第十四話
外はさっきよりも煙の匂いが濃くなっており、バーベキューをする時の匂いとは全然違って、おどろおどろしい。
群衆は誰もが非日常的な空間に入り、慌ただしい。本当なら僕も、これから町の未来はどうなるのかとその気持ちを共有したかったが、残念ながら僕は誰よりも早く非日常空間の仲間入りをしているのだ。レーシャが来てからというもの。世代を騒がす大事件が起きた事に違いはないが、だからといって騒ぐ気分にはなれなかった。
誰かが殺されてしまうより、大火事が起きてしまうより、僕の人生の中ではもっともっと上位な大事件が起きたのだ。
外に飛び出してみたものの向かう場所がなかった。無鉄砲に行動する愚かさは分かっていたつもりだった。あのまま部屋に残り続けていたら狂いそうだったから、飛び出してきた。行く道すら描かないままに。
自然と足は砂浜の方に向かっていた。人々が何やら話していたが気にならなかった。だが話し声は今の僕にとって雑音に他ならない。僕は砂浜を歩き続けて、端まで体を持っていった。。ここは昨日、レーシャの体を運んだ場所だ。
適当な大きさの岩を選んで、僕は腰かけた。肩にマイの手が乗った。彼女は、僕に何も話しかけず黙ってついてきていたのだ。
「父さんはあんな事言わないんだ。じゃあ、あれは誰だったんだ」
そうか。あれは父さんじゃなかったんだ。二年前の事故で、父さんも死んだんだ。
だからもう、誰も戻ってくる事がなかったのだ。僕は父の幻影を見ていたのだ。そのせいでこんなにも悲しく、苦しい思いを感じなければならないのだろう。
「元気だけどちょっと面倒くさくて、頼りがいがあるけどたまにうざくて、でもやっぱり家族を支えてたんだ。こんなのあり得ないよ」
「私も、そう思うな」
「あれじゃあレーシャが可哀想じゃないか。あんまりだったよ。精神がボロボロになってたのは知ってる。どんな些細な事でも、怒ってたから、今までも。今まで僕は我慢してきたじゃないか。なのにどうして、僕はあんな事を言ってしまったんだ」
父への批判から、いつの間にか自分のした過ちを言葉で償っている。僕の精神状態もまともとは言えなかった。会話の順序も、何も考えられていない。マイの事さえ。
「僕は弱すぎる」
「ううん、そんな事ないよ」
「そんな事ないわけないんだ。マイだって、僕のこんな姿見たくなかったよな。ごめん、ごめんよ」
本当なら、二回だけでなく三回は謝るつもりだった。ところが、三回目発音をしかけた時、頬をマイに指で押されたせいで言葉が飲み込まれてしまった。マイは笑ってこう言った。
「どんなアラードを見ても、私は平気だよ。元気なアラードを見るのが一番好きだけどね」
「……ごめ――」
「二回だけでいいよ」
今さら気づくのも遅かったが、潮の香りが火事の気配を消していた。というのも、火事の濃い匂いが全く鼻につかなかったのだ。群衆の声も波の音が消し去っていた。
マイが僕の隣に座る。そうすると、たまに彼女の鼻息が手の甲に当たり、一瞬だけ鼓動が高くなる。いやそもそも、女性を隣に置くだなんて、人生で初めてだった。先ほどまでの憂鬱さを途端に忘れた。惚気というのは人を馬鹿にするのだと、今ようやく理解した。
「ここ、風が心地いいね。アラードのお気に入りの場所なの?」
「違うよ。昨日初めてここに来たんだ。でもお気に入りの場所になったかな」
「私も好きになった。今度、ジュエラもここに連れてきてみようかな。こういう所好きなんだよ、ジュエラも」
「へえ、意外だな。ファッションショーの舞台とか、モデル雑誌の写真の中とかがお似合いだと思ってたよ」
「そうなんだけどね。でもさ、この港町で育った子っていうだけで、なんだか派手な所は似合わない気がしない?」
「分かる気がするよ」
あまりにも派手じゃないせいで、この町はかなり地味だ。町も、住民も派手な飾りつけは似合わない。例えば僕が町を写生するとして、オリジナルでビルやクリスマスツリーのような人目を惹く物体を描く事はないだろう。
都会っ子からしてみれば恐ろしい程つまらない所だろう。ゲーム機もないし、大きなデパートやゲームセンターもない。元々都会っ子だった僕は、最初こそ退屈さを感じてはいたが、今は地味の具合に心が躍っており、完全に港町の住民に染まっている。派手なのは嫌いになった。
「素敵な町でしょ」
一番僕を和ませる言葉だった。この町の住民はみんな、この町が好きなのだ。洗脳されているだなんて無粋な事は言わない。不平不満は、それはあるに違いないが、堂々と町が嫌いと言っている住民を見た事がない。
この、絵にする事のできない幸福な気分は、自然と湧き上がってきた感情じゃあない。マイが何も言わずついてきてくれて、隣に座って、僕を和ませてくれたから晴れてきたのだ。ついてきていなかったら、僕は一生道を迷っていただろう。
「ありがとう、マイ。君は優しすぎていけないな」
「それしか取柄がないから」
ほとんど波に消されてしまったが、僕は笑みの声を出した。面白いから笑った、というのはまた違う。自然だった。僕は今の今までずっと下を向いていたが、首が疲れたし、下を向く必要もなくなったしで顔を上げた。マイの顔も見たかった。
グロウの姿が見えた。僕はパニックに陥る前に、呼吸をただした。目の前にはいない。遠くから、僕たちのいる方向へ向かってきているだけだ。それだけだったが、威圧感があった。
「何しにきたんだろう」
不満な声を出したマイ。僕も同じ意見を持った。
いつも三人でいたグロウは今日は一人だった。彼は近づいてくると、第一声を放った。
「ここは俺の場所だ。とっとと帰んな」
「わ、わかったよ。ここはグロウのお気に入りの場所だったんだな」
「俺だけじゃねえ。ロエとカフラも一緒だ」
カフラというのは、グロウの取り巻きの一人だ。
「今ロエとカフラは何をしてるんだろう」
「知らねえよ。いいからさっさとそこを退け。考え事がある」
「悪かったって。じゃあ、行こうか、マイ」
本能的に危機を感じていた僕は、マイの手を引っ張ってその場から離れようと立ち上がった。グロウを横切った所で、マイが一度僕の手を離した。全く読めない行動のせいで、僕の足は止まった。
「グロウ。言っておくけどさ。私はあんたの考え許さないから」
「マ、マイ、何言ってるんだよ」
二人の間に、なんらかの軋轢があったのか。元々マイはグロウの事が好きではなかったが、好きではない、という段階を、嫌い、という所まで落とすような事をグロウはしてしまったのか。マイはこんなに強い口調で許さないと口走る事なんて一切なかった。
「さすが、噂話は伝達が早い」
マイは僕の手を握って歩き始めた。グロウはどんどんと遠ざかっているだろう。僕は後ろを振り向かなかった。ただ前だけを向いて、マイと肩を並べて歩いて行った。
「許さないって、どういう事なんだい」
「知らない方がいいよ。絶対、悲しくなるから」
「マイを怒らせるって、相当ひどい事をしたんだろうな」
「とっても。信じられないくらい」
知らない方がいいと言われても、やはり気になってしまう。深くは追及しなかった。マイの良心を最大限受け取りたかったからなのだが、その良心はなかった物になってしまう。
群衆の方に戻ると刑事のアーサーの姿が見えた。近づく前に、彼が僕たちを見つけて歩みを寄せた。
「やあ、久しぶりだなアラード君、それにマイちゃん」
「お久しぶりです」
僕とマイは頭を下げた。旧友にあった時の気分で、なんだか嬉しくなった。刑事が来ているという事は、喜ばしい事ではないが。
「二年振りだなあ。二人とも熱いね、手なんか繋いじゃって」
「あ、そのこれは」
「今の時代、友達同士でも手を繋ぐのは普通だよ。昔とは違うんだから」
おどおどしていた僕と違って、マイはきっぱりとした姿勢を保っていた。尊敬する。
「ああそうかい。なんだ、ちょっと残念かなあ」
友達同士か……。
「ところでさ、そのー。フォールズさんから話を聞いていたんだけど、レーシャっていう子の保護者がアラード君だったかな」
「はい、そうですが」
「ちょっと、会わせてもらってもいいかな。色々聞きたい事があってね」
全く要点が掴めなかった。マイは少し顔を引きつらせて、アーサーさんの言葉にこう返した。
「どうしてレーシャに?」
「秘密だよ、秘密」
すると、群衆の中から近づいてきた、名前も知らない子供が突然、こんな事を言ったのだ。僕は最初、耳が壊れたのかと思った。
「会わない方がいいんじゃない? 刑事さん」
「いやいや、どうしてそんな事を言うのかな?」
「どうしてって、レーシャって悪魔の子なんでしょ? さっき誰かが言ってたよ」
意味が分からない言葉の羅列に、困惑した。何か、この子供は勘違いをしているに違いなかった。冗談なのだろうと思った。だから僕は安易に、マイに笑いかけようとした。
今度は僕は、目が壊れたのかと思った。マイはむすっとした表情で子供を睨み付けていたのだ。彼女の顔に気づいたアーサーさんは、子供をどこかへ追いやった。
「全く……。なあ、すまない、アラード君にマイちゃん。ちょっと不愉快にさせてしまったね。えっと、違うんだ。僕は別に、レーシャちゃんの事を悪魔の子とか、そんな風に思ってる訳じゃないんだ。ただ、どんな子なのか、それだけだから」
「あ、あのすみません。全く分からないのですが……」
「そうか、君にはまだ伝えられてなかったんだね。ある意味、幸運かもしれない。いや、幸運なんて言ってはいけないよな。なあアラード君、これから僕の言う言葉を聞いても、君は分からないかもしれない。でも、受け入れなくちゃならない」
「ねえアーサーさん、言わなくてもいいんじゃないの」
「マイちゃん、気持ちは分かる。でもね、保護者というのはだからこそ、辛い立場でもあるんだよ」
アーサーさんは背広を着ていたおかげか、いつもより身長が伸びて見えた。彼は膝を少しだけ丸め、マイの肩を叩いた。
そして僕の方に顔を向けたのだ。僕は何も見る事が出来なかった。
「レーシャちゃんはね、今、さっきの子供が言ったように、悪い噂の犠牲者になってる。朝の学校の事件と、さっきの大火事を引き起こしたのはレーシャちゃんだって」
「どうして、ですか。そんな根拠なんてなにもない。信じる方がおかしい」
「僕も同意見だ。でも、アラード君、安心してほしい。僕がしっかりとなんとかするから、大丈夫。心配しなくていい」
「一体、誰がレーシャを犯人だって言ったんですか……?」
黙ってしまったアーサーさんの代わりに、マイが言った。
「グロウ達よ」
「なんでだ。レーシャは何もしてないじゃないか」
「落ち着いて、アラード君。いいかい、町の人々は二年前の事件が切っ掛けで、別の町の人達に対して危機感を持ち始めているんだ。そのせいで、町の人達の仲間意識はとんでもなく高い。そこは分かるね?」
「分かります。分かりますが、だからといって、罪のない人を疑うのはどうかと思いますよ」
「そうとも。僕は、アラード君が町の人達を敵に思ってほしくないからこんな事いうんだけど、皆は悪くない。悪いのは噂だよ。噂っていうのは強靭な力を持つんだ。特に今回のは色々な要素が混ざり合って、効力を高めている。だから住民は、それに取りつかれてしまっているだけだよ。大丈夫、しっかりと僕が噂を消し去ってみせるから」
必死に宥めようとしてくれているアーサーさんだったが、僕は穏やかな気分には到底なれなかった。住民は敵じゃないと言われたところで、納得できない。なんでそんなバカげた事を信じてしまうんだ。この町の人達は、質が良いのではなかったのか。
「私も、あまりいい気分じゃないよ、アーサーさん。何かお手伝いできないかな? 黙ってみてられない」
「経験談としてはね、噂が消えるには、それ以上にセンセーショナルな事件が起きるか、レーシャちゃんを別の町に避難させるか――」
「避難? どういう事ですか」
まるでこの町にいたらレーシャが危険だというような言い方じゃないか。
「そのまんまの意味だよ、避難って。最悪の場合、住民の矛先はレーシャちゃんに向く事だって考えられるんだ。真犯人じゃなく。たとえ無実を証明したとしても、噂というのが出来た以上消す事はできない。史実と同じようなものだよ。永遠に人々の心の中に刻まれる事となる。一度でも印象が悪くなれば、安定した生活は望めないだろう」
「おかしいですよ。言った者勝ちじゃないですか」
「仲間意識や、共有意識が強いというのはね、そういう悪い方向に働く事もあるんだ。最悪なケースが今この町で起きようとしてる。だから避難という言い方をした。無礼だったかな」
「アーサーさんは悪くないです」
誰が悪いとか、誰が正しいといった次元は既に超えているのだと思った。だからアーサーさんも対処に悩んでいるのだ。
「今すぐにでも犯人が見つかれば、噂の力も大きくならずに済むんだけどな」
僕は喉が詰まった。アーサーさんに表情の変化を見られなくするために必死になった。汗ばんだ手が、マイと僕とを離した。
真犯人は、ロエだ。そして僕は約束してしまった。刑事さんには、その事は言わないでおくと。
レーシャを守るために友人を捨てるか? 友人を守るためにレーシャを捨てるか? 突然意地悪な質問が、僕の人生に迷い込んできた。
どちらを選んでも僕に害はないと、思ってはいけない。本当に意地悪すぎて、僕は、もう――。