2 赤の泉と緑の丘
体を襲う浮遊感が消えるとソレーユは軽く息を付いた。少し離れた場所に赤い色があふれている。この色を見るのは二度目だ。もう、二度と来たくないと思っていたのに。今日は赤の泉に入りに来たわけではないのが不幸中の幸いだろうか。
《ソレーユ》
もう、誰もソレーユをディオスと言う称号で呼ぶ事はしない。まるでそんな名前で呼ばれていたのが何百年も前のことのように違和感無く〝ソレーユ〝と言う名前を受け入れているようだ。セレスティアにいる人間が皆、彼等のようであったのなら、異能者も簡単に受け入れられるのだろうか。
「ユラ、ありがとう。帰っていいわ」
真っ黒なローブに身を包み、身じろぎ一つせずに彼女を見るユラは、小説を読んでいる時に感じていたイメージどおりの姿かたちをしている。ただ、初めて彼女を召喚したときに感じた恐怖を今は感じない。生まれたばかりと今とでは随分と変わったのかもしれない。今のユラがそのまま本の中に戻れば、彼女は主人公の敵にはならないだろうか?……ありえない想像に思わず口元に笑みを零した。
《何を笑っているの?》
「あなたも変わったなって。ユラ、私は私の中から……本から生まれたあなた達が大好きだわ」
今まで伝えた事の無かった言葉。それが素直に口から出てくるあたり、ソレーユもまたたった数週間でメルファン達に感化されたのかもしれない。いや、違うか。一番は彼の存在だ。
「ソレーユ。俺、お前みたいな子、好きだよ?皆異能者としてではなくて人としてお前を見てくれれば分かってくれるのにな」
ウィリアムがポツリと口にした言葉が蘇る。イレウスに条件を提示されたときは、自分では無い何かが、それが何なのかはわからないが、とにかくその何かがセレスティアを守る事を望んでいた。でも、今は違う。自分の意思で、彼等が生きてきたこの国を守りたいと思う。
「ユラ、行ってくるわ」
突然のソレーユの言葉に驚いたように目を瞬いていたユラが小さく笑ったような気がした。相変わらずの無表情の中に時折見える笑顔にソレーユは嬉しくなった。
あの時の苦しみを考えると、もう一度赤の泉に近づくのは怖い。それでも、彼等の笑顔が守れるのなら、それがいい。
ソレーユが赤の色が溢れる森の奥へと消えていく。その様子をユラはどこか複雑そうな面持ちで見送り、ゆらゆらと姿を消した。後にそこに残ったのは何も無い静寂の森だけだ。
赤の泉は名前の通り、赤い色に溢れていた。一体全体今まで何人の人間がこの泉に入り、命を落としたのだろう。多くの血を吸い、なお、綺麗に輝き続けるその泉が恐ろしくもあり、愛しくもあった。
ソレーユは泉の前に膝をつくと、両手を合わせた。神に、ではなく、今この時までにここで命を落とした人たちに祈るために。
暫く手を合わせ、顔を上げたソレーユの目は強く、前を向いていた。
ソレーユは大きめの瓶を取り出すとそれに泉の水を汲んだ。一杯まで入れるとずっしりとした重さがソレーユの腕に感じる。この一杯の水が神の穢れを払い、この国を救うという事がにわかに信じられない。それでも、今は彼を信じるしか道は無い。
「ヘンデカ」
神域の外に出て、呼んだ声に答えるかのようにユラリと人影が現れた。ユラと似たような雰囲気を持っているが、耳が尖り、肌が浅黒い。人とは違う生き物である事は彼女を見た全ての人間にわかるだろう。
「今度は緑の丘の側へ」
再び告げられた場所に彼女が端正な顔をゆがめた。ヘンデカたちにとっても神域は余り近づきたい場所では無いのだろう。それが分かっていても、彼女達に頼む他無い。
《了解》
返答と共にヘンデカが腕を振る。フワリと浮遊感が襲い、ソレーユの体は別の場所へと移動した。とはいえ、次もまた古の森の中。神域間近にいるせいか、魔物はいないが、もっと恐ろしい物を肌で感じた。
「ありがとう。帰ってて」
ソレーユはヘンデカの返事を待たずに丘に向けて走った。周りを見る余裕も無いほどに気が焦っている。早く、早く届けなければ。
青白い顔色のウィリアム達が浮かんでは消えていく。もし、彼等があのまま目を醒まさなければ……考えたくも無い想像にゾッとした。
丘の上にある洞窟に飛び込んだソレーユはギョッと目を見張り、佇んだ。血の海の中に三つの人だったものと、剣を握り締め倒れている少女がいる。少女は生きてはいるだろうが、顔色が悪く、体中にべっとりと血がついているため、一瞬の判断に迷う。本当に生きているのか不安を感じるほどだ。
その洞窟に足を踏み入れるのは勇気がいる。たまらないほどの恐怖を感じた。足がすくみ、体が震える。
それでも入らなければならない。この国を、そして、血の海で倒れている少女、メイビーナを助けたいと願うのなら、ソレーユも覚悟を決めるべきだ。
ゴクリと息を飲み込み、ソレーユは震える足で、洞窟の中へ一歩を踏み出した。
ペチャッと水を踏みつける音に耳を塞いでしまいたくなった。これは、ただの水では無い。人の命の源なのだ。……赤の泉に入った時とは比べ物にならないほどの恐怖と嫌悪感がソレーユの体を貫く。
一歩を踏み入れたまま、動く事も出来ずに佇む。今まで手を汚した事は数知れずある。そんなソレーユを知る人間が今の彼女を見れば笑うだろう。呆れるだろう。それでも、この中に一歩足を踏み入れる事がソレーユには出来なかった。
「大丈夫よ、もう、大丈夫」
耳の奥で柔らかな声音が聞こえると共に、ソレーユの意識が闇に沈んでいく。もう、あの場所を見なくてもいいと言う事に彼女は安堵した。その声が何であるのか、気にする事さえもなかった。




