第2章 神との取引 1 呼ばれた娘1
「……ユ、ソレーユ!!」
耳元で響いた大声にディオスは慌てて目を開けた。頭がガンガン痛み、視界がグラグラとしてまるで地面が揺れているような錯覚を感じる。
未だ視界の定まらない目に、自分を覗き込んでいる人物は写らないが〝ソレーユ〝の呼び名はたった一人だけのものだ。
「……エイス……?」
出てきた声はかすれていたが、エイスには届いたらしく小さく返事をする声が聞こえた。
エイスはディオスをソレーユと呼ぶ。「ディオス」と言うことばが嫌いだ、と。その理由は知らないが、元々ディオスと言うのは名前ではなく称号なのだからディオスにとって否はない。自分を呼んでいることさえ判ればそれでいい。
エイスが誰なのか、一体何なのかディオスは知らない。ある日突然やってきた彼女はそれ以来チョクチョクと姿を現してはディオスと話して行く。何故異能者である彼女にここまで関わろうとするのかは判らないが、彼女が異能者の中にありながら人としての感情を持っているのは、この異能のせいばかりでなくエイスの存在が強い。
「エイス……わたし、行かないと」
漸く視界が定まり、起き上がったディオスの言葉にエイスが驚いたように目を見張った。
「行くって……どこに……?」
「黒の塔が……呼んでる」
意識が無い間、何か夢を見たような気がする。はっきりと内容は覚えていないが悲しくて、苦しくて、それでも幸せを感じる瞬間があったような気がする。
内容は覚えていないのに、黒の塔に行かなければいけないような気がして、ディオスの中の何かを突き動かす。
「ちょ……黒の塔って……ソレーユ、まさか抜け出すつもりなの?」
恐る恐ると言うように訊ねるエイスにディオスは小さく頷いた。それが大変なことだということも、後にとんでもなく苦しい思いをする事もわかっている。それでも、一度生まれた衝動を抑える事なんて出来ない。あの方に……イレウスに会わなければいけないような気がする。
「エイス、大丈夫だから」
自分を人として扱ってくれた唯一の人。心配なんてさせたくは無い。それでも、行かなければいけない。
「……じゃあ、私も連れてって。一人で行くなんて駄目」
すぐ戻ると言い置いて地下から壁の中に消えて行く。確かそこに隠し扉があるのだといっていたがそれがどこに続くのか確かめた事は無い。
「ヘンデカ」
小さな声で呼びかけるとクルクルと空気が回り、ヘンデカが現れた。意識を失う前に見たのと寸分違わぬ姿にディオスは思わず頬を緩めた。
「私を、外に連れ出して欲しいの。……黒の塔に行かないと……」
色々な理の中で力を扱う他の人たちじゃなくて、全ての理をまげて力を使えるダークエルフであるヘンデカにしか頼めない。ディオスの力を懸念してか、それとも元々なのか、ここでは様々な魔法がかけられていて、呼び出す以上の力を使う事は難しい。だが、抜け出すためには正規の方法で外に出るわけにはいかない。
《どうなっても、知らないよ》
いやいやと言うように顔を顰めたヘンデカにディオスは小さく頷いた。やはり、あのヘンデカでさえも力の誓約は絶対らしい。最も造ったディオスは彼等にとって神にも等しいのだから当然かも知れないが。
「お願い」
《了解》
ヘンデカが真っ黒なローブに包まれた漆黒の腕を振るうと、ディオスの周りで風が凪ぎ、視界が反転した。
「ディオス!!」
ディオスの耳に聞こえたのは今にも泣き出しそうな悲鳴のような声。いつもこんなディオスを心配してくれる唯一の人、エイスを悲しませた事だけが、とても悲しい。
「ごめん、エイス」
ディオスの呟きは誰に聞かれることもなかった。