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第六話

 僕が起きたのは日光が部屋の中に侵入する頃だ。朝九時前後の事である。昨日は睡眠の質があまりよくなかったせいでベッドから体を起き上がらせるのが申し分ないほどに面倒だ。

 学校に通っていたころは七時に起きる必要があって、そのときは辛い物だった。僕の朝の体は行動力が壊滅的で、思考能力も平均よりもかなり落ちているだろう。つまり朝の僕はマヌケで阿呆なのだ。朝に弱いというのはこの事だろう。

 毛布を捲って、窓に向かって大きく背伸びをしてから着替えを済ます。室内の肌寒さが良い具合に脳を覚ましてきた。パジャマから普段着に身だしなみを変換すると、歯磨きをしに洗面台に向かった。

 朝食の席にいたのは父だった。

「おはよう。今日は早いんだね」

 父よりも早く、僕は言葉を出した。

 父の平均起床時間は昼頃だ。一時とか、二時とかだと思う。思う、といったのはそのころ僕は外出しているので気づかないだけだ。

「座れ」

 机の上には何も用意されていなかった。僕は怖気づくのを隠して、椅子に座った。

「あの女とは金輪際会うな」

「どうして。レーシャの事だよね? そんなひどい事言わなくてもいいじゃないか」

「奴は俺たちを陥れたあいつらの差し金に決まってんだ。だから関わるんじゃねえ。わかったか」

 あいつら、とは隣町の例の夫婦の事だろう。

「分からないじゃないか。そんなの憶測だよ」

「お前は黙ってろ! いいか、俺の言いつけを破ってみろ。生まれてきた事を後悔させてやる」

 心が止まったような気がした。どんなにマヌケでも、阿呆でも言葉を理解する事は容易い。誰が、僕とどんな関わりを持つ人物が一体何を僕に言ったのだろうか。こまごまと分析する事はできなかったが、今はその必要がなかった。

 僕の父が、言ったのだ。


 卒業式の日、母は家でホームパーティの準備をするといって忙しなくしていたため、式にきたのは父だけであった。兄は父の事業の手伝い。

「父さん、ビデオを回すのはちょっと恥ずかしいから、やめてくれよ」

「いいじゃないか。ほら、良い笑顔だぞ~!」

 そもそも卒業式に親が来る事自体気に障る事だったが、父はかなりうまい具合に僕の友人達と溶け込んでいて、過保護なアラードのおじさん……ではなく、愉快なカメラマンのおじさんとして他生徒たちの目にうつっていた。

 僕の父と同じ雰囲気の友人が、僕と肩を組んでアクション映画主人公の物真似をするのだ。そうすると父はもう子供のようにはしゃいで、ああもう僕はどんな顔をすればいいのか。

「アラードの友達は良い奴ばっかだな!」

 こう言われたのは、少し嬉しかった。

 熱狂的なイベントが終わり、校門前で待っていた父と合流した。

「帰ってるかと思ってたよ」

「少し話がしたくてな。帰り道、カフェに寄ってかないか。ほらお前、夢を追うんだろう。その事についてさ」

「え、うん。いいけど」

 不安な想像が身を怯えさせた。今になって、もしかしたらだめだと言われるのかもしれないと思ったのだ。何かあったのだろうか。収入源が途絶えるような大変な事が何か起きて、夢を追っている場合じゃないのかもしれない。

「大丈夫。そんな心配させるような事じゃない」

 バスに乗って七分揺られた後、普段僕が降りる駅よりも前に父と一緒にバスを降りた。三分歩いて、カフェに到着するが、入り口の扉が低く身長の高い父は若干頭を下げて入らなければならなかった。マスターが僕たち二人に挨拶とウィンクを贈る。

「窓側の席と室内側、どっちがいい? アラード」

「室内がいいな」

 客はちらほらと見えていた。僕の高校の生徒の姿もあった。

 僕の希望通り窓側から離れた席に座ると、まずオーダーする。僕はサンドウィッチとホットコーヒー。父はフライドチキンを頼んでいた。

「どうして、絵の道に進もうと思ったんだ?」

 なんとなく頭が冴えていたのか、父がどうして帰り道にここに寄ったのかが分かった。この前の家族会議の続きなのだ。会社にいくか、絵を極めるか。その時は絵を極めると言って、簡単に理由を話して終わりだった。

「絵を描くのが好きなんだ。えっと、こういうのもなんだけどさ。会社にいって、パソコンをいじるだけじゃ退屈だし、つまらないと思うんだ」

「つまり、会社にいくのがつまらないから、好きな絵の道に進もうと思ったのかい?」

「えっと……」

 なんだか責められているような気がして、急激に僕は焦り始めた。

「なあ、アラード。俺はな、アラードが絵の道に進もうと思ったのは、ただ会社通いが嫌いだからという理由だけじゃないと思ってるんだ。アラードは嫌いな事から逃げるほど臆病な奴じゃないはずだよ」

 急激に焦ったかと思えば、今度は急激に平常心を取り戻した。改めて、会社が嫌いだから、という理由以外の理由を探した。

 そしたらあったのだ。

「昔、父さんを見て、自分一人だけで約束したんだ」

「俺を見て? もっと具体的に教えてくれよ。俺にもわかるようにな」

「僕が小さい頃、父さんは一生懸命、本当に一生をかけて絵を描いてた事を覚えてるんだ。たまに休憩もしてて、遊んでたところもあったけど、父さんが必死に夢を叶えようとしてた事、覚えてるんだ」

「ははは、懐かしいな。結局、何もできず終わってしまったんだけどな」

 リーマンショックが切っ掛けだった。当時の事は覚えていないが、母が悲しみに明け暮れていた事は、幼い頃の僕が見る世界の中で最も強烈なものだった。父はそんな母を支えたが、結果的に父も最後には悲しみに触れる事になった。夢を捨てなければならなかったのだから。

「筆とか、絵の本とかを中古品屋に出すとき、父さんはすごく寂しそうだった。そのとき思ったんだ。もし僕が絵描きになれば、父さんも喜ぶんじゃないかって。それで、自分と約束したんだよ。将来、絵の世界で成功するんだって」

 続けざまに話しているとき、父の顔を見る事はできやしなかった。父がどう思っているかを知るには、言葉に頼るしかなかった。僕の告白を聞いて、何を言うのだろう。

 カフェの扉が開いて、女性のグループが三人中に入ってきた。紳士的なマスターが"いらっしゃい"といって、彼女たちは好きな席に座る。

「一昨日の事なんだけど」

 聞こえてきた言葉は、最初は自分の物かと思った。沈黙に耐え切れず、口走ったのかもしれないと思った。間違いだった。

「母さんとも話したんだ。俺はこれからアラードがしようとした事をやっていて、母さんはそんな俺を見守ってくれた」

 父はいつも、自分の妻の事を母さんと呼んでいる。

「だから二人とも、夢を追うのがどれほど大変で苦しいか知ってる。正直いうと、会社にいって退屈をしている方が気楽だと思えた時期があったんだ。――ああ、ちょっと待ってくれ。母さんからメールだ」

 返信の文をかいて、再び言葉を僕に向き合わせた。

「一ヵ月かけて完成させた絵を、踏みつぶされる事もあった。一年かけた絵を燃やされた事もあったんだ。俺は悲しいというよりも、悔しかったな」

「知らなかった、そんな事があったなんて」

「教えなかったんだ。アラードやフューリーには社会の醜さを教えたくなかったからなんだ」

 フューリーというのは、僕の兄さんの名前である。

「弱気な姿を見せたくなかったからっていうのも、あるんだ。えっと、だからな、母さんと二人でこんな話が出たんだ。アラードにそんな厳しい思いをさせていいのかって。親として、子供に辛い思いをさせるのはどうなんだろうってな」

「大丈夫だよ。僕は、頑張るから」

「ああ、俺は今日お前が頑張れるかどうかを知りたくてこんな思い切った寄り道をしたんだ。そしたらなんだ、本当に頑張れそうだなアラード」

「心配しないでよ。クラスの中で一番絵がうまいって先生に言われた事もあるし、コンテストに応募して二次選考を突破したこともあるんだよ。まあ、結局失敗しちゃったけどさ」

「それに、俺は嬉しい。俺の夢をお前に託してもいいなって、そう思った。やるな、アラード」

「いやあ」

 楽しい雰囲気の中、マスターは良い香りのするメニューと同時に最高の笑顔をもってきた。

「応援してますよ、アラード様」

「き、きいてたの?」

「ここのマスター、とんでもなく耳がいいんだ。結婚前、母さんの誕生日にこのカフェでプレゼントをした事があるんだが、なんてこったマスターはクラッカーを持って登場した事があるんだ」

 なんて陽気なマスターだろうと思っていると、父の携帯がまた鳴って、母からメールが来た事を知らせた。そのメールをみた途端、父は幸せそうに、思わずくすりと声が出てしまうほどの笑みを浮かべた。

「どうかしたの?」

 マスターは先ほど入ってきた女子組に呼ばれてどこかへ行ってしまった。その隙に、という訳ではないが、メール内容が気になって尋ねた。

「さっき母さんから、話し合いはどうなったってメールがきたんだ。それで俺は、さっきアラードがいった言葉を要約して伝えたよ」

「なんて伝えたのさ」

「俺の夢を代わりに叶えたいから、その道に進むらしい……ってな」

 ちょっと体温が上がった。

「そのう。なんか恥ずかしいからあまり言わないでくれよな」

「まあいいじゃないか。それでそしたら、こんな言葉が返ってきたんだ」

 父はモニターを僕に見せた。

『アラードが生まれてよかったわ』


 気が付けば父はいなくなっていて、僕一人だけがリビングの椅子に座っていた。

 食パンがあったので、耳の部分を切り落としてサンドウィッチのようにして、冷蔵庫の中からハムとレタス、マヨネーズ、トマトを取り出した。そしてからコーヒー豆を出して、お湯を温めて……。

 フライドチキンの代わりに、僕の反対側の席に紅茶を置いた。

 僕はこうする事でしか、自分を癒す事ができなかった。空虚な朝食だった。

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