第十六話
マイも、マイの家族も僕もレーシャが不憫に思えてならなかった。会議が終わった後、今後のスケジュール一覧を見ると、やるせなくなる。キャリーおばさんが紙に書いてくれた表には、レーシャをいかに上手く匿うかという作戦が並べられているのだ。
残念な気持ちになっていた。レーシャは必ず町を嫌うだろう。町に住み始めて次の日根拠もない冤罪をかけられて。少なくとも僕は耐えられない。まだ本人にそれを知られていないからいいものの、明日中には知らせないといけないだろう。その時、僕はその場に居合わせたくはない。おそらく警察が、被害者の家族に、被害者は仏になっていると伝える時も似たような心情になるのだろう。今回の被害者はレーシャの名誉だ。名誉が仏になってしまったのだ。
そこまでレーシャの事を大切に思うなら、ロエに自首を勧めるか警察に暴露してやればいい。
月の表情が分からない夜の町を歩きながら残酷な事を思った。ため息が出た。ロエも僕の友達に他ならない。それを裏切るだなんてまっぴらごめんなのだ。善人でいたいんじゃない。僕は怖い。友達を裏切るのは一瞬だ。ところがその一瞬は、いつまでもロエの心の底に居座るだろう。
ああ、しかしそれはレーシャも同様。
「やあやあ」
前から歩いてきた人物はピーターだった。この陽気な顔は暗がりの中でも僕の心の邪気を吹き飛ばすであろう力を持っている。
「やあピーター。散歩かい」
「見回りさ」
「ほうほう。市長のボランティア?」
「自主的にね。僕がこの町が大好きな事、知ってるだろ」
酔狂的とまではいかないが、ピーターは他の住民よりも際立ってこの町を誇りに思っている人物であった。頭の片隅に追いやっていたが、この事件で深い傷を受けた被害者の中にはピーターも入っているだろう。まだ成人もしていないのに立派な魂だ。
「一人じゃ危ないんじゃないか」
「大丈夫! 実は昼から夕方にかけて武術の本を読み漁ったんだ。だからちょっとした技術はあるつもりだよ。背負い投げしてみようか」
「ああ、うん、練習なら空気と一緒にやってくれ。腕は折りたくない」
「いいだろ、腕なんて二本もあるんだよ。その内の一本くらい」
「冗談が長いぞピーター」
潮の香りの混ざった風が淑やかに吹き抜けた。そう夜の香りも格別なのだ。都会と違って気持ちいい。心に生える森林が潤う気分だ。
「ところでさ、あまりアラードにこんな事言いたくないんだけど。もう、耳にしてるかな」
「魔女の話か」
ピーターは黙って頷いた。僕は腕を組んで、あまり気乗りのしない話題である事を表情で示した。
「信じてるわけじゃないよ、もちろんもちろん。だけど、結構まずいよ」
「まずいって、なんだよ」
「町の隅々まで広がってるのさ。魔女っていう言葉が、いかに人の心を惹きつけるかっていう事だよ」
「広がってるからといって、誰もが信じるわけじゃあないだろうよ」
心の中の誰かが僕に反論した。信じてる信じていないは大して問題ではない。広がる事自体が危険なのだと。
この世界には伝言ゲームと呼ばれる遊びがある。一列に並んで、一番先端の人物が適当な文章を後ろの人物に口伝で伝え、後ろの人物がまた後ろの人物に伝える。列の最後まで続く、というルールだ。その遊びでは最初と最後の文章が存在する。最初の文章は先端の人物が放った文章。最後の文章は、列の最後の人物が聞いた文章。
ゲームでは決まって、最後の文章は最初とは異なっているものだ。
「ピーター、君はその魔女についてどんな事を知ってるんだ」
「隣町から来た人物で、幼い子供。そして、えっと、かなりの美人だから売ればお金になるとかいう人もいた。この情報、どこか間違いがある?」
「美人だというのと子供だというのは間違ってない。他は間違いだな。その噂、いつ頃聞いたんだ」
「夕方くらい」
「あまり良い予感はしないね」
第一印象は最重要だ。その時点でレーシャはもう回復は難しい。その事はもう信じられないくらい自分の中で受け入れられているが、更に悲惨な印象が伝わってしまう事を考えると最悪な気分になった。
「君のお父さんの、美味しい料理が食べたい。僕は疲れた」
「そうだね、アラード。今日、アラードが一番疲れたと思うよ。でもこれからもっと疲れるかもしれないよ」
「だから疲れる。後先考えたくはない。できる事なら昨日に戻りたい」
「お父さんに料理作ってもらうように言おうか? というより、夕食は食べてないの?」
「マイの家で食べてきた。だけどあんまり食べられなくて、今になってお腹がすいてきたんだよ。――ああごめん、別に無理しなくていいさ。僕の家にもまだ色々あるだろうし、なかったら食べにいけばいいんだから」
町に失恋したのだ。僕はそう思った。
「ねえやっぱり僕の家にきなよ。お父さん、料理作るのは本当に大好きだから喜んで作ってくれるよ。お腹すいてるから気分も沈むんだって」
失恋した時、友達がいると目元が温かくなるものだ。みっともない姿は見せたくなかったから、暗がりに隠してしまったが。
「じゃあ行こうかな」
家に着くまではあたりさわりのない日常の雑談ばかりが広がっていた。ピーターはあえて魔女の話題を逸らしていたようにも思う。
「そういえば、今回火事になった家の、ラフレさんってどんな人なのか知ってるかい」
「あまりよく知らないけど、情報を商売にしてるみたいだよ」
「ニュースキャスターみたいだな」
「うん。どんな事でも知ってるよ。隣町の事もね。知らない事はほとんどない人。だから、人が知られたくない事も知ってるから、燃やされちゃったのかもね、家が」
「燃やされちゃったって、誰かが燃やしたみたいな言い方だけど」
「みんなこう言ってるよ。殺人事件の犯人と同一人物だーって。ラフレさんはきっと犯人に辿る証拠をつかんだから被害にあったんだーって」
唯一違うと断定できるのは僕だけという事なのだ。火災があった時ロエは僕の家にいた。別人だ。
ロエは父さんがラフレさんの家にいくと確かに行っていた。
そんな、ばかな事は……。
同一人物、町中で噂になっている同一人物とはすなわちレーシャだ。他人の事なのにどうしてここまで気を背負っているのか。今は自分の事でさえ精一杯だというのに。僕の心を設計した神様に一言文句でも言ってやりたい。苦しい思いをするならなぜ良心を生み出したんだと。
とはいえお節介なだけかもしれない。気負いすぎているだけ……?
よくわからなくなってきた。考えすぎた。
「疲れたよ、ピーター」
「お疲れ様。大変だね」
家に到着した。僕の家じゃない。
ピーターの家の玄関にもスリッパが置いてあるが、これはこの家が土足で入られる事をあまり好ましく思っていないからである。マイの家のように、僕が頻繁に出入りしてスリッパを要求するためではない。だから入りやすい家なのだ。
「やあいらっしゃいアラード君」
小太りで眼鏡をかけて、髭の似合う笑顔を見せるピーターのお父さん、ジャニアおじさんが出迎えてくれた。
「アラードは父さんの料理が食べたいんだって。作ってあげられないかな」
「おおそうか、おお。嬉しいな。それなら大歓迎だよ。何が食べたい?」
「オムライスがいいかな。それとバジルソースのサラダ。おじさんがこの前作ってくれたサラダがすごくおいしかったから食べたいんだ」
「任せたまえ。じゃあピーター、彼を席に案内して。母さんにもアラード君が来たと言っておこう」
食卓に案内されて、椅子に座る。
「そういえば見回りはいいのか。途中だったと思うんだけどな」
「後でまたやるよ。今は別のやらなくちゃいけない事ができたからね」
「そのやらなくちゃいけない事は、聞かないでおくさ」
どん底に突き落とされた友達を励ますお仕事。給料は入らないが、立派な仕事だ。
そこからもまた、一切魔女に触れずに色々な話が出来た。今思えば、最近ピーターとあまり話していなかった。そのおかげで次々と話題が湧いてきて、飽きる事なくオムライスを待つ事ができたのだ。
レストランの近くを通る時以上の空腹を誘う神秘的な香りと同時に運ばれてきたオムライスは、熟練されていた。ジャニアおじさんの一歩一歩が待ち遠しい。
「味付けとか、今日はとてもうまくいったよ。どうぞ召し上がってくれ。絶品だ」
「ありがとう。いただくね」
一時でもやさしさに包まれて、温かかった。サラダの瑞々しさが心の森林を元気にさせた。バジルソースの少しスパイシーな味が僕の体を叩いて、活気を取り戻させた。
「元気が出るほどおいしい。ありがとう」
「いやいや。美味しいって言ってくれてこちらこそありがとうだな」
「父さん、僕にも明日オムライスを作って。アラードが食べてるのを見たらお腹が空いてきたよ」
「おお、それもいいな。そんじゃあ明日の夕食はオムライスだ。シェイニーが喜ぶぞ、あいつは卵料理が好きだからな」
シェイニーとはピーターの妹の事。人見知りで、あまり話した事がない。ただ真面目な子だというのは分かる。ジュエラみたく憎い奴じゃない。
「ジャニアおじさんの作る料理は全部美味しいよ。また近いうち、食べにきてもいいかな」
「むしろ毎日きてくれてもいいな。毎日おいしい料理を作れる。気合いが入るからな、お客人がくると」
美味しい料理を毎日ご馳走されるピーターが羨ましくなった。ちょっとしたやっかみなのだろうけど、卵のとろけ具合が上手にやっかみを胃の中に流し込んだ。おそらく、すぐに消化されて無くなるだろう。
帰り道、ピーターは途中まで見送ってくれて、残りは一人で帰る事になった。ほんのりと、いや強がっても仕方がない。結構寂しい。昨日は隣にマイとレーシャがいて、さっきまではピーターがいた。突然の孤独だった。ピーターのおかげで馬鹿げた事を考える事はなくなったが、代わりに寂寥感が押し寄せる。
芸術家というのはいつも孤独だというのが持論だ。逸脱した個人の世界観を持つと、周囲から人は離れていく。
孤独感は慣れていたはずだったが勘違いだったみたいだ。
家のドアを開け、閉めて鍵をかける。当たり前の動作だったが、なぜか虚しかった。家が嫌いだからじゃない。父親がいるからじゃない。理由は分からない。
リビングの机に腕を埋めて父は寝ていた。何も話しかけたくなかった。
喧嘩はしたが、心の底から父を嫌いにはなれない。不意に昔の父の情景が思い浮かび、嫌いという感情を邪魔するのだ。この先一生嫌いになる事はないだろう。
しばらく父を見ていたが、僕は二階の自分の部屋に入った。これから風呂に入り、寝間着に着替えなくちゃいけない。
「寂しいな」
心の中に閉まっていた本音がついに殻を破り飛び出した。誰にも聞かれていないが、それでよかったのだ。今は寂しいという感情を大事にするべき時なのだ。