電車
彼は左足に靴を履かない。靴下も履かない。
アスファルトが焼ける真夏にも、霜の降りる真冬にも、やはり彼は何も履かない。
とうに爪は磨り減り、踵はかさかさにひび割れている。
今では電車にも車にも普通に乗る。だがその左足にだけは、靴も靴下もどうしても履けない。
スーツの裾を長めにしており、傍目には分からない。それでも気付いて不審に思う人はいる。理由を問う人に彼は、いやあ、どこか狂っているんですねと人事みたく答える。
気遣った娘が一生懸命彼に編んだ靴下は、まだ一度も履かれることなく箪笥に眠っている。そう、娘はあのころまだ九つだった。
忘れつつあるし、忘れたいと思う。でも電車の中、扇風機が低く唸るのを聞くと、やはりあの日を思い出す。
九時二十五分、彼は自宅から最寄の三ツ境駅まで歩き、ちょうどホームに入ってきた急行列車に乗り込んだ。
車内は土曜日ということもあり、座っている人より立っている人のほうが少ないくらいだった。
ドア脇には野球部だろう、体格の良い学生が大きなスポーツバックを置いて立っていた。
八人掛けの座席には六人がゆったりと座っており、座れそうな隙間は無い。彼がつり革
に摑まった時、ゆらりと電車が走り出した。
電車の中で目の向け所に困るのは、自分だけだろうか? そうではないと彼は思う。これほど近くに居て、これほど互いが互いに無関心を決め込む場所は他に無い。
座席の六人のうち、四人は携帯電話を手にしており、残る二人は瞑目している。
停車駅の間は狭く、次の希望が丘駅までは一分で着く。ラッシュ時は激しい出入りも、その日は恰幅の良い中年女性が乗り込んだだけだった。
「良かったら――」
呟くような声は、それでも響く。眠っているように見えたニット帽の若い男が席を立ち、女性に声を掛ける。
「まあ、ありがとう」
女性は笑顔で彼の右斜め前、空いた席に腰掛ける。
彼も笑顔を若者に向けたが、若者は平然としたものでそれには応えなかった。何気なく若者の視線を追い、そのまま見慣れた車窓の景色を眺める。
車輪の刻む二拍子を、電柱がほんの少し間延びしたリズムで追いかける。決して合わさらない二つの微かな苛立ちを、連綿とうねる電線が繋ぐ。
二俣川駅を過ぎると、もう終点の横浜駅まで停まらない。列車は速度を上げ、より快いテンポで走り始める。
瞬間。
突き上げる鈍い衝撃。視界が反転し、彼には空の青が見えた。
腹が何かに叩きつけられる。必死でそれを掴む。誰かの悲鳴が聞こえた。
擦れるような金属音。何かの割れる音。足が扇風機に叩きつけられる。
叫び声。彼は必死で手に力を込めた。右手は吊り革。左手は――。
金属音が止む。彼は左手で網棚に掴まり、必死にぶら下がっていた。
眼下を視界の隅にみやると、紅の中に叫ぶ白い歯が浮き出てみえた。
「助けて!」
「あっちだ!」
皆が互いに違う方向へ足掻く。互いが互いを踏みつけ、押しのけ、引き摺り、光の差すほうを目指した。誰かが殴られた。
誰かの手が強い力で彼の左足を掴む。必死で網棚の縁を掴みなおし、振り払う。
幾ら力を込めて振っても離れない。見下ろす。
張り詰めた細い指に、薄桃のマニキュア。乱れた髪の奥。その両眼。捨て去られた子のような、それでいて異常に強い光を放つ。彼女は歯を食いしばっていた。
革靴が下に落ちた。爪が靴下を通して肌に食い込んでいた。彼の指も限界に近付いていた。右足も使って必死でその手を振り払う。
ずるり、と靴下ごと抜けた。
彼女は突き飛ばされる。だが見えなくなるまでの一瞬、視線はずっと彼を捉えて離さなかった。
素足の左足は網棚にすぐ届いた。彼は身を引き上げ奥の方に縮こまる。
ニット帽の男が見えた。
踏まないで踏まないで踏まないで。
足元のあの女性に彼はもう気付かない。血塗れのその顔を男は踏みつける。鼻が奇妙な方向に折れ曲がっているのが見える。ガラスの散乱した床。頬に擦られ嫌な音がする。
彼はどこか人事のように感じていた。座席の下には緊急時用のドアのレバーがある。
誰か気付けば良いのに。ぼんやり考える。
横では学生服の男が、拳でガラスを殴っていた。だが罅割れが僅かに広がるだけ。溝を紅が伝う。
救助が来たのは二十分後。
残っていたのは、踏みつけられた重傷者の呻き声。
そして網棚を握り締めたままの彼。
彼はそれから、左足に靴を履かない。靴下も履かない。
このような夢をみました。
作品としては、描写はもっとエグくてもよいのかもしれません。
極限下での心理状態、その結果としての靴下。
その一点に重力の集まった小説になっているかどうか。