第七話
朝食を食べ終えたから、皿をシンクに持っていき、洗わなければならない。いつものようにスポンジを使って、白い皿を擦るのだ。窓の近くの日差し幹、太陽の光があたる室内乾燥場に持っていけば朝はそれ以外にやる事がない。
しばらくの間、全然動く事ができなかった。レーシャに会うなという父からの重い一言が、衝撃を吸収しきれず胸の奥に響いたせいだ。椅子から動くためには反抗しなくてはならない。それは簡単だ。マイの家にいって、レーシャに平然と会えばいい。反抗するのが簡単じゃないからずっと立てずにいる。
子供の頃、父の姿は偉大だった。僕は憧れを持ち、尊敬し、反抗期も一カ月程度で終わった。十五年間、ずっと同じ想いを抱き続けてきたのだ。数年父が急変したところで、僕の想いは変わる事はない。尊敬している相手に歯向かうなど考えられもしなかったし、したくもなかった。
レーシャはなんていうだろうか? もし彼女と僕が話しているところを父に目撃された時点で、家から追い出されるだろう。追い出されるだけだったらまだ良い。
昨日マイと約束したじゃないか。一緒にレーシャの故郷を探すと。探している期間中、レーシャを守る事、という意味も約束の中に含まれている。僕は早速破るつもりなのか。
何もできないまま時だけが過ぎていく。とんでもなく時間というものを無駄にしている気がして焦った。じゃあ何かすればいいが、何をすればいいのかが分からない。でも何か動きたくて、僕は机の上に突っ伏した。冷めた紅茶のカップに指が触れた。
「アラード君、いるかね?」
市長、フォールズさんの声が聞こえた。反射的に椅子から立ち上がった。
「はい、います」
急いで玄関に向かい、扉を開ける。朗らかに頬をゆるませたフォールズさんがいた。
「おはようございます、フォールズさん」
「おはよう。元気かい」
嘘をついて笑顔を作ろうと思った。僕は驚いたのだが、今まで嘘の笑顔はひどく簡単に人前に出す事ができたはずが、今は全然できなかった。できそうになかった。僕は素直に首を振った。
「町を散歩していたらね、君のお父さんに会って、レーシャと君を会わせないように私に言ったんだよ」
「僕も今朝、言われました」
「心優しい君の事だから、ひどく悩んでるんじゃないかって思って、きてみたんだ」
寒い風が入ってきているはずなのに、感じなかった。
「おいで。少し町を散歩をしよう」
「はい」
外套を羽織って、温かい服装をして僕とフォールズさんは肩を並べた。身長は同じくらいだろうか。
「父の言う事も守りたいと思います。ですが、僕個人はレーシャも守りたい。どうすればいいのか、全く分からないんです」
「家族を取るか、見ず知らずの他人を取るか……。いや、他人というのは失敬だね。困っている人を取るか」
「はい。どっちを取る事は、できないのでしょうか」
「例えば、父親に隠してレーシャ君に会うという選択もできる。それは君もわかっている事だろうが、したくないんだろうね」
「父に嘘をつくくらいなら、お仕置きを受ける方がマシです」
「でも、もし嘘が父親に知られなかったら、君は家族も困っている人も助ける事ができるね」
バレなくても、嘘をついたという事実は僕の中に残り続ける事になる。
選択肢が三つに増えた。家族、レーシャ、自分。この中で傷つけるとしたら、誰?
「いいかい、一生涯で人間が救えるのは一人が限界なんだ」
「え?」
「どんなに偉くて、知恵があって、強い人間も、一人しか救う事ができないんだ」
僕はどうしても反論したくなって、口を出した。
「ですが、音楽とか絵とか、良い作品が人の心の支えになって救う事だってあるはずです。有名な画家は、たくさんの人を救ってると思うんです。レスキュー隊員の人だって、警察官の人だって、何人もの命を救ってるはずです」
言い返してしまった詫びとして最後にこう続けた。
「市長だって多くの民間人の方を救ってるはずです」
「誰一人として助けられていない。皆が皆を救い合っているんだよ。この港町に限った話じゃない」
「どういう意味ですか?」
「私は、この世界の人間の心は輪になってると思っているんだ。一人一人が横に並んでいって、お互いの手を握り締めて。その輪は一度崩れてしまったら全てが無になる輪。だから人間は崩さないように、必死に手を繋いでいる。輪になった人間の、横にいる人物が、今自分が救っている人なんだ」
「輪になっているなら、左右どちらにも人間はいます。二人の人間を救っている事になりますが」
「いや、もう片方は自分を救っているんだ。この世界は、そうやってできていると私は確信しているんだよ」
今のフォールズさんの話を脳内で絵にした。たくさんの人間が、世界中の人間が輪になっている。その中に僕がいて、友達がいて、家族がいる。もしかしたら猫や犬や、虫も混ざっているかもしれない。
「でも、僕は誰も救っていません。僕は誰と手を繋いでいるのか分からないです」
「それは今、アラード君は本当の意味で人を救うという事を知らないからだよ」
「……わかりません、本当の意味というのは」
「だから今君は誰と手を繋いでいるのか分からない。でもそれは仕方のない事なんだ。まだ若いからね。もし隣にいる人達が見え始めたら、何をすべきか分かってくるはずだよ」
さすが、年長者の話は質が違った。マイやピータとは全然、こんな話はできない。
「自分の悩みを思い返してごらん」
三つ巴の、誰を傷つけるか。それが要約された僕の悩みだ。
「フォールズさんの話では、誰かが必ず僕を救ってくれているんですよね」
「そうとも」
「レーシャの所に向かいます」
声をはっきりとさせた。なんの物音にも掻き消されないために。
「そうか、そうか。それも良い。父親にはなんて説明するつもりかな」
「レーシャの面倒を見る事に使命感を得た、と言います。素直に」
散歩は最高のイベントだ。気分が晴れるだけでなく、色んな人との交流ができるし、おまけに体力もつく。交流ができるという事は、知識も増えるという事だ。フォールズさんは改めてそう実感させれくれた。迷ったら散歩だ。
マイの家まで一緒についてきてくれる事になった。その道を歩き始めて、一分も経たないうちに一人の若い男が息を切らして前方から走ってきていた。彼は確か市長の秘書だったはずだ。
「フォールズさん、大変な事になりました」
「落ち着きなさい。一体何があったっていうんだね」
「アイラル第二教育学校にて、遺体が発見されました。警官は他殺と判断しています」
「何? 他殺?」
信じられない。僕は気持ち悪い予感がした。
「学校中の見回りが終わり次第、生徒たちを全員家に戻す方針を学校側はとっています」
「遺体の身元は分かるのかね」
「はい。ミオール・ランという生徒でした。それ以上はまだわかっていないというのが警官からの言葉です」
ついに起きたんだ。殺人事件が存在しなかったこの町で、ついに、人間の悪が表に出てきた。
「アラード君、君はすぐにマイ君の家へ向かいなさい。私は学校に向かって生徒たちに会ってくる。確か、マイ君は第二学校の生徒だったね」
「そうです」
「なら傷心してるだろう。レーシャ君も怯えるはずだ。そして、いいかい、絶対表に出てはならない。マイ君の家まで向かおう」
不謹慎な事は承知の上だが、殺されていたのがレーシャやマイじゃなくて本当によかった。ピータは第一学校だから安心だ。ミオールという生徒は聞いた事もないから、あまり感情移入ができないが、気の毒だろう。一番最初に殺されたとして、負の歴史として記録される事になるのだから。
港町の学校で、僕の知らない生徒が何者かに殺害された。ただそれだけだというのに、僕の胸騒ぎは収まらなかった。




