第四話
これから話す事はとんでもなく残酷な出来事だった。だから僕は、話す前にどうしてもレーシャに言いたい事があったのだ。
「僕はこの町が好きなんだ。どうしようもないくらいに好きだ。だからレーシャにも、良い印象をもっていてほしかった」
潮の産声と月の顔は隣合って、互いに僕らを映している。少しだけ欠けた月の瞳に映った僕の顔は、情けないものだろう。レーシャにそんな顔を見せたいとは思わず、僕は思い切って真正面を向いていた。マホガニー製の長椅子の背もたれは、僕の心をなんと読んだだろうか。
「レーシャ、本当ならこの話は君にしたくなかったんだ。最初は君が信用できないからとか、言い訳したけど、あれは嘘だよ。こんな話をしたら、もしかしたら君はこの町を嫌いになってしまう。そう思って、できなかった」
「どうして私はこの町を嫌いになっちゃいけないのかしら」
「それは、その。僕にもわからない」
夜になるとやはり寒い。二人の吐く息が白い。一刻も早くマイの家に戻りたかった。
「この町は好きかい?」
僕は話の流れを遮り尋ねた。
「好きよ。だって、あなたに出会えたもの」
「おいおい」
「本当よ」
レーシャははにかむ僕にかまうことなく言葉を続ける。
「綺麗で、素敵な人たちがたくさんいるわ。まだアラードの友達にしかあったことがないけど、素敵な人たちがたくさんいるっていう事はわかるわ。直感だけれど」
「そのうち、その直感が正しかった事が分かるよ」
一安心した。レーシャの第一印象が、素敵、ならばどんな話を聞こうとも簡単に印象が崩壊する事はないだろう。
長い前置きか、短い前置きだったかは知る由がない。しかし僕はもう、話し始める頃合いだと思っていた。ここで話さなければリズムが狂うような気がした。
重い口を開く時、僕は少しだけ目を瞑った。
「ここに引っ越してきて、一カ月くらい経った頃かな。今からちょうど二年前。朝。引っ越してからずっと親切にしてくれた夫婦の人達がやってきて、ドライブに誘ってきたんだ。家族全員で。父、母、兄、僕だ。日帰り旅行って聞いたから、僕たちは喜んでドライブに連れていってもらったよ」
「夫婦の人達も、優しい人だったの?」
「一カ月の間はね。荷物を運ぶのを手伝ってくれたり、オススメのレストランや僕のスケッチスポットを教えてくれたりして、なんというか案内人といった感じだったよ。マイのおじさんとおばさんと年齢が近かったな。両親と兄がいないとき――ああ、僕の母は車でわざわざ隣町まで仕事にいってたんだ。パートのおばちゃんだね。兄は父さんの事業の手伝い。移動美術館っていう名前の絵画売りをやってて、色々なところで販売期間を設けて絵を売ってたんだ」
「自分で描いた絵なのかしら」
「たぶん父さんはそうしたかったんだろうけど、違うよ。絵を本業にしてる人から買い取った絵を売っているんだ」
そのうち僕も、その移動美術館の作品に並ぶときが来るのかと未来を躍らせていた。心がワクワクしていた時代があったものだ。
「そうやって家族がいない日は、その親切な夫婦が僕の家事を手伝ってくれたんだ。風呂掃除、料理、選択、買い物まで。あと庭掃除。僕は子守りをされるような歳じゃなかったんだけど、絵を描く時間が欲しかったから助かってたよ」
「良い人達なのね」
「ああ」
僕は何も言いたくなくなり、不自然に口を閉じた。その事に自分でも気づかず、レーシャに肩を叩かれる。
「どうしたの?」
自分の情けなさを吐露するのは最大限に苦手だ。だが、話すと言った以上、これ以上彼女を待たせてはならない。
「ドライブに行ったのはよかったんだ。あそこ、見えるかい?」
右手側に見える車道を指して、レーシャの視線をそっちに向かわせた。見えるといっても結構遠くにあるので、目が悪いと中々視覚に入れるのは難しいだろう。レーシャは特に難しくないといった様子で頷いた。
「あの道をまっすぐいくと、山道に出るんだ。森林浴を楽しむはずだったんだろうね。全員が車を降りて、すぐだった。夫婦が動いたのは」
「動いた?」
「なんて、言葉にすればいいのかわからない。ただただ、残酷だったよ」
この町に車が走れるスペースは少ない。だから大体の住民は、町の入り口にある大きな駐車場に車を止めて、そこから出かける。夫婦もそうだった。駐車場から出て、一時間くらい走って、森の中に入る寸前に車を止めて。
脳が思考停止を促した。注意書きを読まされたような気分だった。ここから先の記憶を辿ってはいけないと、脳自らが否定していた。だから声が出なかった。出そうとしても、なんの言葉を出せばよいのか分からなかった。
「あなたのお母さんとお兄さんは殺されたのね」
僕の代わりにレーシャが言った。殺された、という言い方が優しく響いた。
「うん、そうだ。どんな風に、とかは僕は言いたくない。けれど、優しかった父親の性格を変えるほどに残忍だったんだ」
目の前で僕はその光景を見てしまっている。
「夫婦の仕打ちはそれで終わりじゃなかった」
「ちょっと待って。どうしてアラードとお父さんは殺されなかったの?」
「落ち着いてくれ、レーシャ。その理由には夫婦の思惑があったんだ。いや、任務かな」
「どういう意味?」
「この町の法律にはこんな一文があるんだ。市内区域外で発生した事件に関しては裁判を執り行わない、但しその事件の首謀者が住民ならば別。要するに、市の外に出ていて、犯人がこの港町の住民以外ならこの市では裁判を起こす事ができないんだ。夫婦は隣町の住人だったんだ。僕たち家族は隣町の住人だと言われていなかった! そしてよく考えてみれば、彼ら夫婦は港町に住んでいるとも、隣町に住んでいるとも言っていなかった。最高の勘違いをしてたというわけさ」
まだレーシャは納得の行かないような顔をしていたが、強引に僕は話をつづけた。まだ納得がいかなくてもよい段階であったからだ。
「森は隣町の区域だった。だから、本当ならば隣町で裁判を起こす事ができたんだ。夫婦をそこで訴える事ができた」
「今その夫婦はじゃあ、つかまっているの?」
「考えられないような罠が潜んでいたよ」
絵を描くときによく世界の文化等が載っている本やテレビ番組を見て、よくわからない風習や法律がある事等は知識にあった。そんな僕を、隣町の法律は盛大に驚かせてくれた。
「テミス、という苗字の人を罰してはならないという法律が彼らの住んでいる市の掟だったんだ」
「もしかして、じゃあその夫婦って……」
「二人とも苗字にテミスが入っていた」
「どうしてそんな法律が生まれたの? 信じられないわ。おかしい」
「僕もそう思う。テミスというのは、ギリシア神話に登場した神様の名前で、隣町の法律や掟を作ったとされる神様なんだ。苗字がテミスの人はその神様の子孫だとされて、罰する事ができないらしい」
「じゃあ、テミスという人は何してもいいというの?」
「事実上、そうなるな」
「無法地帯の完成ね。スラム街よりもひどいんじゃないかしら」
「僕も最初はそう思ったけど、テミスっていう名前の人はあまり多くないみたいだ。そして数少ないテミス家の人達は大体の人がおとなしく、今僕が話した人達も、命令さえされていなければこんな事はしなかっただろうと思う」
「命令?」
テミス夫婦の最大の目的は、ここにあった。
「この港町はあまりにも評判が良すぎて、他の町が目立たないんだ。だから、評判を落させなければならなかった。隣町は。隣町の市長がテミス夫婦に、この一連の事件を完成させるよう命令したんだ」
「評判は落ちたの?」
「いや、そうはならなかった。なぜなら僕たち家族は反抗したからね。そもそもの話、テミス夫婦が隣町の住人だと知られた時点で市長の計画はお終いだったんだよ。テミス夫婦を港町の住人として、僕ら家族を裏切らせる必要があったんだから。一度港町の住人に裏切られれば、市の信頼を取り戻す事は難しいわけだ」
「よくわからないわ。あなた達が裁判を起こそうとした時点で、夫婦達は隣町の住人だと知る事になるじゃない」
「そう。隣町の市長はトチ狂ってたんだ。そんな欠点にも気づかずに、作戦を実行した。そして最終的に僕の家族の死を無駄死にだと言い払った」
「アラード達が反抗したっていうのは」
「この町を最後まで信じたっていう事さ」
僕の父は家族が亡くなっても、少しの間は復讐心に燃えていた。しかし、事件が幕を引くと途端に無気力感が父を襲い、死人とさせたのだ。
事業はすでに取りやめている。父の独断で。僕の一つの、その移動美術館に作品を販売、もしくは展示するという夢は失われたのだ。
「その夫婦は、今は何してるの」
「のうのうと生きてるだろうね」
僕もしばらくの間は人間不信に陥った。マイやピータの親切心さえ蔑ろにするほどだった。
「僕のお母さんはパワフルで、周囲を惹きつけていた。パート先でも慕われていたな。よく家に友達を連れてきて、お茶会なんかやっていた」
本当に哀れな話だった。
「お兄さんはスポーツマンで、バレーボールをやっていた。港町にきてからは浜辺で僕と一緒にバレーボールをしてあそんだ。ピータも一度だけ仲間に入ったな」
人の夢を奪う話だった。
「僕たちが殺されなかったのは、町で起きた悲惨な事件を他の人々に知らしめるために必要な材料だったからだよ。だから生かされたんだ」
僕は口を閉じた。ようやくレーシャを見る事ができて、正面を向いた彼女を見た。なんの表情も浮かべていなかった。薄情な気がするが、そうしてくれていた方が嬉しい。僕は同情を買うためにわざわざ寒気を我慢していたわけじゃなかったのだから。
「なぜアラードは、その話を聞いて私がこの町を嫌いになるって思ったのかしら」
僕の頭の中で何かが止まった。アニメーションが止まったのだと思った。
「この町の近くで起きた悲惨な事件だ。もしかしたらテミス夫婦のように、君を狙ってる人がいるかもしれない。疑心暗鬼になってほしくなかったんだ。君は純粋にこの町を好きでいてほしかった、ただそれだけだよ」
「アラード、あなた考えすぎよ」
不意にレーシャは顔を僕の方に向ける。白い息と白い言葉が頬に当たった。
「私はこの町を嫌いになんかなってないわ。今までと同じように、好きよ。だから考えすぎね」
「よかった。そうだね、僕もちょっと頭のネジがやられてたかもしれないな」
「芸術家は大体そうだから、いいのよ」
「うーむ、そこは、ネジはしっかりと止まってるって言って欲しかったなあ」
北から風が吹き抜けて、そろそろ寒さの限界値に近づいてきた。そういえば、レーシャはお風呂に入ったばかりなのだ。せっかく温めた体を冷やすわけにはいかない。
「そろそろ戻ろうか。良い香りだ」
スパイシーな香りがする。多分もう料理は完成間近なのだろう。もしまだ完成していないのなら、ちょっと手伝ってもいいかもしれない。
僕はレーシャの手を取って、短い帰路を歩き始めた。
「アラード」
扉から中に入る所で、レーシャが僕を呼んだ。扉を引く手が止まった。
「なんだい」
「大変だったのね。あなたのお父さんも、あなたも」
僕は笑ってこう答えた。
「君には負けるよ」
扉を開けると、中から暖かいマイの家の温もりに包まれて、寒さを一瞬で忘れさせた。地獄から天国に引っ越ししたような、バカンス気分だ。




