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第三話

 どうして女性の風呂は長いのだろうと、常々疑問に思っていたが口に出す事はなかった。それは今日も同じだろうな。僕はマイの家のリビングの自家製椅子に座りながら内装を丁寧に描写している。曲線に一回でも狂いがあれば、消しゴムを使って無かった事にする。今はまだ下書きの段階なのだ。

 正面にある長机の上にはキャリーおばさん――マイのお母さん――の用意したカステラの入ったお洒落な薔薇型の皿がある。小さく切られたカステラは既に二個なくなっており、どこにいったのかと言えば、僕のお腹の中に収まっている。

 腹が減っていたのはレーシャだけでなく、僕もだった。

 甘いお菓子の援助もあり、白かった枠組みの中は少しずつ形が作られていっている。

「本当、あなたの絵って綺麗よね」

 おばさんはコーヒーとガムシロップ、それからミルクを用意する傍ら、枠組みを見つめて言った。

「いえ、家が綺麗だからですよ。僕の絵はまだまだ、綺麗と呼ぶには程遠いです」

「まあ。お上手な事。お茶菓子は美味しかったかしら」

「はい、とっても」

「よかったわ。残りはまだあるから、無くなったらいつでも言ってちょうだいな」

「ありがとうございます。ですが、お夕飯が食べられなくなるので、これくらいが丁度良いですよ」

「それもそうねえ……。手を止めさせちゃってごめんなさいね、続き、頑張って」

「はい」

 ところで、この町には五百人の人間がいるといったが、港町では珍しい事に子供と青年が多い。男女比も、男性が勝っている。そのため学業施設の充実具合も他に負けておらず、現在三つの学校(どれも小中高一貫である)があるが、落ちぶれた子供など一人も作らない。徹底した子育ての支援も学校側が提供している。

 教師の質が抜群なのだ。教育免許を持つために必要な儀式が多い。第一に市の教育部との会合があり、私生活を隈なく調査される。その段階で諦めたり、落とされる人物が多い。そこから第二、第三と試練が待ち受けており、年に教員になれる人物はたった三人。今年はなんと、初の一人だったと聞いた事がある。

 僕が来る前の話で、誰一人として合格しなかった年もあるとの事だ。それくらい、厳しい試験をくぐり抜けてきているのだから、教員の質は遥かに高いものだ。

 ただ、そんな能力の高い教員がいても不良集団は生まれてしまう事がある。他の市の不良と違って性質が悪いのは、彼らは勉強もできてしまっているのだ。無論、勉強ができれば良いという教育方針は我が市にはないという事だが……少なくとも、どうしても発生してしまうらしい。

 劣等感によるものだと僕は思っている。周囲に有能な人物がいれば、子供心ながら自然と不安を感じ、奇抜な行動に出てしまうものだ。いや、これはあくまでも僕の考えであり、実際がどうか分かったものじゃない。僕は怖いから、不良集団には近づかないようにしている。

 穏やかなマイも、彼らに狙われる事があって困っていると僕に言った事があった。

 まあ気持ちは分からないでもない。マイは美人さんだし、気が効くし、なんというか、無邪気なのだ。我が物にしたいという気持ちもわかるが、最大限、僕は分かってやれると思っているが困らせてしまうのは駄目だろう。

 しかし、これだけは断言しよう。この町の不良は他の町と違って穏やかだ。可愛い方。それはやはり、教育が良いという事なのだろう。彼ら不良は限度をわきまえているし、悪戯をするというのも、好奇心による物なのだろう。

 これだけは誇れるが、この町では殺人が起きた事がない。いや、本当に。少なくとも一世紀の間は。

 他の国との接触の際、例えば海賊が来て騙されて拉致されるとか、それも全くない。車を運転する際の不注意で事故が起きる事もあるが、死亡事故はない。とにかく、とにかく平和ボケした市だ。

 だから本当は、スケッチブックを急いで取りにいく必要もないのだろう。

 ――表面上は。


 折角だからと、マイは浴槽にお湯を貯め始めた。

「本当は一週間に三回くらいしかしないんだけど、温めてあげようと思って」

 たちまち昇り始めた湯気が鏡を曇らせた。

 お湯が溜まっている間に、レーシャはマイのおかげで少しずつ本来の綺麗さを取り戻していった。シャンプーとリンスで髪を綺麗にして、体についた砂を片っ端からシャワーで落として、それでも執拗に残る砂と汚れをボディソープで綺麗に落とす。

 そうしてる間に浴槽のお湯は溢れ始め、二人して同じお湯に浸かった。

「知りたいわ」

 突然レーシャが言ったので、マイは何が知りたいのか分からなかった。

「何を?」

「アラードの家には父親しかいなかったわ。気の狂った」

「ああ……。でも、アラードには言わないでって言われてるし」

「マイ。彼の事を知れば、私は何をすればいいのかわかると思う」

 うーん、とマイは悩んだ。自分がもし彼女の立場になったら、とまで考えた。それでも、簡単に口を割る事はできずにいたのだった。

「レーシャは今、アラードの事をなんて思ってるの?」

「命の恩人。もしくは、保護者。私は彼にとても感謝してるわ」

「じゃあ、感謝してるアラードが聞かないでって言っているなら、まだ聞かない方が彼のためになるんじゃないかな。それに、ずっと話さないっていうわけじゃないんだし」

「そうだけど……。じゃあ、せめて、お父さんに何があったのかだけ教えてほしいわ」

 またまた、マイは考えた。情報の安売りになってしまうのではないか、そしてこの情報を教えて、アラードやアラードの父親が損をしないだろうか……。

「家族を失ったの」

 それだけ言った。周知の事実だけだ。

「奥さんと、アラードのお兄さんを失ったの。性格が乱暴になったのは、それから」

「この町で、亡くなったの?」

「そう。この町で」

 それ以上の質問をレーシャはしなかった。それからの話題はちょっとしたガールズトーク。マイがレーシャを先導するように、色々な知識を分け与えつつ愉快な雑談をしていた。

「そろそろ出ようか」

 話が頂点まで盛り上がった時を見計らってマイがいった。このままお風呂の外まで話を持っていくつもりだ。アラードが加われば、これまた面白くなるためだ。

 湯船から立ち上がって、改めてマイはレーシャを見た。

「綺麗な体だよね。レーシャ」

「そうかしら」

「うん。なんていうか……もしもあなたが悪魔だって口にしたら、私は何も信じられなくなるくらい。純粋で、宝石みたい」

「綺麗過ぎるのも、問題だと思うわ」

「それ、あまり人前で言っちゃだめだよ。怒られるから。さあさあ、ドライヤーで髪を乾かそうね~」

 大きな薄い紅色のバスタオルでレーシャを包み、頭の上から暖かい緩やかな風を送る。丁寧なマイの手つきはレーシャを一瞬で安心させた。

「どこから来たんでしょうね、レーシャ。あなたは多分、ここから離れていない所から来たんでしょうけど」

「分からないわ」

「元々いた所に帰りたい?」

「別に。もしかしたら、普通の人は帰りたいって思うのかもしれないわ。だけど私は、アラードやマイと一緒にいたいから、帰りたくないわね」

「お母さんとか、心配するよ?」

「でも、帰れないんだから仕方ないじゃない。マイは、私に帰ってほしいの?」

「そうじゃないよ! 違うけど、私がマイのお母さんの立場になったら、そう思うから」

 二人は黙ってしまった。あまり良い空気とはいえず、レーシャの前でこの話はタブーだろうとマイは学ばせられた。

「お腹空いてるよね?」

「うん」

「お夕食は私の家で食べてく?」

「アラードが、レストランに連れていってくれるって言ってたわ」

「え、そうなの? お金あるのかなあ、アラード。――まあ、これからの予定は三人で決めようかな」

 暖かい風が止むと途端に体が冷える事を想定していたマイの計らいで、レーシャは身震いする事なく服を着始めた。服はアラードの服ではなく、マイの服に変わった。さすがに男物の服はレーシャには似合わない。マイなら、まだ少し着こなす事ができたと思うが。

「ちょっと大きかったかな」

 少しブカブカの、フード付き白色上着と、薄い水色のロングスカートの見栄えが素敵である。確かに少々上着は大きいように思えたが、その要素も魅力の一つであるかとレーシャは気にしなかった。

「この服、私好きよ。マイの物なのかしら」

「うん、そうだよ」

「汚さないように気をつけるわ」

 実際、ロングスカートは地面にもう少しで触ってしまう所だ。

「汚れても洗濯すればいいんだから気にする事ないよ」

 マイも服を着て、脱衣室を出てアラードのいるリビングに向かった。


 三人で予定を決める事になったが、マイの段取りの立て方が中々良く出来ていて文句ひとつなく、夕食までの粗筋が決まった。どこに行くか、どこで食べるか。

 マイの家で食事を取り、その後は散歩である。マイの家の近くに公園があるのだが、夜になると面白いのだ。

「何が面白いのかしら」

 ココアを啜ってレーシャは尋ねた。

「言ってからのお楽しみよ。ね、アラード」

「ああ、そうだね。言葉にすると感動が薄れるからね」

 ところが、公園でお喋りした後の事が問題であった。レーシャの寝床だ。

「アラードの家は無理だよね……。私の家で寝る? 多分お母さんとお父さんは良いって言ってくれると思うし」

 今は六時を少し過ぎた所だ。キャリーおばさんはシンクで張り切って手料理を作っており、ライダラおじさんは何かしているのかまだ二階、三階にいる。

「勿論、私はいいわよ」

 キャリーおばさんが言葉だけ飛ばしてきた。ご機嫌に料理を作りながら、ご機嫌に聞き耳を立てていたらしい。

「ありがとう、お母さん。じゃあ決まりね」

 この時僕は、レーシャの幸運模様に乾杯と言ってやりたかった。海に流されて生きて砂浜に来れたのも奇跡で、第一発見者が僕だという事も幸運だろう。さらにそんな僕とマイが友達だったという事も幸運を証明するものである。とにかく僕は心底喜んだ。ちょっとだけレーシャが羨ましく思える。マイの家でお泊りなんて、僕もした事がない。

 年頃の女の子と一晩を共にする。そんな勇気が欲しいものだ。

「でもね、マイ。ずっとお泊りさせちゃだめよ。せいぜい一ヶ月くらい。それでも長いほうかしら……。レーシャちゃん、記憶が無いのよね。それなら家族の所に届けてあげないと」

「分かってるよ。その間に、家族は見つけられるか分からないけど、孤児を引き取ってくれる場所を探さないとね。アラードも手伝ってよ?」

「当たり前だよ。絵を描く時間を削ってでも手伝うさ」

 どうしてか、レーシャはあまり喜ばしい表情をしていなかった

「素晴らしい!」

 ここのおじさんもおばさんも、突然なんの前触れもなく何かするのが好きだ。キャリーおばさんはさっき突然言葉を挟んできたし、ライダラおじさんは勢いよく扉をあけて、僕に一直線に近づいてきて熱い握手をしてきた。

「この絵、いくらで買えるんだい? 値切りは一切しないが!」

「いえ、売り物ではありませんよ。おじさんが欲しいならお金を取らずに――」

「それは本当かい?! いやあ君は天才だよ。なんてこった!」

 おじさんは絵と僕の顔を何度も行き来して体全体で感動を表現していた。絵の中の自分の家と、現実の自分の家を見比べて、再び、今度は反対の手で硬い握手。

「君は素晴らしい!」

「ありがとうおじさん。えっと、ですがね、それまだ未完成で、まだ鉛筆で下書きしかしてないんですよ。これから先色を――」

「わお! まだ続きがあるのかい?! 驚いた。じゃあ完成したらまた俺の所に持ってきてくれよ」

 日頃から元気の良いおじさんだとは思っていたが、興奮するとここまでかと、嬉しいとかよりも先に驚きの感情を僕は得た。しかし、僕の絵は人を感動させる物だと思うと、途端に嬉しい気持ちが強くなりはじめ、おじさんの感動が僕に伝わって、しかしどこか恥ずかしくはにかんだ。

「ねえお父さん、レーシャちゃんの話は聞いてる?」

「ああもちろんだよ。君は可哀想な子だ」

 レーシャはおじさんから体を背けるような姿勢を取った。なるほど確かに、第一声は扉を勢いよく開けて「素晴らしい!」だ。僕はおじさんが好きだが、ここは好みが別れるだろう。レーシャはあまりにも騒がしい人は好きになれないという事だ。

 ところがおじさん、ポジティブでそこの所は気づいていないようだった。

「家に泊めてあげたいんだけどいいかな? お母さんはいいって言ってくれたよ」

「いいよ、うんもちろんだよ。泊めてあげない理由がないじゃないか。アラード君の家の方が落ち着いていいと思うが、まあ、事情が事情だからな」

「ありがとうお父さん」

「優しい子に育ってくれたな、マイ。愛してるよ」

 おじさんがマイに今日の学校の事を訊ね始めたタイミングで、レーシャが僕に顔を向けてこう言ってきた。

「マイの家でご飯を食べる事、あなたのお父さんに言わなくてもいいのかしら」

「ああ、うん。言わなくても大丈夫だよ。多分もう寝てるから」

「そう。あなたのお父さんはいつも何してるの?」

「昼間に町を出て、ちょっとおっかない街にいって酒場で飲み食いして帰ってくるだけだよ。本当は昼から夜まで酒場にいると思うんだけど、今日は違ったみたいだね」

 あまり人に簡単に言うべき事ではないが、隠していた所でなんの正義にもならない。

「毎日食べて飲んで、寝てるだけ……ということ?」

「まあ、そうだね」

「お金は? アラードは働いてないわ。どこからお金が出てくるの?」

「この町には、働く事が不可能だと判断された場合の家庭には援助金を出すシステムがあるんだ。僕はもう働ける年齢だけど、ちょっと特別な理由で受けられてるんだよ」

「その理由って何かしら」

「質問ばっかりだな、君は」

 僕が答えを渋っても、レーシャは変わらずつぶらな瞳を僕に向けている。

「分かったよ、降参だ。なあマイ、少し外に出てくるよ。七時頃に戻ってくる」

「お散歩? 分かったわ、いってらっしゃい。あまり遠くにレーシャちゃんを連れていかないでね」

「はいはい」

 元々僕は隠し事ができる程賢くないのだ。臆病者だから。嘘も隠し事も嫌いだし、けなげに生きるのが一番だと思っている。

 考えてもみろ、僕。記憶を失って知らない町に来たとして、気になる事はたくさんある。というよりも、何から質問すれば良いのか分からないほど気になる事がありすぎるだろう。その中で最も関心が高く気になる事があったら、まずそれを知りたいと思うのは自然だろう。

 もうレーシャが記憶喪失が嘘だとか、誘拐の濡れ衣を着せてお金をふんだくる家族がいるだとか、考えるのはやめにした。なぜ記憶喪失と嘘をついているのか分からないし、誘拐の濡れ衣を着せるなら、マイの家に入った時点で証拠十分だろう。

 ある意味、僕は自分から言いたかったのかもしれない。

 スリッパを脱いで靴に履き替えると、扉から外に出て夜風に当たりながらベンチを探した。今まで気づきもしなかったが、マイの家のすぐ横にベンチがあり、そこに座る事にした。

「僕の家族は一度、罠に嵌められたんだ。その一度が、人生を狂わせたんだよ」

 殺人のない町。安全な町。

 僕はそんな町なんか存在しないと思う。

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