは二巻の頃からあったな……。でも売り上げは伸びてたし、ファンレターなんかも凄かったし……」
さらに、社に還って来るアンケート・ハガキの感想欄なんかも……。
城田は涙目のままじっと美留を見詰めている。実はね、と美留は切り出す。
「今朝も娘に言われちゃって……。どうなってんのって……」
「ごっ、ごめんなさいっ」
「ううんっ、別に責めてんじゃなくて……。でもどうしても気になっちゃって……。娘との唯一のコミュニケーション・ツールなんだ……。あのシリーズ……」
そこで話が妙な方向に転がり出す。
「だったら美留さんっ、今晩つき合って下さいよっ。先生を『結』に呼び出してあるんですっ! 二十時半っ!」
『結』というのは著者宅近くのスナックで、美留も担当の頃、よく利用した。
「……それはいいけど、でも……。あなたの顔を潰すことにもなるんだよ? 解ってる?」
「はいっ! そういうことなら全然オッケーですっ! お願いしますっ!」
城田は涙を手の甲で拭うと、もうすっかり元気になっている。
涙は女の武器だと言うが、それを同性に使うのは、やはり禁じ手だろう。しかし娘とのコミュニケーション・ギャップに悩む美留には、そんな後輩が妙に可愛いらしく思えたりもするのだ。
(すべて計算ずく?)
だとしたら末恐ろしいなと思う。
その城田とはファミレス前で別れた。
社に帰り、細々とした作業を一気に纏めてこなす。そして、一悶着覚悟で理来に連絡──。青進社のような小さな出版社では定時に来て定時に帰る者などいない。社が入っているマンションの外廊下に出て、スマホである。
十七時半。もうすっかり冷え込んでいて、スマホを持つ手が罅割れてしまいそうだ。仏頂面が眼に浮かぶ声だが、理来はすぐ出た。
「なあに母さん」
「ああ理来、今晩ちょっと遅くなるから、晩御飯、私の分はいい。何か買って食べてもいいから──」
「飲んで来るの?」
「多分そうなるけど……」
「オッサンみたいに酔っ払わないでよ。それと私、お酒くさいのヤだから、今週の洗濯当番、パス──」
そしてスマホはフッと切れてしまった。
「ちょっ、ちょっと理来っ──」
という間の抜けた声が、空しく寒空に吸い込まれる。
(今から私、あなたたちも楽しみにしている『コリン・マイケル』シリーズ第四巻下巻のために、頑張るんだけどなあ……)
という思いもあるのだが、それを言ってしまっては「男がすたる」だろう。加えて、こうしたシーンにまで「男」が出て来ることにも、どうしようもない虚しさを感じる。
さて、シリーズ第四巻、『コリン・マイケルと氷の都の陰謀』は、政治劇である。以前から王位を狙っていた王弟サンドリア公が、「冬の女王は偽者である」とのデマを流す。「この冬の厳しく、且つ一向に終息のきざしを見せない寒波の原因がそれだ」というのである。さらに「この春、わが城で保護している女王の双子の妹・タラ嬢とともに、世は必ずや都にのぼるであろう。そのタラ嬢こそ真の冬の女王なのだ!」というのである。
春の女王探索が行われるのは、本の中の季節では冬。同様に夏の女王追跡は春。秋の女王救出は夏。そうしたズレが同シリーズの難点の一つなのだが、今回の冬の女王位争奪戦でも、それは解消されていない。女王当人の存在感が薄いのだ。上巻発売時点で早くも、「欠席裁判プラス魔女裁判」などという批判が出た。第四巻上巻に対しては他にも……。これは大人の事情であり、いつかまた、別のところに記すほうがよいのかもしれないが、以下、荻上環『RPG社会――和製ファンタジーと終わりなき「レベルアップ戦争」』より──。
「冬の女王のしるしは雪の結晶状の痣なのだという。つまりある幾何学的イデアがあり、それと一致するメラニン色素か何かの斑点が姉妹いずれかの肌の『どこそこにありました』という話になれば、『めでたしめでたし』なのだ。だがしかし、これは例の疑似論理的テロリズムの焼き直しである。だがしかし、だがしかしなのだ。このように近代的‐国民的主体が立ち上がる時、必ずその裏に排除され、抹消される何ものかの痕跡が残されるものだ。私たちの読書行為は、著者の帝国主義的欲望により排除され、抹消される『偽女王』のハストリー(こうした架空戦記的『歴史』に限らず、そもそも『ヒストリー』とはヒズ・ストーリーの謂なので)にこそ、開かれていなければならないだろう。若い読者たちにもそのような、著者の特権に囚われない、言ってみれば創造的読書行為を期待しよう」。
軍事ヲタクへの道を突っ走ってはいるが、同シリーズの著者はれっきとした女である。その上どちらかと言えばフワフワした感じの若い子で(確かこの春二十七歳)、髪を纏めている時も、解いている時も、耳朶の前にテロッと垂らした蔓状の髪が可憐だ。面長なのに頬っぺたはプヨプヨしていて、切れ長な眸もいつも微笑みを湛えているよう。童話作家としては如何にもな感じが強過ぎるのだが、これで案外性格はキツく、時々しれっと恐ろしいことを言うのも、まあこの手の腐女子の鉄板である。
「美留さん、私、暖炉欲しいなあ……」
「へッ? サンタ用っ?」
「違うよ。あの流対連とかって馬鹿連中の本、買い占めてそこで焼いちゃおうって思って……。種本になってる鷲田とか、上野とか、柄谷とかって糞連中の本も……」
「ちょっ、ちょっと千香ちゃんっ。本を焼く者はいずれって、警句があってね──」
「フフッ、知ってる。あいつら直接焼いちゃったほうが、手っ取り早いよね。でも無理。あんな奴らの死体、家には上げらんないよ」
彼女とそんな話をしたのも、これから向かうスナック『結』だっただろうか? 因みに彼女、ファミリーネームは稲盛という。稲盛千香。
(そう言えば、「マイケルという名は西欧の男子名としては一般的だが、それをファミリーネームに用いるのは、如何なものだろうか」、なんて、確かそんな批判もあったな……。「その昔産業ロックでさえまだましと思えるような、ベトベトでスカスカなアイドル・ポップ・デュオの片割れに、そんなファミリーネームのお坊っちゃんがいたが……」なんて、知識のひけらかしとしか思えない無意味な予防線つきで……)
中央線の先にある問題の著者の最寄り駅に、美留は早く着き過ぎてしまった。と言ってわざわざ、喫茶店などに入る程ではない。プラプラと『結』のほうに流れていると、不意に「美留さんっ!」と声をかけられた。千香だ。
フワフワの襟つきのラクダ色のコート。熟れたリンゴのような頬。だが毒舌のほうも健在だろう。白い息を吐きながら、そんな彼女が近づいて来る。
「美留さんにも非常呼集、かかっちゃったみたいですね? 私大分、心配かけちゃってるかな?」
城田から既に聴いてはいたが、千香には特に、落ち込んだ様子はない。なぜ書けないのか? その疑問に関しても、彼女はスラスラ話し出した。
「自分でも全然、解んないんですよ。なんで書けないのか。なっちゃんにはもう章立て渡してあって、それでオッケー、貰ってるんですけどね──」
如何にもスナックといった感じの小さな木製扉の『結』の前に着くと、後ろから城田がタッタッタッと駆けて来る。
「美留さんっ! 先生っ! 早いですねっ!」
ママのユッコさんは大体美留と同年代だが、身長は若い城田より高い。ショートボブの、モデルのような、というよりちょっとノッポな感じの女だ。
店内は奥に長く、左手のボックス席は申し訳程度。カウンターの中からハスキーヴォイスで、ユッコ・ママが一人で接客する。
千香を挟んで美留がドア寄り、城田が奥、ママのユッコさんの前に仲良く並んだ。『準備中』の札こそかかっていなかったが、ママはそれとなく気を使ってくれたようで、店は貸し切り状態だった。
そしてさらに、最終的に、「白衣の魔女」がそこに加わることになった。