第十五話
見知らぬ所からきた異邦人。記憶を失っている。そして、異邦人が来てから町に事件が起こり始めた。人々がレーシャの事を蔑ろにし始める要素は全て準備された。後は町内全体に波が広がるのを待つだけだ。
気が気じゃなかった。どうにかして波を止めようと思ったが、波を止めるには反作用の波を発生させる事が必要不可欠であり、反作用の波を用意することは不可能だった。
「なんて顔してレーシャに会いにいけばいいのか、分からないよ」
アーサーさんと離れ、人から離れた場所に来た。一区画目が北とすると、ここは最南端の裏路地だ。黒煙の香りがいたる所にしみついているのか、火事現場から離れても事件の匂いは消える事がなかった。
「今まで通りなんて、難しいよね」
「マイ、アーサーさんから聞いても最初驚いてなかったけど、知ってたのかい。それに、グロウが広めたんだって知ってたね」
家と家とを行き交う事のできる小さな橋の下は渇ききっていた。
「ごめん。もっと早く言えばよかったよね。言いたくなかったの。口にするのもとっても、いやだから」
「謝る事ないさ。今は過去の事を悔いるより、これからどうするかを綿密に話し合わなくちゃいけない。場合によっては、町を敵に回さなくちゃいけなくなるかもしれない」
「敵に回すって、びっくりするくらい危険だよ。ヒュードおじさん……アラードのお父さんの事もあるじゃないの。あなたは家族も、町も敵に回すつもりでいるの?」
「じゃあ誰がレーシャを助けるんだ」
理性が欠如しているのは分かっていた。マイは必死に理性を呼び覚まそうとしているのだ。
「フォールズさんだっているじゃない。彼は市長さんなんだよ」
ようやく僕が落ち着きが取り戻せたのは、その言葉に反論できなかったからだ。マイの努力は見事に実った。
「そうか……。僕はただ、何かをしたかっただけだったんだな。ありがとうマイ。そうだよな。平凡な一般市民が名乗りを上げたところで、何もできる訳がなかったんだ」
「でも、私も気持ちは分かるよ。さすがにイライラしちゃったもん。みんな良い人達だと思ってたから、グロウが流した噂を信じるだなんて、思ってもなかった」
「よく考えれば、僕は少し物事を大きく捉えていただけかもしれないな。あくまでも噂なんだから。――ああ、これでレーシャに会った時どんな顔をすればいいのかが分かるよ」
「うん、そうね」
さっきまでの自分が嘘に思える程気分も晴れていたが、マイはまだ不安そうな顔だった。
少し恥ずかしいが、彼女の背中に手を置いて、撫でた。引っ越すまでガールフレンドはあまりいなかったから、女性の体に触れるという行為だけでも遠慮がちになる。
「一回帰ろう。レーシャの顔を見にいこうよ」
散歩の用事は終わったのだ。そもそも最初は、父と喧嘩をして、気分を治すために外に出てきた。気分を治すという目的は達成されており、これ以上気分を良くしたら、事件が起きているというのにヘラヘラする人物になってしまい不謹慎な人間に見られてしまうだろう。
今日の僕は積極的だ。マイの手を再び取って帰路を歩き始めた。今僕はどんな青年に映っているだろう? 落ち込む女性を慰めるカッコいいジェントルマンに見えるだろうか。
事故が起きているというのに僕は何を呑気な事を。だが、本当に良かった。僕はレーシャの噂が流れた事を大きく見過ぎていて、急激に焦っていたのだ。その心配がないとわかった途端、心が油断して気分は右肩上がり。
煙の匂いではなく、マイのシャンプーの香りが鼻についた。今まで気にした事すらなかったのに。
歩いている最中浜辺の方に目をやると、ほとんど人は解散していた。何人かが残って……主に子供が残って浜辺で遊んでいたり、立ち話をしていたりするくらいだ。という事は、立ち入り禁止の線がなくなったという事だ。それもまた素晴らしい事。危険は去ったという事なのだから。
「昨日やってきた女の子が実は悪魔の子で、事件を起こしたらしいぜ」
「うわ、こええ。近寄らないでおかねーとな」
耳を傾けるのではなかった。軽率な発言に、気分が良かった心は台無しだ。マイの耳にもおそらく届いていただろうが、マイは何も言わなかった。
家に着き、中にお邪魔すると真っ先にキャリーおばさんが姿を見せた。
「おかえり二人とも」
「ただいま。レーシャは?」
「えっと、その事なんだけどね。ライも交えて、四人で話したい事があるの」
ライとはライダラおじさんの事である。マイは腕を組んだ。
「ねえ、もしかしてさ。レーシャをうちに泊めないって言わないよね?」
「ううん。違うわよ。噂は耳にしたけど、だからといって追い出したら、あの子は居場所がなくなっちゃうんでしょ? なら、うちに泊めてあげないと」
「ママ……。愛してるっ」
今までしょぼくれていて、僕がどんなに慰めても元気になれなかったマイは、笑顔を見せて母親に抱きつきにいった。多分、マイはこの事を心配していたのだろう。キャリーおばさんが噂を耳にしたら、追い出してしまうのではないかと。
相変わらず素敵な家だ。僕が風景画の参考にした部屋に案内されると、手を振りながらライダラおじさんが僕を迎えてくれた。
「やあやあ」
おじさんは決まって挨拶の時に洒落を言うものなのだが、今日はそんな余裕はなかったようだった。笑顔も、どこかぎこちない。
「まあ座ってくれよ」
座り慣れた丸椅子に僕が座り、食卓の椅子に座ったのがキャリーおばさんとマイ。ソファの椅子に腰かけているのがライダラおじさんだ。纏まりがないように見えるが、全員がお互いに目を合わせられる位置にいる。
離し始めるのを待った。最初に言葉を出したのはおばさんだった。
「えっとね。今後、どうやってレーシャちゃんを泊めようかなって迷ってるのよ。私たちはレーシャちゃんが悪魔の子だなんて思わないけど、彼女の事をよくしらない人は簡単に、そんな風に呼ぶ事ができるし、悪魔の子を招いている家も危険な状態になるの。分かるわよね」
「なんとなく、分かるよ」
巻き込まれる必要がなかったのに、マイの家は巻き込まれてしまったのだ。おばさんの言葉は、ライダラおじさんが続けた。
「休日じゃない昼は、俺は全然面倒を見てやれないんだが、ママはしっかりとレーシャちゃんの面倒を見てくれるっていうんだ。だが、もしそんな場面を一秒でも他所の奴が見たら」
演技口調になるのは癖なのか、おじさんは間を置いて、含みを持った言い方をした。
「我が家の信頼は急降下する」
「そんなに心配する事なのかな」
さっき僕は落ち着きを取り戻したが、それは噂の規模を僕は大きく考えすぎていて、そんなに心配する必要がないと決めたから落ち着いたのだ。ところが、僕より何年も先に生まれた人達がこの事態を深刻に受け止めている。なりふり構わず僕は一言口をはさんでしまったが、ほぼ自動的に脳が命令したようなものだった。
「私たちも最初はそう思ってたのよ。さっき市長さんから電話がかかってきて、レーシャちゃんが家にいる事を秘密にしてくださいって言うのよ。だから、大変な事なんだって思って」
「フォールズさんが?」
市長も重くこの状況を見ているという。
「だからな、これから作戦を立てるんだよ、この四人でな。レーシャちゃんを匿うために俺たちで何ができるか」
おじさんが言い終わった後、マイが、誰にも目線を合わせずに口を開いた。
「なんか私、嫌だな」
「何がだよう」
「レーシャは記憶がないんだよ。だから、全てが新しいの。この町が、最初の町なの。そんな町でさ、皆から悪魔の子扱いされて、こそこそ隠れて生活しなくちゃいけないなんて……。友達だって、たくさん作って欲しいし」
いつもより声が小さく、途中早口になっていた所があり聞き取りにくかったが、マイの意見の全体像はしっかりと分かった。おじさんとおばさんは肩を落とした。
「私も同じ意見よ、マイ。でもね、こそこそしないともっとひどい目に合うのよ」
「ママも俺も迷ったんだよ」
「でも、でも、なんとか、ならないの? だってレーシャは何も悪くないんだよ」
「その通りだレーシャちゃんは悪くない。悪いのは別の奴だ。だけど一度ついた捺印は消えないんだ」
「何か方法があるはずだよ。それを探してみようよ、諦めないでさ」
家族会議のようだった。僕は口を挟む隙がなかった。
「大丈夫。ちゃんといつかレーシャちゃんが堂々と道を歩けるような日々の方法は考える。だから、閃くまではこうするしかないんだ。それともマイ、何か方法を思いついたのか?」
「それは、ないけど」
彼女は両手を太ももの間に挟んで、いよいよ悔しそうな表情をしてみせた。
「だ、大丈夫だよ」
出だしの言葉、僕は噛む。自分の不甲斐なさを呪った。
「大丈夫だよ。僕も考える。それにレーシャだって、マイや、マイの家族がいてくれるだけでも嬉しいと思うよ。だってレーシャはマイの事が好きなんだからさ。マイが傍にいるだけで、今は嬉しいはずだよ」
「そう、かなあ。それなら嬉しいな」
「決まってるさ」
彼女の顔が綻び、やったぞ、と僕は嬉しさを表に出した。その笑顔をマイに向け、マイもまた笑顔を作った。
「アラード君の言う通りね。マイは、分かってくれたかしら」
「うん。でも、諦めないからね」
「いいのよそれで。私も嬉しいわ」
「私がレーシャちゃんの面倒を見るんだからね」
「僕もだよ」
第一発見者である僕も、レーシャを見守る必要はある。見守ってやりたいだけではないかと言われれば逃げ道を失う。
作戦会議の途中だったが、レーシャの様子が気になった僕は途中で抜け出す許可を得てマイの部屋に向かった。ドアを開けると、ジュエラに寄り添うようにして昼寝途中であったレーシャの姿があった。ジュエラも目を閉じており、姉妹のお昼寝中のようだった。
二人ともどういう寝方をしていたのか想像がつかないが、額と額をくっつけている。普段の強気な姿からは一切想像のできないジュエラの寝顔。何も言わなければ、愛嬌があるのだ。口にチャックでもあれば、僕は永遠に閉めたままなのにと思った。
屈託のない表情を浮かべているレーシャも元気そうで、僕は安心して外に出ようとしたところを、足に強烈な痛みが発生して思わずしゃがんだ。
「このド変態。何考えてんの」
本当にチャックがあればいいのに。僕はしゃがんだまま後ろを見た。目元をこすりながら夢から覚めたジュエラがいた。
「レ、レーシャの様子を見に来ただけだよ。本当だって。今は外に出ようとしたんだ」
「ノックくらいしたらどう?」
「したよ。多分寝てたんじゃないか。というより、なんで起きちゃったのさ。普通ノックの音で気づくはずなんだけどな」
「小さいのよ。もっと大きな音で叩かないと、気づくわけないじゃない」
口攻撃の手を緩めない。先に折れたのは僕で、ごめんごめんと二度謝った。
「二人とも仲がよさそうでよかったよ」
話題を変える術に出る。
「話してて楽しかったから。――ねえ、出て行かないの?」
「ごめんって。邪魔したね」
ようやく痛みも治まり立ち上がろうとしたところを、ジュエラが呼び止めた。本当に勝手な奴だ。
「ちょっと待って」
「何さ」
「レーシャが悪い風に言われてるみたいだけど、私信じてないから」
僕は驚いた。彼女はずっとこの家にいたはずなのに、もうここまで噂が回ってきているのだ。という事は、レーシャも知っているのだろうか。
「どうして知ってるんだよ、その事を」
「さっきメールが着たのよ友達からね。それで知った。友達にはバカって返してやったわ」
「それが正解だよ。えーっとジュエラ、ちょっと見直した」
「は、どういう意味」
「ううん。なんでもない、なんでもない。じゃあ出ていくよ」
「早く」
本当、合わない奴。本当なら怒ってもいいが、僕にそんな勇気は無く、言われるだけ言われて逃げた。本当に、女性というのは難しい。時限爆弾を扱うよりもきっと難しい。
リビングに戻って、三人の家族に笑顔で迎えられた。そして僕はマイの隣に座ったのだが、その拍子に体と体がぶつかった。
「あ、ごめん」
「いいよ、気にしないで」
ここにきてようやく、本当にようやく僕は気づいた。今までと今日、マイの見方が全然違うのだ。なんていうか、今まではただの友達としか見てなかった。ところがなぜか、なぜか。
今日は恋心が僕の中に潜んでいた。