第十話
広大に見えた海の中で、一人でいったい何をしていたんだろう。様々な形の水をみると毎回レーシャは呟く。怖くなる事なんて一切なかった。むしろ、自然に包まれているような気がして、心地よかった。
冷たい水で雑巾を洗ったレーシャは、再び任務へと戻る。今度は階段を一段ずつ掃除するのだ。背が低い子供のレーシャは床担当で、キャリーにレクチャーされて綺麗に磨いていた。その仕事ぶりは上々で、レーシャが掃除した場所には花が咲きそうなほど綺麗な景色が見えていた。
階段の、一段目を拭き始めた途中、玄関の鍵が開いた。しゃがんでいたレーシャは立ち上がって、扉の方を見た。
「ただいま~。あ、レーシャ。お掃除手伝ってくれてたんだ」
「マイ!」
肩から鞄を担いでいたマイはいつも通り、電話で聞いた通り大丈夫そうな表情をしていて待ちに待っていたレーシャは速足で近寄った。
「キャリーおばさんや、アラードから聞いてるわ」
「事件の事だよね。アラードはいる?」
「いないけど。買い物に行っちゃったよ」
「そう。ちょっと待っててね、すぐ手伝いにくるから」
二階の窓掃除をしているキャリーの所にいったマイは、最初に元気よく「ただいま!」と言った。
「まあ、おかえりなさい! よかった。フォールズさんからは大丈夫って言われていたんだけど、それでも心配で。けがはないのね?」
「うん平気」
「ああ神様、ありがとう」
マイは暖かな体の中に抱きしめられた。
「私も掃除を手伝いたいんだけど、いいかな。レーシャと一緒に」
「あなたって強いのね。同級生が、その、亡くなっちゃって、心を痛めてるかなと思ってたのよ」
母親の体から一歩離れたマイははっきりとはしなかったが首を二回だけ横に振った。
「ちょっとは悲しいと思ってる。だけど、私よりもミオールの家族やその友達の方が悲しいはず。そう思ったら、いつまでもしくしくしちゃいけないなって思って」
「分かったわ。多分ミオール君のお葬式はみんなで参加すると思うから、その時まで悲しいという気持ちを取っておくために掃除をしてきなさいね」
「うん。それにレーシャとも話したい事があったんだ」
「昨日、夜遅くまでお話してたんじゃないのー?」
バレてたかっ! マイは小さく舌を出した。
「可愛い振りをしてもだめなものはだめよ。……くす、まあそれは置いておいて、仲良しなのね、あなた達」
「なんだか楽しいんだよ。昨日はトランプをレーシャに教えてあげてたから夜遅くなっちゃったんだけど、時間を忘れるくらい楽しくて」
「マイの母性が芽吹き始めたのかしらね」
「それもあるかも」
昨夜の事はほとんど覚えているマイ。トランプとお話がメインだった。お話については主にマイがレーシャの知らない事を教えてあげる案内係のようなものだった。読書が好きなマイはオススメの本を言ったり、興味を持ってもらうためにあらすじを教えてやる事もあった。そうするといくら時間があっても足りないのだ。
「あなたがしっかりとレーシャを守るのよ。お母さんとお父さんはそのサポート役。色々と判断しなくちゃいけないのはあなたね」
最高の笑顔を母親に見せたマイは、雑巾をもってレーシャの所へと戻った。廊下に水バケツがあり、そこで雑巾を濡らし、絞る。冷蔵庫から出した直後のように水は冷たく、マイは目を瞑って水を落とした。
「アラードは大丈夫よ」
レーシャがそういったのは突然の事で、マイははてなマークを浮かべながら雑巾と階段の手すりをくっつけた。
「えっと?」
「マイはたぶん、アラードの事を心配してるんじゃないかなって思ったのよ」
ここまで明確に心臓の音が聞こえたのは初めてだった。マイは手を止めて反論する。
「別に、別に心配なんてしてないよ? まあだけど、アラードの事だから私の事を心配して、学校に入ってきたり、考えすぎて変な事口走ったりしてるんじゃないかなって思ったけど」
「たぶん、それを心配っていうのよ」
「ね、ねえレーシャ」
混乱のあまりどうしようもない事を聞いてしまうだろう。
「今日の私の恰好、どうかな?」
うなじに到達する前にぴたりと止まった黒い波のような髪。前髪は真ん中で分けていて、淑やかな印象を道行く人に与える普段着。
レーシャは下から上まで熱心に見た。評論家に似た目をしている。評論家はたいていの場合、厳しい目つきをした後かなり主観の入ったアドバイスを交えて欠点を指摘するものだが。
「可愛いわ」
話題が逸れた事はマイの意図によるものだったが、意図した先でもまた心臓が高鳴りを続けた。純粋な子供に可愛いと言われた乙女は、誰だって体温がいつもよりも上昇してしまうもの。ただでさえアラードを心配している事が一晩しか共にしていないレーシャに察された後だ。マイの動作一つ一つはロボットのようにぎこちなくなっていた。
「マイとアラードって、どこで出会ったの」
当分の間は無言に徹しようと思っていたマイだったが、しばらくの間はできそうにない事を知った。
「浜辺でね、絵を描いている青年がいたんだよ。私も絵を描くのは好きだから、何気なく見てみたんだけど、とても上手だったから声をかけたの。切っ掛けはそこだったかな」
「マイも浜辺にいくのね」
「ちょっと寂しかったんだ。お母さんに叱られて、その時お父さんはいなかったし、友達にも弱気な所をあまり見せたくなかったし」
「キャリーおばさんも叱るの」
「うん。ずっとこの家にいたいなって私が言ったんだけど、それはだめよって言われて、私の事嫌いなのかなって思って反抗したくなっちゃって、それでね」
掃除をする手は緩やかになっていた。やはり会話が弾むと仕事の手というのは止まりやすくなる。
その日、マイの実家暮らし提案は冗談ではなかった。一人っ子のマイは父親と母親の事が一番の宝物だと思っており、離れたくなかったのだ。しかしその考えはキャリーの目から見れば依存心によるものだと思えた。どんなに相手が大切であり、代わりのない存在であったとしても、依存心を抱くのは間違った愛し方だとキャリーは考える。
「友達なんかに母に叱られたから悲しいなんてみっともない事言えなくて、だからせめて自然に……海に愚痴を聞いてもらおうかなって思って浜辺にいったんだ。そしたらアラードがいて」
「友達になったのね」
「うん、なんかもっと特別な関係のような気がするけれどね」
気付いたら同じ所ばかり拭いていたマイは、急いで別の場所を探した。
「アラードに会って色々とお話をすると、お母さんが言っていた意味がちょっと分かったような気がしたんだ。アラードと一緒に帰って、家の中に入りにくかったんだけど、謝ったら許してくれた。あ、そうそうその後にケーキも買ってくれたっけ」
「偉いね、マイ」
「そうかな」
「うん。アラードとは浜辺で、どんなお話をしたの?」
「絵が素敵だっていう話とか、私の学校生活についてとか、その時はアラードの家族がいたから、アラードのお話とか。お父さんが移動美術館してるだなんて聞いた時はびっくりしちゃった。その事をうちのお父さんに話すと、よくわかんないけどお父さんも移動美術館について感動して、家族同士の仲も良くなったんだよね」
「マイのお父さんは面白いね」
「基本的におばかだからね」
おばかという言葉はライダラにぴったりと当てはまるものだ。後先考えずにやりたい事だけをやるから大失敗すら平気で起こす。度々家族に迷惑をかける事があったが、詫びとしてプレゼントを買ったり手作りで料理を振舞ったりと素直な所があり、キャリーもマイも彼を憎んではいない。
ところがやはりレーシャはライダラのテンションについていくことができず、昨夜も避け気味だった。しかしさすが父親の力。避けるレーシャという事象も笑いに変える。
お風呂からあがってバスタオル姿のままレーシャに爽やかな笑みを送り、その横を颯爽と通り抜けるレーシャ。ライダラはそれを狙っており、他の家族たちから笑い者にされていた。
「面白いから、ライダラおじさんは好きよ」
「え? じゃあなんて相手してあげないの?」
「私、あそこまで元気いっぱいじゃないから」
物静かなレーシャとはほとんど対照的なライダラ。確かに彼の後に続くには膨大なエネルギーが必要だろう。
最初こそレーシャの言葉に顔を赤らめて口数を少なくしていたマイだったが、なんだかんだと昨夜のように話は色々な方向へと弾んでいった。
掃除の出来具合は大幅に遅れているが、楽しそうに話している二人を見たキャリーは、無条件で遅れを許す事にした。
階段付近の掃除も中盤に差しかかった所だったが、来客を知らせるベルがマイの耳に聞こえた。
「アラードかな」
階段の地面に膝をつけていたマイはすぐに立ち上がって玄関に近寄り扉を開く。
「あれ、あなた達……」
「よう」
先にいたのはアラードではなく、彼よりも大柄で身長も大きいグロウと、付き添いのマイロがいた。
「私の家に何の用?」
マイは強い口調で言った。ところが、彼女には言いなれない口調だったせいで二人は全く動じずに言葉をつづける。
「ロエの姿が見当たらん。見かけてないか?」
「見てない」
「そうか」
用が済んだが、グロウは笑みを浮かべてマイを視線から逃さなかった。
「な、何。まだ何か用があるの」
「なんもねえよ。フン、これだから分からずやの女は」
「じゃあ帰って。今は掃除で忙しいの」
マイがリスだとしたら、グロウはチーターだ。リスは勇敢にもチーターを睨むが、次の瞬間起きる事は野生の世界では簡単に想像でき、現実になる。ところがここは人間の世界。
「俺が本能で動く動物じゃなくて命拾いしたな。いくぞ、マイロ」
「じゃあねぇ、マイちゃん。もしロエの事見つけたら僕たちに教えてねぇ」
終始ニヤニヤしていたマイロはしゃべってる最中でも表情を崩さなかった。
三人のやりとりを、レーシャは後ろでこっそりとみていた。マイは玄関の扉を閉めて鍵をかけ振り返ると、死角からそっと顔を覗かせてマイを見つめるレーシャの姿があった。
「あの人達は誰かしら」
「昨日話した、正義の味方気取りのグループだよ。いつもは三人組なんだけど、今日は二人みたい。はあ、クラスが変わってせっかく離れ離れになったのに、顔を見せられて嫌な気分」
「嫌いなの?」
「前に一度アラードを馬鹿にした事を言ってね。男なのに絵の世界にいくなんて女々しくて弱っちい奴とか、これはもうルネサンス期や中世を生きた画家たちを敵に回してるのと同じ! だから許せない。それに多分アイツ、私の事気に入ってるんだよ」
「そうなの」
「前クラスで同じだった時は、執拗に話しかけてきたり私を庇ってきた時があったもの。それに、他の女の子たちと私を見る目が全然違う」
「でも、好きでいてくれてるならいいことだと思うわ。嫌われるよりも、いいと思う……」
「そうなんだけどね。でも、やっぱりアラードを馬鹿にした事がまだ許せないのよね。それに――」
寸前の所でマイは口を両手で塞いだ。
「それに? どうしたの?」
「なんでもない。それじゃあ掃除の続きをやろっか」
「うん……?」
口が裂けても本人に言えるわけがないのだ。
――レーシャが犯人だという噂を流しているのは彼だなんて言ったら、レーシャの生きる世界が変わる。