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第一話

 誰にも譲れない夢があった。僕は夢だけを頼りに生きて、その世界だけを信じてきた。

 高校を卒業すると大学や会社には行かず、都会から大きく離れた静かな港町で家族と暮らし始めてもう何年も経っている。

 本当に僕は恵まれていた。

 ――夢だけを叶えていたいんだ。絵描きで生活をしたいんだよ。

 今まで一回も家族に反抗しなかった僕の、初めての反抗。本当ならこんな事言われたら、誰だって熟考した末に駄目だと言うだろう。或いは熟考すらせず、切り捨てられてしまうかもしれない。

 父親も母親も、揃って了承した。その時僕は嬉しいという感情よりも、不思議といった思いが強かった。

 卒業して港町に引っ越してから、ようやく分かった事がある。父もまた昔、絵の世界で生きる事を強く願っていたのだ。しかしその時は金銭的な問題があり叶える事ができなかった。

 父親の事業が成功して、金銭的な余裕がある今、父は僕に自身の過去を投影したのかもしれないと思っている。だから簡単に頷いてくれたのだと。その話を聞いて、より一層夢に対する思いは僕の中で高まっていった。

 波の囁きとカモメの歌を聞きながら、僕は浜辺で一人筆を持っていた。写生だ。僕が港町に来た事に幸運を感じているのは、ここにある。人気のない綺麗な浜辺があるのだ。静かで、心地よく絵を描ける最高の場所だ。

 人体のデッサンは中々上手くできた。先天的な才能による物か、また別の影響があってかは分からないが、人体を描く技術を会得するのに時間をかけなかった。課題となるのは背景だ。僕はまだ真っ白な世界に生きる人間しか描けない。それはそれで味を出しているとは思うが、あまり気分はよくなかった。だって一人ぼっちじゃ寂しいじゃないか。背景がないから、物足りない。

 ある意味、僕は世界を描く練習をしているのだ。絵という枠組みの中に生きる人間を美しく魅せるための練習。これがまた中々実を結ばない。父は背景で一度挫折を経験したといっていたため、それなりの覚悟をしていたが根気のいる特訓だ。

 あまりにも上達が遅く、焦ってきた僕は、今日は少しやり方を変える事にした。いつもは見たままの世界を忠実に再現しているのだが、今日はその忠実に再現した背景に何かを付け足す事に挑戦する事にしたのだ。個性の追加だ。

 今まで通り浜辺と海、そして太陽を描き終えた僕は椅子の背もたれに凭れて腕を組んだ。何を描こうか。絵との顔合わせが続いた。人間を描く事も考えたが、自尊心の損失を恐れた。下手な作品ができてしまったら自分自身に失望するだろう。

 そのため物や動物が良いのだが、なかなか閃きが間に合っていない。

 十分考えても何も思い浮かばず、僕は思い切って立ち上がった。歩いてみる事にしたのだ。端から端まで歩いて、それで何も思いつかなかったらまた端から端まで歩く。何か思いつくか、日が暮れるまで散歩を続けよう。運動不足の悩みもあり、一石二鳥じゃないか。

 一周目。貝殻が綺麗だ。何も閃きはない。一周するのに十五分程かかり、早速足が文句を言い始めている。続けるには休憩を要すると知り、壁によりかかって暫く目を瞑った。

 二周目。どうも今日は運が悪いみたいだ。何も閃かない。ただ芸術家というのは忍耐も仕事の内だろう。僕は自分の決めたルールの通りに動くしかない。

 三周目。中央まで来たところで、僕は不可思議な模様を見つけて立ち止まった。最初は未確認生物か、もしくは変異したクラゲかと思った。近づいてよく見てみると、それは白い服であった。子供が着る真っ白な服。ずぶ濡れで、砂にまみれて汚れている。

 海に流されてきたのかと思って気にも留めず歩き始めると、一分と経たずに服の主を見つけた。僕は足の疲れ等気にせず、うつ伏せになって倒れている子供の所まで駆け寄った。

「君! 大丈夫か?」

 遠目からは分からなかったが、近づいてみてみると子供は女性だという事を知った。奇しくも彼女は衣服を一切身につけておらず、僕は彼女に手を触れる事もできず周りを見渡して慌てふためくばかりだった。

「大丈夫か?」

 声で相手に触れる。ぴくりともしなかった。

 今は秋、そろそろ肌寒さが目立ち始めたこの時期にこの格好は命の危機すら危なくなりはじめる。僕はなるべく女性だという事を意識せず、そして目を薄くして、自分のジャンパーを彼女の上から被せた。

 彼女は眠っているようだった。息をする度肩が揺れる。死亡はしていない。最悪の事態ではなかったようで、僕は安心した。

 とりあえず服を着せてやらなければならない。家に戻って服を取りに行けば良いが、このまま彼女を放っておけばどんな悲劇が舞い降りるのか想像がつかない。だからといってこのまま抱えて自分の家まで連れていくと、人の目線が僕を怯えさせるだろう。

 最終的に僕は、彼女を抱えて、一番端にある一番目立たない日陰に彼女の体を隠す事にした。家に帰り、男性用だが町を出歩いてもなんの支障もない無難な服を探してバッグに詰めた。

 この時間帯はいつもの事だが、家には誰もいなかった。

 あまりにも急ぐあまり、僕は扉の鍵を閉めるのを忘れそうになった。鍵を閉め、駆け足で浜辺まで戻る。一分ともたず、僕は体力が切れ始めた。体中が酸素を失い、頭が揺れる。まさかこんなところで運動不足を恨む事になろうとは思わなかった。

 歩行と走行を繰り返しながらなんとか浜辺にたどり着いた。スケッチ用具一式には目もくれず、僕は女の子のいる所まで走った。

 久しぶりにかく汗はなんとなく気持ちが良かった。

「あれ?」

 流れ落ちる汗の中に冷や汗が混ざり始めたのは、少女のいる日陰に辿り着いた時であった。

 いなかったのだ。少女が。

「ああそんなバカな。なんてことだ……」

 僕は地面に膝を落とした。膝だけじゃあきたらず、体全体を地面に放り出した。

 なんてバカな事をしてしまったんだ。

 悪い予想が次々と溢れ出る。

 偶然少女を発見した悪い大人が、人身売買のため連れ去ったか?

 人身売買ではなくとも、悪い大人が悪い目的で彼女を連れ去ったか?

 もしくは彼女が自ら目覚めて、あの格好で町をうろついているのではないだろうか?

 もしかしたら海に怪物がいて、その怪物が少女を連れ去ってしまったか?

 少なくともとんでもない事を僕はしてしまった。

 急いで探すよりも、僕は脱力を選んだ。絶望の波が一気に押し寄せ、僕の心は攫われてしまった。

 

 気づいたら、僕はそのまま眠ってしまっていた。なんと無責任なと、自分で思った。

 意識が取り戻されていくにつれ、頭部にやや不思議な違和感を認知した。ここは浜辺。家ではない。だから枕なんかがあるはずないのに、なぜだか頭が柔らかく、心地良い。ザラザラした砂の感触は一切感じられなかった。

 徐ろに僕は起き上がった。

「わ?!」

 最初は現実逃避による幻覚の一種だと思えた。そこに少女がいたのだ。何度も何度も瞬きを繰り返しても尚、少女はそこに残っていた。むしろ瞬きをする度、彼女は現実に帰ってきているように見えた。

「ああ良かった! 本当に良かった。君、名前は?」

「レーシャ」

 なんの手入れもされていない白い髪は彼女の腰の部分まで伸びており、少しだけ湿っている。

「レーシャか、聞いた事のない名前だな。お父さんとお母さんは?」

「知らないわ」

「知らないっていう事はないだろう。君だって、お父さんとお母さんがいるはずだ」

「分からない。私は何も覚えていないの」

 気づけば、彼女は僕が持ってきた服を着ていた。事実上、僕に許可を取らず勝手に着られた事になるが、気にする事はなかった。

 レーシャの顔を拝みたいと、僕は姿勢を少し低くした。まっすぐに伸びた髪は彼女の顔の半分以上を覆っており、感情を窺える事ができない。笑っているのか、困っているのか。それすらも僕にはわかりかねた。

「えっと、君はどうしたい? 記憶がないんだろう」

「ないわ」

 少なくとも僕は困っている。自分の顔を窺う必要のない程に明らかだった。

「どこまで覚えてる?」

「何も覚えてない。あなたが私をここまで運んでくれたという事だけ」

「なるほど。後、言語障害とか、そういうのはないみたいだし……。普通、記憶を失ったら言語や日常生活の行動一つ一つまで調子が狂うはずなのに、君は僕の服を着ている。うーん」

 レーシャは顔の向きを一切変えず僕の言葉を待ち続けた。

「まあ、そんな事はいいか。とにかく君が無事でよかったよ。お腹は空いてるかい?」

「とても」

「それならそうだな……。一度僕の家に来て、お風呂に入った後美味しいレストランに招待するよ。ハンバーグは好きかい?」

「好きだけど、魚も」

「おおよかった。この町は定番の魚料理があるんだ」

 些細な記憶障害に関連のある事柄は飛ばしたが、自分の名前を覚えているというのも不思議じゃあないか。

 ここはどこ? 私は誰? というのが決まった台詞だ。しかし彼女は、この場所は知らないらしいが、自分の名前は知っている。

 浜辺を歩いて町に向かい、家まで一直線の道路を歩く。その最中、僕はレーシャの手を離さないよう握っていた。

「あなたの家族は?」

 だしぬけ気味に、レーシャが僕について尋ねた。答えようと口を開いた途端、間髪入れずに彼女は言葉を続けた。

「そういえば、あなたの名前は?」

「僕の名前はアラードだよ。家族については、すまない、今は答えられないな」

「どうして?」

「僕は、そんなに簡単に信用の受け売りはできないんだ。浜辺で倒れていた君は記憶障害だったが、自分の名前は覚えているし、正直おかしな点が多い。本当はこんな事言いたくないんだけど、まだ君を信用しきれていないんだ。だから、家族についてはまだ話せない」

 少しの沈黙の後、アレーシャは言った。

「アラードはクールね」

 街を歩いていると、学校帰りのピータが前から歩いてくるのが見えた。

「やあアラード。その子は君の妹かい?」

 彼は、この町に来て初めて出来た最初の友人だった。だから今でも僕は彼の事を親友だと思っているし、彼もそうだろう。町内で一番、同姓で、仲が良い年下の親友だ。

 しかしながら自分よりも明らかに年下な女の子と手を繋いで町を歩く姿を見られるのは、多少緊張する。

「妹じゃない。えっと、なんて言えばいいんだろうな」

「命の恩人よ」

 先制してピータに答えたのはレーシャだった。

「海で溺れかけていた所を、彼が救ってくれたの」

「へえ、やるじゃんアラード。ヘタレだと思ってたんだが、見なおしたぜ」

 溺れかけていた所を救っていた話というのはまた訳が違うが、ただ命の恩人であるというのは、自分で言うのはなんだがその通りの話だった。

「彼女は腹を空かせているというところだから、これからお風呂に入らせて、レストランに行く所だったんだ。ピータ、君も来るかい?」

「あー、そうだな。いや、今日は久々に父さんが家にきてて、都会で培った料理を存分に味わえるって話だから遠慮しとくぜ。なんならうちに来てもいいんだが」

「そりゃ素晴らしいアイデアだな。だけど、そういうのは家族内だけで楽しめよ」

「確かに。でもどうせ俺の父さん気合入って大量の食いもん作るつもりだからよ、残り物くらいはもってけよなー。食べきれねえし」

「わかった。ありがとな」

 ピータと別れて、僕とレーシャの間には特にこれといった話はなく無言だった。というのも、レーシャは楽しそうに町の風景を見ているのだ。まるで美術館にきた客のようだ。僕も初めてこの港町に来た時、レーシャと同じ気持ちだったものだ。

 そんな美術館もそろそろ閉館の時間だ。

 家に到着し、鍵を鍵穴に差し込んで捻る。すると、いつものように何らかの仕掛けが作動して鍵が開く。扉の手を掴んで手前に引いた。

 どうしたことか、扉は開かなかった。おかしな話なので、何度も扉を揺らしてみたが、開く気配がない。鍵を開けたのに、一体どういう事だろう。考えられるとすれば一つしかなかった。

「しまった、鍵を閉め忘れたかな」

 僕は再び鍵穴に鍵を通して、仕掛けを作動した。すると今度はすんなりと家の中に入るための道が開かれた――というのは、僕の単なる想像に過ぎなかった。

「誰だ、その女は」

 目の前に立ち塞がる影。父の姿があった。僕は驚いた。

「もう帰ってたの?」

「こっちの質問に答えろ。その子供は誰だ」

「えっと」

 濡れた髪と、僕の服を着ている少女を見て父はすぐに閃いたらしく、僕が答える前に怒鳴った。

「てめえ、名前も知らない子供に服を貸したっていわねえよな?」

「名前は知ってるよ、この子の名前はレーシャっていって、記憶を無くした可哀想な子供なんだ。浜辺で倒れてて、あのまま放っておいたら病気になってたよ」

「おいあんた、親は?」

 父の矛先は、今度はレーシャに向かっていた。

「知らないわ」

「はーん。アラード、良い度胸してんじゃねえか。身寄りのない子供を、内で預かろうってんじゃねえだろうな」

「そ、そんな」

「言い訳すんじゃねえ! いいから答えろ!」

 震える声を抑えて、必死に僕は、殺されるのではないかという邪気な考えを振り捨てて、声をだしたものの、小さな声だった。

「このままじゃこの子が可哀想じゃないか」

「こいつの親が、こいつが俺の家にいる所を写真にとって見ろ。俺たちは誘拐罪で訴えられる。いいか、そういう大人もいるんだよ。子供を使って金を奪い取ろうっていう最低な奴が」

「わかってるよ」

「わかってんならなんで連れてきたんだ!」

 俯くしかなかった。レーシャが何か言おうとしたので、僕は彼女の手を握って、その言葉を飲み込ませた。

「次家に来た時、もしその女がいたら、お前を入れてやらねえからな。子供を捨てて帰ってこい」

 扉は閉められた。口答えする暇もなく。そもそも僕は、口答えをしようとも思わなかったが。

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