第八話
玄関ではキャリーおばさんが周囲を見渡していた。異様な光景だ。
「おばさん!」
フォールズさんから大きく離れて、僕はおばさんの所へ走った。
「アラード君! よかった、あなたがきてくれて。フォールズさんも一緒なのね」
「ええ、キャリーさん。その様子だともう事件の事はご存知かな」
「私だけじゃない。皆知ってるわ」
「誰から聞いたのかね」
「連絡網で回ってきたのよ。多分、ほとんどの町の人が知ってると思うわ」
「おばさん、レーシャは?」
業務的な話よりもまず、彼女がどうしているかが非常に気になった。
「家で大人しくしてるわ。マイの部屋で絵本を読んでると思う」
「取り乱してない? すごく怯えてたり」
「そんな事はないわ。でもアラード君が傍についていた方が彼女はもっと安心できるかもしれないから、とりあえず家にあがってちょうだい。私はもう少しフォールズさんに聞きたい事があるから」
おばさんから許可をもらって、僕は速足で家の中に入った。こんな時でもスリッパに履き替えるのを忘れず、マイの部屋に向かった。キャリーおばさんが言っている通り、大人しくしているのだろうが、どうしても早く顔を見なければならないと思った。
「レーシャ、大丈夫かい?」
まず僕は扉の外から声をかけた。
「アラードかしら。私は平気。入ってきていいわ」
落ち着いた態度とは程遠い勢いで扉を開けた。きょとんとした顔のレーシャが僕を見ていた。
「そんなに慌ててどうしたの」
「怖がっているんじゃないかと思って心配だったんだ。昨夜だって君の事が気になって眠れなかった」
「心配性なのね。そんな事より、どう? マイにリボンつけてもらったんだけど」
「似合ってると思うけど……」
炎が消えてしまった。めらめらと燃えていた僕の心は冷めて、疲れが押し寄せてきた。レーシャは全然、ダメージを負ってはいなかったのだ。今まで通り平然と、リボンをつけてもらった事を喜んですらいる。緑色のリボンで、髪がまとめられていて、マイのセンスは上品だ。
「君は平気なのかい。キャリーおばさんから聞いたよね。この町で、事件が起きてしまったこと」
「聞かなくてもわかったわ。おばさんがおじさんに電話してたんだけど、その時に聞いてしまったの」
「怖くない?」
「実感がないわ。アラード。今あなたが心配しなくちゃいけないのは、私よりもマイじゃないかしら。しんでしまった生徒は、マイじゃないわよね?」
「マイじゃない。これははっきりとしている。……確かにそうだな。マイの様子も気になるけど、帰ってくるのを待つしかないのかもしれない」
運動不足を舐めてはいけない。少し体を動かしただけでもう倒れそうだ。階段を急いでのぼっただけあって、僕は床に仰向けで横になってしまった。
「心配してくれたのは嬉しかったわ」
僕の頭の横に彼女は座りなおした。横を向けば、鼻先が彼女の腰にくっつくだろうか。それは問題だな。
「でも、どうして。事件がないというのは、僕たち住民の中では誇りだったはずなんだ。平和っていうのは誇りだった。それなのにどうして事件は起きたんだろう」
「分からないわ。アラードは分かるの」
「分からないから言葉に出したんだよ。出したところで、分からない事には変わらないんだけどさ」
レーシャが無事だという事が分かると、今度はマイの事がこれ以上ないほどに心配になった。事件がいつ起きたのかは分からないが、もし犯人が学校内に潜んでいて、標的をマイにしたら。居てもたってもいられない。しかし僕は無力だ。有力な大人たちに任せるしかない。ヒマイが無事である事をひたすらに祈った。
人生は僕に酷い仕打ちをする。あんまりだ。もし僕に夢がなかったら、自らの手で命を絶つ事すら考えたかもしれない。一体いつから狂ってしまったんだろうか、一切分からない。
今はとにかく無気力だった。何もできない。
「もしもマイも命の危機にさらされていたら、僕はどうすればいいんだ。犯人はとんでもない事をしてくれたな。町の誇りを壊し、しんでしまった生徒の家族も壊した。僕は分かるんだ。突然家族がいなくなったらどうなるか、身をもって分かった。僕が言える立場じゃないが、犯人が恨めしいよ」
「アラードは何も悪くないわ」
できる事がない今、フォールズさんからの報告を待つだけだ。それがどんなに不幸な報告でも受け止めなければならない。マイの無事が分かれば、もう少しは落ち着いていられたかもしれないというのに。
市長のフォールズは秘書のモールズと一緒に学校に向かっていた。市長だという事を学校側に伝えると、すぐに校長室まで通される。
「お待ちしてました、フォールズ市長」
校長よりも先立って言ったのは熟練刑事のアーサーだ。アーサーに続いて校長も頭を下げた。ひどく青ざめた顔をしていた。
「さあさあ座って。フォールズさんには言わなければならない事がいくつかある」
「わるい事じゃないといいんだが」
ドアに平行に置かれた三人用ソファはあまり高品質を感じさせず、黒い生地に簡素な背もたれがついているだけだった。フォールズは警官の横に深く腰を下ろすと、校長と殺された生徒の担任の教師と思われる人物と対面した。
「こちらはミオール君のクラスの副担任をやっていました、ジュリア先生です」
結ばれた一本の長い髪を頭の横に下ろして、ジュリアは胸元まで垂れた髪を撫でていた。市長には慇懃に挨拶をしたものの、不安感は隠しきれていない。
「ではまずフォールズさん、私からお伝えしなければならない事を言っておきましょう」
報告の言葉はそうやって始まった。
「一つ目に、被害者は一人であるという事、これは確実です。二つ目、犯人はまだ見つかっていませんが、確保までそう長くはかからないでしょう。三つめ、これはとんでもない暴論だとは私も思っているのですが、お伝えした方がよいと思いましたのでお伝えします」
「どんな暴論なんだね」
「言いにくいのですが、レーシャという人物が一部の生徒達から犯人ではないかと言われていて」
「とんでもない推理だな、それは」
昨夜、アラード達が市長の家から帰った後、彼はすぐにアーサーへとレーシャの事を伝えて身元の特定を頼んでいたのだ。だからアーサーはレーシャという人物について、記憶喪失の少女という事だけは知っていた。
「もちろん、ただの戯言だとは思っています。しかし、一つ問題があるのです。そうですね、校長」
フォールズがしかめ面を校長に向ける。彼は震える手で眼鏡を直すと、深々と頷いた。
「一部の生徒というのが、私ら大人たちも困らせる厄介な人物達でして。それでいて、生徒達から慕われている所がありまして、もしもレーシャさんが犯人だと彼らが広めてしまえば、どんな嘘だとしてもすぐ広まってしまうでしょう。噂はやがて、都市伝説にまで発展する可能性を秘めているのです」
「どうして慕われてるんだね。要するに、不良達なんだろう。不良はたいていの場合恐れられているはずだが」
「仲間思いの不良なんです。私ら大人が子供をこんな風に言いたくはないのですが、彼らは信頼のハイエナなんです」
「あまり納得がいかないのは置いといて、校長が一番問題視しているというなら、大変だろうと思う事にしよう」
かくいうフォールズも噂に対する危機感は分かっていた。仮にレーシャが犯人だという噂が広まったとする。あくまで子供が流行らした事なのだから、無問題ではないかと考えるのは早計だ。子供が流行らせるから問題なのだ。
特にこの港町は犯罪がなかったせいで、犯罪に対する認識も住民は曖昧だった。少しでも誰かが犯人だという言葉が耳に入れば、どんなに根拠がなくてばかげていても完全なる否定はできない。
自然とレーシャを避ける住民が増え始めるという事だ。最悪の場合――それはフォールズ自身も体験している事だった。
「一刻も早く犯人を捕まえなければならない、という事か」
「そういうことです」
相槌を挟んだのはアーサーだ。
「わかった、協力しよう。しばらくの間学校はどうするつもりかね」
「校長と話したのですが、始業を十一時からにして、終了を午後十四時にするよう定めました。また、今日から三日間は自宅学習という事になってます」
「全学校?」
「いえ、第二だけです。今回起きた事件は第二学校の生徒同士によるものだという可能性が極めて高く、第一、第三に被害は加えられないと判断したためです」
「わかった。それで、私は犯人確保までの間どう動くべきか、刑事さんから教えてはくれないか」
「フォールズさんは犯人逮捕という事よりも、住民の方々の不安を消す事を何よりも考えてください。前回のアラード君の時の事件のように、遺体を発見した不幸な生徒の心のケアも必要でしょう」
「他には?」
「夜間と早朝の町内警備を徹底してください。これはボランティアを募集すると良いでしょう」
「分かった。私ができる事といえば、それくらいだろうか」
「他にも思いつく限り案があれば私に連絡ください。ではそろそろ調査の方と合流しますので、ここで私は退く事にします」
アーサーが立ち上がり、扉から外に出ようとした所でフォールズは呼び止めた。
「マイ君の所に連れていってはもらえないか」
「アラード君を心配させないように?」
「さすが、理解が早い」
校内にはまだ警官が複数人残っていたが、生徒に不安を与えないための配慮のためか騒がしい捜査は行われていなかった。のんびりした雰囲気が漂っていたが、どれも演技によるものなのだろう。大勢の警官が押し寄せて深刻に顔を見合わせて靴底をすり減らしているよりは落ち着ける。
三年生の教室は五階にあり、アーサーに言われてフォールズは教室の前の廊下で待たされた。しばらくして教室の中からアーサーと一緒にマイが顔を見せた。
「呼び出してしまってすまないね、クラスのみんなには誤解を与えないよう配慮しておこう」
「大丈夫。私はそんな事しないって友達はみんないうからね」
クラスで突然、一人の生徒が呼び出されるという事はクラス全員に誤解を与えかねないと市長は思慮を巡らせたが、マイの人間性を疑う人物は確かに、あまりいなさそうだ。
「元気そうで何よりだよ、マイ君」
「もしかして、アラードに様子を見てきてくれって?」
「キャリー夫人からの伝言だ。アラード君も心配しているだろうが、大丈夫だって私から言っておこう。当分の間は帰れそうにないだろう?」
「うん。友達がちょっと怖がってて。近くにいてって言うから、帰ってって言われても帰れないかも」
「それならば友達の近くにいてあげなさい。すぐ戻ってあげた方がいいね。私はこれから君のお母さんとアラード君に君は無事だと伝えておこう。君は早く、友達の所へ」
「そうする。――あ、そういえば」
教室の扉に振り返って手をかけた瞬間、マイはもう一度市長に体を向けた。
「レーシャが犯人だと言ってる人達がいた。そいつらを黙らせてやって」
「ご立腹だね」
珍しくマイは不機嫌な様子をあからさまに表に出していた。
「当然。怒ってる。もしレーシャの耳に入ったら絶対彼女は悲しむよ。しかも、あいつらは色々な人に言ってる。もちろん信じてる人はいないだろうけど……でも、そんな事を言うあいつら自体、信じらんない」
「こらこら、怒るのは当たり前だが、あまり憎悪の言葉を口にするんじゃない。君の魅力が台無しだよ」
「うん……。じゃあ、私は友達の所に戻るね。フォールズさん、アラードによろしくね」
扉を開けて中に入っていったマイの背中には、はっきりとは見えないが何かの文字がぼんやりと浮かんでいた。服に刺繍がしているのではない。はっきりとしない言葉のような物を感じ取れたのだ。
ぼんやりと二人の会話が終わるのを見届けていたアーサーの肩の上に、フォールズの手が乗った。
「アーサー君。よろしく頼むよ」
「ええ、勿論です」
学校から去る時、フォールズは自然と早歩きになっていた。誰が言ったわけでもないが、この事件にはタイムリミットがあるように感じられたのである。




