白鳩の唄
高校時代の部誌に載せた作品です。
少々血が流れますのでお気をつけください。
遠い昔。
政府は腕利きの暗殺組織を従えて目障りな者を秘密裏に葬り、悪法の下で独裁を行っていた。
何が起きても政府に絶対服従を貫くよう、厳しい戦闘教育を受けた暗殺者たちは〈狼〉と呼ばれ、〈牙〉という一対の双剣を操って政府の命ずるまま人を殺めていた。
これは、そんな時代の物語である。
「残らず仕留めろとの命令だ。一人も逃がすな!」
夜の静寂に低く鋭い頭首の声が響き渡った。同時に、黒い軍服に身を包んだ〈狼〉たちは〈牙〉を携え、一斉に屋敷に踏み込む。
屋敷の中はたちまち鮮血と絶叫で溢れ返った。
「大鳥!」
頭首が大声で呼んだ。少し離れたところで大鳥は答える。
「は」
「奥を見てこい。誰かいるようなら、始末しろ」
射るような隻眼に敬礼を返し、彼は屋敷の奥へと駆けていった。
長い廊下を進んでいくと、大きな扉が目にとまり大鳥は立ち止まった。
左牙をくわえ、空いた左手を取っ手にかけて、眉をひそめる。扉には固く鍵がかかっていた。
大鳥はすっと脚を振り上げ、大きく回転させるようにして遠心力のこもった蹴りを放つ。幼い頃から拷問まがいの戦闘教育を受け、鍛え上げられた強靭な脚が木造の扉にめり込む。大音響を立てて扉は砕けた。
「!」
息を呑む音が耳に届いた。左牙を持ち直して部屋に踏み込み、中を見渡した大鳥は目を瞠った。
そこにいたのは一人の女と───二人の子どもだった。
女は乱れた長い黒髪を整えようともせずに、衣の裾からのぞく細い脚を突っ張って立っていた。子どもはまだ幼い男女で、二人とも怯えたように女の背に隠れている。
こちらをきつい眼差しで睨む女と目が合う。おそらく剣を握ったこともない華奢な腕が、子どもを庇うように広げられる。
睨み合いが続いた。大鳥は表情にこそ出さなかったが、内心動揺していた。なぜなら───この屋敷の主の妻と子はついさっき、我が手に握る〈牙〉で殺めたばかりだったのだ。
一体彼女らは何者なのか。判断しかねて大鳥は一瞬〈牙〉を振るうことを躊躇した。
その瞬間だった。
「うああああああアアアァァッ!!」
絶叫が鼓膜をつんざいた。信じられないほど素早く動いた女が円卓の上の灰皿を掴み、大鳥目がけて投げつける。
「!」
大鳥は咄嗟に顔を捌いて躱したが、灰皿の端がほんの少し頬をかすめ、熱が走った。
女は気が触れたようにめちゃくちゃな喚き声をあげながら手当たり次第に物を投げつけてくる。しかしその行為は〈狼〉相手では何の意味もなさなかった。始めこそ避け遅れたが、二度目以降は宙を舞う花瓶や卓上灯の軌道を読み躱すことは容易だった。
「っ!」
攻撃が効いていないと悟り、女は顔を歪めると円卓を持ち上げた。
「この……っ、」
その下をかいくぐり、大鳥は右牙で卓子を跳ね上げると左牙を女の喉笛に突きつけた。ガン!と重い音を立て、卓子が大鳥の背後の床に落ちる。
「……」
女は大鳥を睨み上げた。その肩がわずかに震えているのを見、大鳥はぴくりと眉根を動かす。震えながら、それでもなお女は大鳥の前に立ちはだかっていた。
沈黙が続いた。
彼女の瞳は全く臆することなく強い光を宿して大鳥を映していたが───不意にその眦に、涙が溢れた。
「!」
大鳥の構える〈牙〉の鋒が一瞬ぶれる。命乞いでも始めるのかと思ったが、予想に反して女は何も言わないままだった。
「やめて」
蚊の鳴くような声で言ったのは娘だった。思いもしない方向からの声に大鳥ははっとしてそちらへ目をやる。
「お母さんを……殺さないで……」
娘も泣いているようだった。涙混じりの懇願が大鳥の耳を打つ。
「お願い……お願いします」
大鳥は立ち尽くした。どうするべきなのか、自分でもわからなくなっていた。命令を遂行するのに迷いを持ったことなど初めてだった。
果てしないような沈黙の後───大鳥は、ゆっくりと左牙を鞘に収めた。
女が目を見開く。子供たちも唖然と大鳥を見上げる。黙ったまま彼女らに背を向け、大鳥はその場を去った。
「どうだった」
戻るなり頭首が切り込むようにたずねた。
「何者も見当たりませんでした」
大鳥は無表情で答えた。そうか、と返した頭首は別段疑っているようでもなく、心中で密かに安堵の息をつく。
「任務は完遂した。戻るぞ」
屋敷中に散っていた〈狼〉たちは目立たぬよう、ばらばらに政府直轄の隊舎へと帰っていく。その誰の目にもとまらないように、大鳥は一人屋敷の奥へと引き返した。
「お母さん」
黒ずくめの〈狼〉が出て行った後、たまりかねたように結がか細い声を発した。幽は娘を振り返るとしゃがみこみ、その小さな体を抱きしめる。
「ありがとうね……結。本当にありがとう」
結の喉から嗚咽が漏れた。こんなにも幼い娘がよく〈狼〉に立ち向かえたものだ。思い返すだけで背筋が寒くなる。殺されずに済んで本当に幸運だった。
「はやくにげようよおかあさん……」
祐がぼろぼろと涙を零しながら訴える。
「そうね」
落ち着かせるようにその背をさすると、幽は二人の子どもと手を繋いで立ち上がった。
「逃げましょう。あの人が戻ってこないうちに」
再び追っ手が来る可能性は高い。早くこの場を去るのが得策だ。そう思い、子どもたちの手を引いたそのとき。
────彼が現れた。
「!」
自分の姿を見るなり硬直した母子の前で、大鳥は立ち止まった。明らかに警戒されている。
しばらく考え、出し抜けに腰の〈牙〉へ手をやった。何をするのか、とこちらを睨みつけた女の足元に、鞘ごと〈牙〉を投げる。
「……?」
狙いをはかりかねてか、女は訝しげな表情を浮かべる。彼女の警戒を解くようにゆったりと、大鳥は声を発した。
「俺はお前らを殺しに来たんじゃない」
「……どうして」
どうして戻ってきたのかとたずねたいのか。
「気になったからだ」
端的に答えて、あまりに端的すぎるかと言葉を付け足す。「一度見逃したからには、他の連中に見つかってもらっても困るからな」
「そうじゃなくて」
女はゆるゆると首を振って続けた。「どうして見逃してくれたの」
「それは」
言いかけて、詰まった。
あのとき何を思って彼女を見逃したのか、さっぱりわからない。今まで抱いたことのない感情に行動を操られていたような気もする。
「わからん」
正直に答え、大鳥はため息をついた。「そんなことはどうでもいいだろう。早く来い」
急かすように手招きすると女は恐る恐る一歩踏み出し──そのまま糸が切れたように崩れた。
「!?」
「おい、どうした!」
「おかあさん!」
大鳥の声にも、子どもたちの声にも応えない。大鳥は近寄って口元に手をかざした。
息はある。どうやら気を失っただけらしい。今までよほど張り詰めていたのだろう。
「どうしようおねえちゃん」
「どうしようって」
予想外のできごとに子どもたちはどうしていいのかわからず顔を見合わせおろおろしている。
大鳥は〈牙〉を拾い上げた。幼い二人がびくっとして後ずさったのには目もくれず、腰帯に〈牙〉を挟むとおもむろにしゃがみ、女の背と膝裏を支えるようにして抱きかかえる。そして驚いたように瞬きしている二人を見下ろし、当然のように言った。
「行くぞ」
「……」
はっ、と幽は目を覚ました。ばっと上体を起こすと、額に載っていたらしい濡れた布がぽとりと落ちる。
「……?」
非常に見覚えのある狭い部屋。ここは我が家だ。───しかし一体どうして。
呆然としていると、不意にふすまが開いた。
「あ、おかあさん起きてる!」
ふすまの隙間から顔をのぞかせた祐がぱっと笑って、駆け寄ってくる。
「おかあさん!」
「祐!」
無邪気に抱きついてくる幼い息子を抱きしめ、幽は目を閉じた。瞼の裏が熱い。ずっと凝り固まっていた心が柔らかくほぐれていくのが分かる。
───帰ってこられたのだ。
「おねえちゃん!オートリさん!おかあさん起きたよ!」
唐突に祐がふすまの向こうに叫んだ。
「オー……トリ?」
何やら聞き覚えのない名が呼ばれたような。きょとんとした幽の目の前で、ふすまが大きく開く。
「お母さん!」
顔を輝かせたのは結で……その隣には。
「!?」
驚愕に言葉を失った幽を、彼───若き〈狼〉は腕組みをして苦々しげに見下ろした。
「勝手に入ったが文句は言うなよ」
「大鳥さんいいひとだよお母さん。お母さんが倒れたの、ここまで運んできてくれたんだよ。わたしとヒロの怪我に薬ぬってくれたし、お母さんのことは心配ないって言ってくれて」
結が懸命に説明した。祐も頷いて幽の袖を引っ張る。
「おなかすいたって言ったらごはんもつくってくれた!」
「えっ」
幽はもう一度大鳥を見上げた。まさに狼のような鋭い双眸と視線がかち合う。
意外すぎる。
自分の外見と、今子どもたちが語った行為の不釣り合いさを自覚しているのか、大鳥は不本意そうな表情で幽から目を逸らした。
「あ……す、すみません、そんなことまでさせてしまって」
慌てて謝ったが、大鳥は何も言わない。
「ごはんおいしかったんだよ!あのねおかあさん、ぼくね、オートリさんにおとうさんになってほしいなって」
「ヒロ!」
幼いながらに空気を読んだのか、結が祐を呼んだ。
「こっちおいで。ごはんの片付けしなきゃ」
「あ、うんっ」
祐は元気に返事をし、結と共に部屋を出て行く。気まずい沈黙の中、大鳥がゆっくりとふすまを閉めた。
「……あの、なんて言ったらいいか」
幽はいたたまれなくなって、居住まいを正すと深々と頭を下げる。「本当にありがとうございます」
「別に」
大鳥の方も居心地悪そうに目を眇める。その表情はまるで普通の青年のようで、残忍さによって巷に名を馳せる暗殺者───〈狼〉だとは信じられなくなってくる。
「〈狼〉って、怖い人ばかりだと思ってました」
呟くと、大鳥はさらに顔をしかめた。
「実際そうだが」
「でもまさか子どもたちの面倒を見てくださるなんて」
「気まぐれだ」
大鳥が唸るように遮る。「簡単に信用するな」
厳しい声で言って、だが、と表情を和らげる。
「いい子たちだな」
「え」
突然の褒め言葉に幽は戸惑って首を傾げる。彼はやっと微かに笑んだように見えた。
「あんな目に遭わせたのに、俺を信用してくれた」
「……そうですか」
「父親がいないのか」
脈絡のない問い。……いや、さきほど祐が言いかけた言葉をちゃんと聞き取っていたのだろう。
『オートリさんにおとうさんになってほしい』。それは父親がいない前提で出てくる言葉としか受け取れない。
「ええ」
幽は頷いた。「とはいっても、死んだわけではないんだけれど」
「出て行ったのか」
勢いでたずねてしまったのだろう、問うたすぐ後に大鳥は後悔するように顔をしかめた。立ち入りすぎたと思ったのかもしれない。
「棄てられたんです」
幽は自嘲するように呟いた。「あの人は……政府の役人で」
『政府』という単語を聞いた途端に大鳥は動きを止めた。きっとその言葉に無条件で畏怖の念を抱くようにひどい教育をされてきたのだろう。
「出世すると同時にわたしたちなんか棄てて、もっといい身分のお嬢さんと結ばれたの。それだけです」
幽は一息で言い切った。大鳥はなんとも言えない表情をしてしばらく考え込んでいたが、
「……その男の、名は」
やがて囁くように訊いた。
「紫野宮」
幽は静かに、政府の頂点に立つ男の名を口にした。
大鳥はなんの反応もしなかった。しかしその目を見れば、彼の内心は明らかだった。
幽は微笑んだ。彼が気遣わずに済むように。全く気にしていないというふうに。
「きっとあのひとは、わたしたちを殺したいんでしょう。わたしたちみたいな下の人間との関わりは汚点だから」
「あのお方の考えそうなことだ」
「でもね、あなたにとってはひどい人なんでしょうけど……以前は優しい人だったの。本当よ」
幽は目を閉じて、幸せだった日々を思い出す。
「───人は、力を手に入れると簡単に変わってしまうから」
幽たちがあの屋敷にいたのは、紫野宮派を敵対視する者にいわゆる人質……脅迫材料として軟禁されていたからだった。
国民の間に明確な格差ができてしまったこの世の中で、上の者が下の者と関わるのはただでさえ外聞の悪いことである。ましてや情を交わすことなど。それゆえ紫野宮は屋敷の主と同時に幽のことも二人の子どものことも闇に葬ってしまいたかったに違いない。
だから、〈狼〉を送り込んだのだ。ほぼ当たっている確信のある推測を、幽は大鳥に話した。
「それが本当なら」
やがて大鳥が噛み締めるように言った。「あのお方はお前らが死んだかどうか〈狼〉に確かめる」
幽は静かに頷く。「わたしたちを逃がしたことがわかったら、あなたが危ないわ。早く戻ったほうがいい」
忠告を聞き入れたのか、大鳥が無言で身を翻す。斬りかかってくることも覚悟はしていたが、彼はそうしなかった。ただその瞳に複雑な色を浮かべてちらりと幽を見、そのまま家を出て行った。
「大鳥!大鳥はいるか!」
〈狼〉隊舎。講堂に黒い軍服の男たちがずらりと並んでいる。その列の間を歩きながら、頭首は刃のような声でしんと静まった空気を裂く。
「いないのか、大鳥!返事をしろ」
「ここに!」
講堂へ駆け込んだ大鳥は声を張り上げた。全員の視線がばっとそちらを向く。
「今までどこへ行っていた」
頭首の隻眼が大鳥の頭から爪先までを見透かすように貫く。
「個人的な用事です。申し訳ありません」
敬礼した大鳥に、頭首は小さく口角を歪めただけだった。臨時の集合であるため叱責も体罰も赦されたようだ。
「政府から火急の命が下った。獲物の中に女子どもの三人連れはいたかどうか確認しろということだ」
やはり、彼女の言った通りだ。
「ここにいる全員は見覚えがないと言っている。あとは貴様だけだ、大鳥」
「……」
『わたしたちみたいな下の人間との関わりは汚点だから』
表面上はなんでもないことのように、彼女は笑った。
なんでもないことのはずがあろうか。
かつて愛した男に、自分だけでなく子どもの命をも狙われるなど。
大鳥は自分で自分が信じられなかった。今まで政府が命ずるままなんの疑問も抱かずに人を殺めてきた、そんな自分が初めて獲物に情を感じ───あまつさえ政府に決定的に逆らおうとしている。それでも目が醒めたように思う。
政府は間違っている。
───どう間違っているのかは、はっきりとは分からなかったが。
「自分は一切見ておりません」
しっかりとした口調で、大鳥はそう答えた。頭首は信じたのか疑っているのか、どちらともとれない微妙な顔をして大鳥から視線を逸らし、大勢の〈狼〉へ向き直る。
「誰も見ていない。そう政府に伝える。次の命が下るまで隊舎で待機しろ。解散!」
どうすればいい。
彼女らを守るにはどうすればいい。
大鳥は次の命が下るまで毎日、隊舎の稽古場で〈牙〉を振るいながらずっとそう考えていた。彼女が見せた切なげな笑みが、精一杯強がっていたのだろう笑みが、大鳥の瞼の裏に焼きついていた。
力が欲しい。
権力にも、骨の髄まで刻まれた政府への恐怖にも抗える強い力が。
―――一介の〈狼〉には分不相応な望みだと、よく分かってはいたが。
いっそ紫野宮がこのまま忘れ去ってくれたら、と願った。彼女のことも二人の子どものことも忘れて、放っておいてくれたら。
しかし無慈悲にも、その願いは打ち砕かれた。
「政府から命が下った」
数日後、再び〈狼〉たちを講堂に集めて人相書きを配り、頭首は高らかに言った。
「和泉幽、結、祐。この三名を捜し出し、始末せよとのことだ」
「オートリさん!?」
幽の家を訪れた大鳥を出迎えたのは祐だった。
「どうしたの」
「お母さん、いるか」
慣れない柔らかな口調で話しかけると、祐は「ちょっとまって」と家の中へ戻っていく。
「おかあさーん、オートリさんが」
大声で母を呼ぶ声がよく通り、大鳥の耳にまで届く。やがて幽が祐と入れ違いに姿を現した。
「こんにちは、あの、どうかしました?」
「逃げるぞ」
単刀直入に、大鳥は告げた。
「え」
当然のことながら、幽は状況が呑み込めず首を傾げる。「どういう意味ですか」
「お前らを捜し出して殺すよう命令が下った」
───幽はほんの一瞬動揺を見せたが、冷静だった。
「……知らせてくれて、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げると、話は終わったとばかりにくるりと回れ右をする。
「待て」
その華奢な背を、大鳥は呼び止めた。
「なんですか」
「俺は『逃げろ』とは言っていないぞ」
幽は少しその言葉の意味を考え、大鳥の発言を反芻して───今度こそ愕然とした。
「駄目です!そんなことしたら」
必死の訴えに、大鳥は笑った。
「俺は割と優秀な人材なんだ。護衛くらいにはなるだろう。それに……あの子たちの、父親の代わりにも」
ためらいがちに言ってしまってから、ばつが悪そうに目を逸らし呟くようにたずねる。
「……俺が傍にいては嫌か」
幽が顔を歪める。
「そんなわけないじゃないですか」
「ならいいだろう」
「でも」
「でもじゃない。〈狼〉が一体何人いると思ってる。子連れの女が一人で躱せる数じゃない」
「そしたら、あなたが」
幽は今にも泣き出しそうだった。白い拳を強く握り締め、こみ上げるものをせき止めるように目元にあてがう。
「……どうして」
どうしてここまでしてくれるのか。
彼女がそう言いたいのは痛いほど分かった。大鳥は口端に淡い笑みを浮かべてあっさりと答える。
「なぜだろうな」
わからない。
それでもこのまま見過ごしたくはなかった。
「ユイとヒロ、連れてこい。今すぐ出発する」
「どうして逃げなきゃいけないの?」
森の奥、人通りの少ない山道を四人で歩く途中。結が発した疑問に、幽は答えることができなかった。
「わたしたち、何も悪いことしてないのに」
結は賢い娘ではあったが、そういう世の中だからと諭すのも大人げない。
「……ごめんな」
大鳥が呟くように詫びる。彼が謝る筋合いではないのにと、幽はやりきれない思いを抱えつつ歩を進めた。
「ねえオートリさん、おとうさんになってくれるの?」
無邪気になんの疑問も抱かない祐が期待に満ちた眼差しで大鳥を見上げる。大鳥は苦笑しつつも言った。
「安全なところまで、うまく行けたらな」
それは───生きていることができたら、という意味か。幽は思わず彼を見たが、
「やったー!」
それに気づかない祐は純真な歓声をあげた。しかし結はなんとはなしに大鳥の声の微妙な含みに気づいたらしく、不安げな目で母と大鳥とに交互に視線をやる。
「大丈夫だ」
彼女の視線に気づいた大鳥がそっと笑う。鍛え上げられた手が遠慮がちに結の頭へ伸び、彼女の柔らかな髪を撫でた。
その仕草はまるで本当の父親のようで、幽はなぜだか泣きたくなった。
祐がもう歩けないと訴えたことで、日が暮れる少し前に野宿の場所を決めた。
「獣でも狩ってくる。動かずに、ここで待ってろ」
大鳥は三人を茂みへ連れ込み、木の枝や葉などで隠して、一人森の奥へ入っていく。三人は身じろぎもせずじっと息を潜めていた。
風が木の葉を揺らす。鳥の羽ばたきが聞こえる。
───長い時が経ったように思われた。
「……お母さん?」
結がそっとたずねる。「大鳥さん、大丈夫かな」
「大丈夫よ」
幽は娘に心労をかけまいと即答する。
「でも」
結がなおも続けようとしたそのとき、ガサリ、と茂みをかきわける音がした。
「オートリさん?」
祐が弾んだ声をあげ、止める間もなく茂みから出る。
───違う。
彼の気配ではない。
「祐、だめ!!」
幽は叫んで飛び出した。こちらを振り向いた祐を視界に捉えた刹那、脇腹に強烈な蹴りを食らう。
「ああっ!」
「おかあさん!」
「なんだこいつら」
黒革の軍靴が倒れた幽の肩を踏みつけた。もう一人、大鳥と同じ軍服を着た男が祐の頭を乱暴に掴む。
〈狼〉だ。
「おい見ろよ」
祐を捕まえた男が、軍服の裏から擦り切れた紙───おそらくは人相書きだろう───を出し、にやりと笑う。
「そっくりじゃねえか。おい、てめえらがイズミとかいう」
黒い閃光。
「ぐああっ!」
祐を掴んでいた男が突然叫んで地を転がった。幽の真上に立っている男も何が起きたのかわからない様子であたりを見回す。
「な……なんだ、」
次の瞬間彼も吹っ飛ばされて木に背を打ちつける。
「がっ……は」
咳き込んだ男はなんとか足を踏ん張り、目を上げて眦を吊り上げた。
「───大鳥!」
大鳥は幽が見たこともない厳しい表情をしていた。
「てめえ、なんのつもりだ」
倒れた男が呻きながらじりじりと立ち上がる。大鳥は答えず、やおら祐の手を引いて背後に匿った。
二頭の〈狼〉は同時に事情を察したようだった。残忍な光を瞳に宿して〈牙〉を抜く。
「一体どうしたよ大鳥、その女に誑しこまれたか?」
「まあ心配すんな、政府にバレる前に俺たちが殺してやるよ!」
挑発する男たちを無視し、大鳥はただ静かに目だけで振り向く。
「ユウ」
───初めて名を呼ばれた。
「しばらくこっちを見るな。ヒロにも、見せないようにしてくれ」
真剣な声に幽は頷き、這うようにして祐へ近づくと覆いかぶさるように抱きしめた。
「庇ったつもりかよ?」
男が嘲笑し、右牙でヒュンと空を切る。
「どうせその女もガキもてめえも死ぬんだよ!」
「うあああアァッ!」
獣のような絶叫をあげてもう一人が斬り込んだ。大鳥は〈牙〉を抜くと同時にそれを受け、力尽くで弾き返す。
「はっ!」
「うらああっ!」
気合の合間合間に、重い刃鳴りが空気を震わす。幽はしっかりと祐を抱きしめたままぎゅっと目を瞑った。
怖くてたまらなかった。
……何もできない自分が情けなくてたまらなかった。
「おおあああっ!」
大鳥の声とともに肉の断たれる鈍い音、次いでドサリと倒れる音がした。
「てめえ!」
怒気も露わな吼え声、そして───
「ぐあああああああ!!」
びりびりと鼓膜に響いた絶叫に幽は思わず顔を上げた。目の前で、腹から〈牙〉の鋒を生やした〈狼〉が血を吐き白目を剥く。
〈牙〉が抜き取られると、男はそのまま崩れた。
大鳥は無表情で二つの屍を見下ろし、〈牙〉をひゅんと振って血を払った。そして腰に収めると、おもむろに幽を振り向く。
「平気か」
「……はい」
「立てるか」
そう言って幽に手を差し伸べかけ───止めた。
手は血に塗れていた。
「あ……」
幽はかける言葉も思いつかず、ただ大鳥を見上げる。彼はじっと己の手を見つめ、小さく笑んだ。
「洗ってくる」
その笑みが幽に重くのしかかった。
幽たちを庇いさえしなければ、彼の手が仲間の血で汚れることはなかったのだ。
「おかあさん……?」
心配そうに見上げる息子を強く抱きしめ幽は嗚咽を殺した。
もう後戻りできない道に彼を巻き込んでしまったのだと悟った。
夜が訪れた。
木々の葉の隙間から、星の光が零れる。子どもたちの穏やかな寝息を聞きながら、幽はゆっくりと起き上がった。こちらに背を向けて寝ている大鳥の傍らに、〈牙〉が置かれている。さすがに寝るときは腰から外すようだ。
その一振りに、そっと手をかける。結と祐のことを思った。
……悲しむだろうか。
二人の愛しい子どもの姿を、丸くなって上下している背中をじっと見つめる。
泣きそうになった。
それでも、彼らが無事生き延びるためなら。守らねばならない人数が減ることで、大鳥の負担が少しでも軽くなるのなら。
そう心を決め、〈牙〉を持ち上げ───ようとした。
できなかった。
「!?」
幽は愕然とし、今度はのけぞるように全体重をかけて持ち上げる。〈牙〉はわずかに地面から浮いたものの、その刀身を抜いて振りかざすことなど到底できなかった。
「嘘……」
これほどに重い剣を大鳥は腰に下げ、ああもやすやすと振るっていたのか。まるで自身の体の一部であるかのように───いや、実際そうなのだろう。そうなってしまったのだろう。
〈狼〉として生き抜くためには、〈牙〉は体の一部でなくてはならないのだ。
「重いだろう」
突然大鳥の声がした。幽はびくっと肩を竦める。
「二振りを自在に扱えるようになるのに、俺は八年かかった」
そう言ってやっと、大鳥は起き上がって振り向いた。怒っているか悲しんでいるかのどちらかだと思ったが、しかし幽を真っ直ぐに見据える彼の表情はひどく穏やかで、
―――胸を締め付けられた。
政府に人生を奪われたのは彼も同じなのだ。
それなのに自分一人が苦しんでいる気でいた。どうせ不幸な人生だからと投げやりに捨てて、自分だけ楽になって、彼に子どもたちのことを託そうと……押し付けようとしていたのだと自覚する。
自分には子どもたちと共に生きる義務があるというのに。
「……ごめんなさい、」
彼の優しさに甘えようとしていた。
彼には子どもたちを守る義務など、何一つないのに。
「ごめんなさい」
巻き込んでごめんなさい。頼ってごめんなさい。
思いが胸から瞼へとせり上がり涙となって溢れた。両手で顔を覆った幽に、自嘲混じりの言葉がかかる。
「俺は〈狼〉だからあんなことには慣れているんだ。気にする必要はない」
気づいていたのか。
同僚を〈牙〉にかけさせてしまったことを、幽が深く悔いていることに。
「俺にとっては日常茶飯事だ。今まで何人殺してきたと思ってる」
大鳥の言葉は止まらない。
「罪悪感なんてとっくに麻痺した。人を貫く感覚にも血の臭いにも、断末魔の叫びにももう何も感じない。だから」
「嘘よ」
幽は大鳥を遮るようにかすれ声を発した。手を顔から離し、戸惑ったような表情の彼を見つめて絞り出すように語りかける。
「だったらあの時、わたしたちを見逃してなんかくれなかったはずだわ。倒れたわたしを助けたり、子どもたちの面倒を見てくれたりすることも……今こうして一緒にいてくれることも」
───大鳥が目を瞠る。
「あなたは優しい人です。わたしは知ってる」
零れた涙が胸に落ちた。
「だから、そんな悲しいこと言わないで」
彼の中の優しさは、〈狼〉としての任務をこなすうちに押し潰されて行き場を失っていたに違いない。
彼はずっと苦しんできたのだ。
もしかしたら、幽よりもずっと。
───こらえようとしても泣き声は止まらなかった。子どもたちを起こしてしまわぬよう声を殺して、幽は泣いた。
不意に、力強い腕に包まれた。
温かかった。
大鳥は自分で自分の行動に面食らったように肩を強張らせた。咄嗟に離れようとした彼の背を、今度は幽が掴んだ。
「このままで」
このままでいてください。
囁くような懇願を受け入れてか、大鳥はもう一度、幽の肩を抱く腕にそっと力を込めた。
───ぬくもりに包まれて、幽は瞼を閉じた。
懐かしいと思った。幸せだと思った。
昔、こんなふうに優しく抱いてくれた人がいた。
そのまま眠りに落ちるように幽の意識が途絶えると、大鳥は彼女の体を丁寧に横たえ、〈牙〉を掴んで立ち上がった。〈牙〉を両腰に差し、頬に涙の跡を残したまま眠る幽を見下ろす。暗殺を生業とする獰猛な獣の影は微塵もない、それはただ愛しい女を想う青年の眼差しであった。
しかしその瞳から、温かな色が掻き消える。
大鳥は幽に背を向け、夜に紛れるように歩き始めた───
「大鳥さん?」
はた、と彼の足が止まった。
「どこ行くの?」
……結だ。
このまま振り返らずに走り去ろうか、と一瞬思った。しかし結局小さな娘を振り向く。
「ユイ」
眠い目をこすりながらちょこちょことやってくる少女の前にしゃがみ込み、大鳥は鋭く囁いた。
「お母さんが起きたら、俺は一人で逃げたと言ってくれ」
「……え、」
「頼む」
結は大鳥の真剣な表情に気圧されたように後退り、眉を下げた。
「でもそんなことしたら、お母さん悲しむよ?」
率直な言葉に、大鳥は苦しげに顔を歪めた。しかし痛みを呑み込むようにして笑い、続ける。
「それでいい。……いや、むしろ怒ってくれたほうが」
「どうして」
「そうだな、愛想を尽かした、と伝えてくれるか」
「ねえ大鳥さん」
「やっぱり、もう付き合いきれなくなったと」
「大鳥さん!」
結は声を張り上げた。大鳥は我に返ったように瞬きをする。
「なんで?変だよ、なんでお母さんのこと怒らそうとするの」
「泣かれるよりは」
結ははっとした。呟いた大鳥は、今にも崩れてしまいそうに脆い表情をしていた。
「泣かれるよりは、怒っているほうがいいから……」
そう言う大鳥のほうが泣きそうで、結は何も言えなくなる。
「……本当は笑ってくれるのが一番嬉しいんだがな。まあそれはさすがに高望みだから」
彼はすぐ普段の調子に戻り、ぽんぽんと結の頭を撫でた。
「無茶を言ってすまない。でも」
「大鳥さん」
───結の声は既に決壊していて、大鳥は理解した。
この子はわかっている。
大鳥が今から、どこへ向かおうとしているのか。
「……お前は賢いな」
結は両手で顔を覆った。その仕草があまりにも幽そっくりで、胸を衝かれる。幽と祐を起こしてしまわぬよう声を殺して泣く、その心遣いも母の姿をそのまま映していて、痛ましくも愛おしい。
大鳥は結の小さな両肩に手を載せた。
「泣くな」
無理を言っている、と自分でも思った。だが他には何も言えなかった。
「お姉ちゃんだろ。……お母さんとヒロのこと、頼むな」
めちゃくちゃに涙を拭って頷く物分りのよさもさらに痛ましい。ゆっくりとその肩から手を外し、大鳥は立ち上がって踵を返した。……と、
「お父さん」
振り絞るような声がかかった。
「いってらっしゃい、お父さん」
───振り返ることは、できなかった。
大鳥は微かに頷くと、行ってきますと笑った。
「まだ見つからないのか」
執務室。苛立ちを滲ませた声が隻眼の〈狼〉を詰る。
「申し訳ございません」
入口付近に控える〈狼〉頭首は頭を下げ、ですが、と続けた。「……なぜあの一家をお気になさるのですか」
紫野宮は眉をひそめ、くっと右手を動かす。瞬間傍らの部下が動き、手にする杖で頭首の背を激しく二度、三度と打ち据えた。杖先が軍服を裂き、肉を穿って鮮血が散る。
「がっ!はっ、うあっ!」
「許しも得ず口を開くな。不愉快だ」
荒い息で頭を床に落とす頭首を、紫野宮は冷淡な目に嫌悪を浮かべて見、すっと立ち上がった。
「そろそろ会談の時間だ。議事堂へ向かう。貴様も来い」
紫野宮が数人の部下を従えて門を出ると、一頭の〈狼〉が堀を挟んだ橋の向こうに直立しているのが見えた。
「なんだあれは」
紫野宮は目を眇め、低く背後の頭首に問うた。
「は、あれは……」
頭首も目を細めるようにし、答える。
「大鳥と申す者かと」
「部下の躾がなっていないようだな」
「申し訳ございません」
すぐさまその場に跪こうとする頭首を紫野宮は顎で促した。
「目障りだ。片付けろ」
「承知致しました」
頭首はじゅらりと金属音を立てて〈牙〉を抜き、一歩踏み出した。
───その瞬間、大鳥がその場に跪いた。
「……なんの真似だ、大鳥」
頭首の声が聞こえる。大鳥は地に向かって声を張り上げた。
「お頼みしたいことがあって参りました」
そして顔を上げる。
「どうか、あの三人をお見逃しください」
「!」
頭首は片眉を跳ね上げたが、紫野宮は無表情を崩さなかった。しかし声は届いているはずだ。そう信じて続ける。
「彼女らはこれから、あなた様の邪魔は一切せずひっそりと生きていく所存にございます。今は疎遠になろうとも、かつては愛し合った間柄であるはず。お慈悲をおかけください」
息もつかずに言い切り、もう一度、深々と頭を下げる。
「どうか、お願い致します」
沈黙───そして。
「〈狼〉の分際でこの私に指図するな」
紫野宮は氷のような声で言った。
「今すぐに赦しを乞え。さもなくば殺す」
頭首が橋を渡って近づいてくる気配がする。大鳥はじっと動かなかった。
力が欲しい。
大切なものを、守れる力が。
───大鳥はばっと立ち上がると〈牙〉に手をかけ一気に抜いた。
「!?」
その場にいた全員がざわめく。
〈狼〉が、政府への絶対服従を刷り込まれた獣が主に逆らうことなど想像もしていなかったのだろう。
「政府に〈牙〉を剥くことがどういうことだか分かっているのか、貴様」
頭首が静かに、冷たい声音で問う。
大鳥は低く唸って───地を蹴った。
『あなたは優しい人です』
心の奥底の、ずっと忘れていたものを呼び覚ますような、声。
『わたしは知ってる』
「───うおおぉぁぁあああああああ!!」
大鳥は咆哮をあげ、全身の力を振り絞って〈牙〉を薙いだ。
「……!」
幽ははっと目覚めた。
朝陽が眩しい。上体を起こすと、小鳥が可愛らしいさえずりをあげて飛び立つ。
なんの夢を───見ていたのだったか。
とても幸福だった気がした。けれどはっきりとは思い出せなくて、幽はただ傍らの祐の背をそっとさする。
「お母さん」
結の声がして振り向くと、倒れるように胸へ顔を押し付けてくるので驚いた。
「結?」
「大鳥さん……大鳥さんが」
結はこらえかねたように泣き声を漏らした。そういえば大鳥の姿がない。
「彼が、どうしたの」
宥めるようにたずねると、結はしゃくりあげながら答えた。
「大鳥さんが、あ……愛想つかした、もう付き合いきれなくなった、って」
幽は目を瞠った。
「そう……なの」
「でもね、でも本当は」
必死に言葉を繋いで顔を上げた結は言葉を失った。
幽は微笑んでいた。
悲しみは感じなかった。
怒りも沸かなかった。
これでいい。
そう、これでよかったのだ。
あの心優しい〈狼〉が、無事生き延びてくれるなら。
なぜ。
初めて会ったとき、見逃してくれたのか。
自分を家まで運んでくれたのか。
子どもたちの面倒を見てくれたのか。
絶対君主である政府に逆らってまで、その手を仲間の血で濡らしてまで、守ってくれたのか。
わからないと、なぜだろうなと、彼は笑ったけれど。
幽には分かる。
それは偏に彼が優しい青年だからだ。
政府の権力にも、骨身に滲みた痛みによる恐怖にも立ち向かえる、強い優しさを持っているからだ。
昨夜のぬくもりは幻だったのかもしれない。それだけは少し寂しいけれど。
たとえ幻だったとしても、きっと一生忘れることはないから。
───憚ることのない泣き声が不意に幽の耳を打った。
「結?」
結は幽に縋り、うわああ、と声をあげて泣く。普段は大人びた娘の幼子のような振る舞いに、幽は思わず頬を緩めた。
「一体どうしたの」
だって、と少女は涙を拭い、泣き笑いを浮かべた。
「───お母さんが、笑ってるから」
読んでいただきありがとうございます。
暗殺組織とか大好きです。戦闘シーンを書くのは楽しいのですが、なかなかうまくいきません。精進します。
楽しんでいただけたなら嬉しいです。