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第一夜・1

   第一夜


 弔問客のない葬儀はいかにも華がなく、わびしかった。

 田島武志たじまたけしはパイプ式の折りたたみ机に白布をかけただけの、形ばかりの受付を見下ろしながら、安いもんだなとまったく他人事のように考えた。

 実際、葬儀は他人事であった。伯父であるというその人の顔を武志は知らない。小さなころに「たけちゃんたけちゃん」と呼んでもらった記憶はあるものの、そのとき何をしていただとかどんな状況だったとか、自分が喜んでいたのか悲しんでいたのかさえ全く不明である。記憶は分厚いカーテンの向こうにでもあるように、ひらりひらりとおぼつかなく、また遠かった。

「とにかく、兄さんはあんたしかいないって言ってたんだから」

 母はぐずる子供でも相手にするように、声を絞って武志を叱った。

「神社は総領の子が継ぐって決まってるの。兄さんとこには子供がいないでしょう。つまり、お定めに照らしてみても、あんたしかいないっていうわけよ」

「子供がいないのは伯父さんの勝手じゃないか」

 抗った武志の腕を母は強く引いた。

「慎みってもんがないの、あんたは。子供がいないのは仕方ないでしょう。佐知子さちこさんができない体だったんだから。そういういきさつも踏まえてね、ちゃんと考えてちょうだい」

「考えてるよ。伯母さんの体とか、総領がどうのとか、俺には全然関係ないじゃないか。そりゃあね、俺が原因でそうなったなら考えもするよ。でも、まったく関係ないとこで決められちゃたまんないよ。こっちにはこっちの事情があるんだから」

「あら。とうとう美樹みきちゃんと結婚でもするの」

 母の言葉にはあきらかな棘があった。専門学校時代の同期であった美樹とは今年で三年目の付き合いになる。なんとなくで付き合い始めてこちら、縁は切れるとも繋がるとも言えない危うさで今日まで至っていた。美樹に他の男がいるとは聞かない。だが、いてもおかしくはないだろうと思う。武志には今のところまったく収入がなかった。

「そういうわけじゃないけどさ、俺には俺の人生設計があるんだよ。母親ならそこんとこも考えてくれないと。伯父さんのわがままに付き合わされたんじゃたまらないよ」

 わがままはどっちよ、と母は鼻で息をした。

「人生設計だなんて言って。あれはやだこれはやだって、何にも決めずにプラプラしてるだけじゃないの。あんたの財布の中身はどこから来てるのか。そういうことをね、ちゃんと考えられるようになってから言いなさい、そういうことは」

「考えてるよ。考えてるから決められないんじゃないか」

「またそんなこと言って。ちっとも考えてない人の常套句ですよ、そんなの。あんたと来たらバイトすら長続きしないんだから。水作業はやだ、力仕事はやだ、かといってサラリーマンもやだじゃあ仕事なんてありゃしないでしょう。それとも何、今からサッカー選手でも目指すっていうの。それかプロ棋士? 映画監督? 大統領? やめときなさいよ、なんだって長続きしないんだから」

「もういいよ。そうやって茶化して俺の話なんかちっとも聞きゃしない」

 喫煙所へ向かいかけた武志の腕を母はさらに引き寄せ、恐ろしげな低い声で言った。

「聞きゃしないのはどっちよ。母さんがパート先でやっと見つけてきた仕事だって、二日目で無断欠勤してさ。もう面目丸つぶれ。私が上の人になんて言われたか知ってる?」

「あんな息子さんを持って大変ですねえ、だろ。もう何度も聞いた」

「わかってるなら何とかしなさいよ。でなけりゃ、伯父さんの言うとおり神社を継ぎなさい」

 まるでそこに間違いはないのだと言わんばかりの言葉に武志は唇を不機嫌にゆがめた。

 父が定年まであと五年を数えるようになってからこちら、武志への風当たりは強くなる一方だった。

 夢はある。ありはするがそこへ至るための道がわからない。わからないから考えようとするのに、周囲の人間はそんな煩悶などないかのように、あれやこれやと文句をつけてきては武志を翻弄した。

 父のようなただのサラリーマンになるのは嫌だ。それだけははっきりしている。母の勧める公務員になるのはもっと嫌だ。福祉課にさえ行かなけりゃ、毎日ハンコ捺すだけで給料がもらえるんだぜ、とは公務員を父母に持つ同級の友人の言だったがそんな人生想像するだけでぞっとするのは自分だけであろうか。スーパーの経理担当など、それこそ身の毛もよだつような将来像である。

 小学校の卒業文集にサッカー選手になる、と書いたのは遠い昔のことだ。そんな夢、中学に入ってすぐに捨ててしまったし、プロ棋士になる夢も年齢制限のあることを知ってすぐにあきらめた。映像関係の仕事ならと思って専門学校へ行ったものの、絵を描く才能も構図をひらめく才能も開花しないまま、短い二年は終わってしまった。

 残ったのはバイト生活もままならない毎日と美樹との関係だけである。

 一日が始まるとパソコンの前に座って求人サイトやバイト募集サイトを眺め、それが一時間もすると遅い朝食兼昼食の時間になる。その後は週刊雑誌の連載漫画をチェックして、くだらないテレビをくだらないと思いながら眺め、気がつくと晩飯を食っていて、慌ただしく風呂に入ったらあとは寝るしかすることがない。毎日がこの繰り返しで、これにときどき美樹と会うというイベントが挿入される。

 これでは駄目だという思いは常に首の裏にくっついていて、だが、どうしようもない現状にいらだちだけがつのっていく。そこへ来て突然、神社の跡継ぎになれはひどすぎるだろう。

 毎日毎日いもしない神様とやらを奉じて祝詞を捧げ、信者の話し相手をし、境内を掃除してまわるなどなんの苦行か。いっそ悟りの境地だとすら思う。

 狭い受付用のスペースを見渡しながら武志は早口に言った。

「何とかしようとしてるだろ。ともかく、神社だけはないから」

「だったら何ならありなのよ」

「それを考えてるんじゃないか。どうしてわかってくれないんだよ」

「わからないわよ。わからないから訊いてるんじゃない。あんた、このままダラダラしっぱなしでいいと思ってるの? 仕事受けに行っても聞かれるわよ。この専門卒から我が社への受験の期間、何をしていたんですかって。そんときになんて答えるのよ。バイトしてましたなんて、言ったら母さん怒るからね」

「バイトはしてたじゃないか」

 だんだんと調子の高くなる母の声に武志は肩をすぼめることで答えた。

「三日で辞めたバイトを“してた”なんて言う恥知らず、あんただけでしょうよ」

「だから、上司とちょっともめちゃってさ。その前のは立ちっぱなしできつかったんだよ」

「あんたのそのセリフ、世間様が聞いたらどう思うかね。上司ともめるとか立ちっぱなしとか、そんなのお金をもらう以上当たり前のことですよ。それをやれ気に食わないだとかきついだとか。そんなんじゃあね、美樹ちゃんの肩身だって狭いまんまなんだからね」

「どうしてそこで美樹が出てくるの」

 女性の話にはついて行きかねる。次から次へ飛躍する話題で武志はすでにへとへとだった。

「あんたが格好つけて払ってるデート代、美樹ちゃんが申し訳ないって謝りに来たんだから」

 転がり出た言葉の突拍子もなさに、武志はいっそ笑ってしまおうかと思った。

「はあ? 意味が分かんないんだけど」

「だから。あんたの財布にはどこの誰のお金が入ってるのかっていうこと」

「そんなの、美樹が気にすることじゃないじゃないか」

「気にもするわよ。何もしないでプラプラしてるのが、やれ水族館だやれ映画館だおしゃれなカフェだって、どう考えたっておかしいでしょうが。美樹ちゃんは半分払うっていつも言ってるらしいじゃない。それをあんたが格好つけて全部払って、挙句の果てにお金がないから小遣い前借りって。ねえ。あんた、小学生じゃないんだから」

「母さん、美樹にそれ全部話したのか?」

 母は呆れるのを通り越してばかばかしくなった、とでもいうように胡乱な目つきになった。

「そんなこともわからないから、いまだに就職できずにいるのよ。ともかく、これはいい話なんだから。信者さんへの対応とか建物の管理とかは佐知子さんが全部してくれるんだって。あんたは夜の本殿に泊まるだけでいいの」

「泊まるって……」

「そういう話なのよ。佐知子さんは女性だからね、兄さんもこれだけは男のあんたにしか任せられないって思ったんでしょう。昼は佐知子さんが神社を守る。夜はあんたが神社に泊まる。簡単な話じゃないの」

「簡単っていうかおかしいよ。俺は夜の管理ってわけじゃないの?」

 違うらしいわよ、と母は言って扉の開く音に振り返った。そこには母にとっては兄嫁となる佐知子が、遠慮がちな悲しみを浮かべて佇んでいる。未亡人、という言葉が脳裏に浮かんで武志は思わず生唾を飲みこんだ。

 未亡人。実際目の前にしてみるとなんと赤裸々な言葉であろうか。

「すみません。どうしても無理なら、うちの人の勝手ですしそれでも」

 佐知子は丁寧に腰折ってから、ハンカチの隙間からぼそぼそと言った。いえいえ言い聞かせますからご心配なく、と調子をくれる母の背をげっそりと武志は見送り、それから佐知子へ向かって愛想よく言った。

「こちらこそすみません。突然のお話だったのでびっくりしてしまって。少し考えてみますから、時間をもらえないでしょうか」

 すらすらと口にしてしまってから、やっぱり俺はおふくろの子だ、と武志は思った。


   ×   ×   ×


 お定まりのアクション映画はあくびが出るほど退屈だった。

 専門学校時代の教師いわく、洋画という洋画はすべてひとつの型で説明することができるそうだが、それも納得の起承転結の単純さであった。型破りな主人公がしゃにむに画面を走り回り、行く先々で爆発を引き起こし、結果オーライで話がまとまる典型的にもほどがある洋画である。

 もっとも、武志はその教師のことをまったくと言っていいほど信頼してはいなかった。なんでも大学卒業後に渡米して名のあるシナリオ会社に勤め、いくつかの作品を手がけた元シナリオライターだったらしいが、彼が自慢げに口にするタイトルのすべてを武志は知らなかったし、また知ろうとも思えなかった。それくらいどうでもいい――良く言ってもどこにでもあるようなタイトルであったのだ。

 教師の名もタイトルの名も忘れてしまったが、その教えだけが脳裏にこびりついているようで武志は幾度か頭を振らなければならなかった。そうだ。今は映画よりも大事なことがある。

「とにかく、本殿に泊まれっていうんだよ。それで月二十万出すってさ」

 武志の説明を注意深く聞きながら、美樹は不器用につぶれた指先でコーヒーカップの中身をかき混ぜていた。無駄に塗られた人差し指のネイルの隅から黒いインキの跡が一筋、指先に向かって流れている。

 美樹は十人が十人さっぱり振り返らないような、そんな女だった。服装はたしかに垢抜けてはいるが、それは田舎者が都会の雑誌に出てくるモデルの格好を必死に真似したようなそれで、街を歩けば十人に四人は着ているようなものだ。顔は美人と不細工のちょうど中間といったところで、見ようと角度と照明によってはかわいく見えないこともない。ある意味、日本人的無個性な美樹は連れ歩くのにちょうどよく、考え深い性格は話しかけるのにちょうどよかった。考えすぎて疑りぶかい点は面倒ではあるが、自分のかわりに悩んでいるのだと思えばそう腹も立たない。

 ちょうど手触りの良かったタオルケットのようなものだ。いてもいなくても構わない、いないと少し肌寒いが、いると若干のさわり心地の悪さが気になるタオルケット。

 カフェのダウンライトに照らされて、そのタオルケットは重そうに身じろぎをした。

「夜の本殿に泊まるだけなのね? それで二十万」

「な? おかしいだろ?」

 味もわからぬコーヒーをすすって武志は身を乗り出した。ダウンライトのオレンジに照らし出されたコーヒーはてらてらと粘着質の光を放っている。この濁り水のどこがうまいのかわからないが、周囲に好んで飲む者が多かったので、カフェに来たときはコーヒーを頼むことに決めていた。

「受けたらいいじゃないの。毎晩寝てるだけで二十万円なんでしょう?」

 あっけにとられるとはこのことだった。美樹がとうとうおかしくなったのではないかと武志は疑い、まじまじとその顔を見た。見返してくる美樹の目には本気、と書いてある気がする。

「そんなおいしい話あるわけないだろ」

「そうね。おいしすぎるね。だけど武志、仕事ないんでしょ?」

「仕事があるかどうかは関係ないだろ。もしかしたら俺の命がかかわってるかもしれないんだぞ。どうするんだよ、変な取引に関らされたりしたらさあ」

「映画の見すぎよ」

 冗談にもならない冗談を言い、美樹はミルクを入れてから、しこたまかき混ぜたコーヒーを口に含んだ。

 専門学校卒業後、美樹は映画の宣伝会社に就職した。そこで広報を担当しているという話をたしか以前にしていたと思うが、ならば彼女が武志より多くの映画を見ていることは間違いない。

「おばさん、ずいぶん心配してらしたもの」

 おばさん、と母のことを示して美樹はほうっとためいきをついた。ガラスのテーブルに美樹が吐いた息が白い輪となってこごまる。憂えたまなざしがテーブルを見つめ「ああ、美しいな」とたしかに武志に思わせた。いったいに憂える女性が皆一様に美しいと思えるのはどうしたことだろう。

「武志のこと、きっとお義姉さん《おねえさん》に相談したのよ。伯父さんはその話を聞いて、せめて最後にって武志のことを雇うようにお義姉さんに言ったんだわ」

「それこそ映画の見すぎだろ。だいたい俺は伯父さんの顔も覚えてないし、伯母さんとなんて昨日はじめて会ったんだぜ。それがいきなり神社で働けって、そんなわけあるかよ」

「そんなわけあろうがなかろうが、実際にあったんじゃない。チャンスはつかむべきよ」

 一年前と全く同じ決然とした目で美樹は武志を斜めに睨んだ。何かを決めるとき、相手を斜めに睨むのは彼女のくせである。おいおい勝手に決めてくれるなよ、と武志は焦った。

「チャンスかどうか怪しいから、こうやって相談してるんじゃないか」

「つまり、私におかしいって言ってほしいのね」

「そういうわけじゃなくてさ。公正に判断してほしいわけ」

「じゃあ、おかしいです。これでいい?」

「じゃあってなんだよ、じゃあって……」

 美樹は淡い茶色に染めたセミロングの髪を振ってつい、とあごを武志の背後に振った。

 あごの振られた先にはカフェのカウンターがある。白いシェフ服を着た男女が入り乱れて氷を割ったりコーヒーを引いたりと忙しそうに立ち働いていた。カウンターに座る人はなく、客は全員がそういう決まりでもあるかのようにテーブル席についている。

「あのさ。みんなああやって働いてるわけ」

 武志が後ろを確認して顔を元に戻すのを待ってから美樹は冷たい口調で言った。

「もちろん、私だって働いてるし、だからここに座ってられるの。あんただけ、のんべんだらりとしていていいと思ってるの?」

「俺だって座ってるよ」

「それはあんたのお父さんとお母さんが働いてくれてるからでしょう。だいたいね、自分で働いてない人間が煙草を吸ったりコーヒー飲んだり映画観たりするのが間違いなのよ。そういうものは自分で稼いだお金で楽しむもんなの。だから、楽しいの」

「俺は充分楽しんでるよ」

「あんた、いっつも時間がないだとか暇だとかわがまま言ってるじゃない。そういうことが口に出るのはね、働いていないからなのよ」

「神社で寝れば働いてることになるのかよ」

「屁理屈を言わないで。神社でただ寝ればいいんだったら寝ればいいじゃない。したこともないうちから怪しいとかどうとか、つまりやりたくないから適当な理由が欲しいってだけでしょ。それも他人から言われたほうが効果があるから私を呼んだだけでしょう。残念ながら、私の回答は怪しいけどすべきです。あんたはとにかく経験が足りないのよ。だから何か生産的なことをすべきなの」

 黒いアイラインの目元がさらにきつくなった。

「以上、私の意見は終わり。ほかに何か質問は?」

「これまでみたいに会えなくなるかもしれない」

 ぐうの音も出ないほどに本音をえぐられて、しかし、それだけでは悔しくて武志は言いつのった。

「これまで会えてたことが奇跡よね。何の努力もしないのに私たちが会えてたのは一重にも二重にもあんたが暇を持て余していたから。そりゃあ、あんたが会う努力をすれば会えるでしょう。そうでなかったらそれまでってことね」

 あっさりと関係の終焉を予言して、美樹は顎をしゃくった。

「次は?」

 武志はがくりとうなだれ、上目づかいに美樹を見た。

 これ以上の問いなど出てこようはずもない。いったいこの女は何者なのか、と武志は頭を悩ませなければならなかった。武志本人でもないのに本人以上に的確に現状を把握し、答えを出してくる。

 美樹は可愛くも不細工でもない代わりに、可愛くないことをあっさりと口にする女であった。論理的とか理論的とかいうのとは違う。単純に人の機微を読み取ることに長けているのであろう。いやそれも違う。状況や環境に関係なく正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきり口にしてしまう点を考慮すれば、人を分析することに長けているのだろう。

「やっぱり、働くしかないのかな」

「やっぱり、働くのが嫌だっただけなんだ」

「そういうわけじゃないけど」

 それ以上の言葉がみつからずに武志は話題を変えることにした。

「このあとは? どうする?」

「会社に戻るわよ」

 あっさりと言ってのけた美樹は、ぽかんと口を開けた武志をバカにするように鼻先で笑った。

「世界は動いてるのよ、武志。働く人間の手によって、動かされてるの。私はもうその一人。あなたは? いつまで動かされる側にいるのかしら」


   ×   ×   ×


 俺はいわゆる不器用という人種なのかもしれない、と武志はスポーツバッグに着替えを詰めこみながら考えていた。思えばずいぶん損な人生を送ってきたものだった。

 学生生活ひとつをとってもそうである。単純に不出来な生徒というだけではなく、まったく不器用な、不格好な生徒であった。

 デッサンをさせれば正確性にも芸術性にも欠けた鉛筆画になる、コンテを切らせれば長々としたシーンを積み上げて教師に叱られ、短いシーンを描けば面白くないと悪例にあげつらわれる。傑作なのは就職活動であった。他の面々がうまく教師に取り入り、あるいは就職課から情報を集めている横で、ひとり求人サイトのホームページを立ち上げてせっせと履歴書の束を作っていたのである。

 その日も武志は求人サイトの募集要項を睨みながら、履歴書と作品集の束と格闘していた。新人起用のサイト群が立ち上がる6月からはや4か月、学生の6割は内定をもらう秋のことであった。武志は新学年に繰り上がると同時に就職活動を開始していたから、その時ずいぶん焦っていたのだと思う。

 精魂込めて日々作る履歴書や作品集はあるいは突き返され、あるいは不合格のメール一通に変換されていた。自分の才能のなさは自分が一番知っていたが、ここでしか食っていけないのだと信じて、毎日遅くまで教室に残ってはコンテやデッサンをスクラップブックに切り貼りしていた。

「らくらく受かっちゃいましたよ。もう、どうしようかって笑いがとまんなくって」

 教室に入ってきたのは同期の西野にしのという学生と今は名も忘れた教師だった。一瞬まずいという顔をしてから、西野はなれなれしく武志に話しかけてきた。

「サブクラフト受かっちゃったよ」

 それは武志へ以前、不合格通知を送りつけてきた広告会社だった。乾く舌を口の中でこねまわしてから、なんとか武志はへえっという顔をしてみせた。

「おめでとう。どこの部門?」

「コピーライティング部門。いや、俺ら映像学科なわけじゃん? ダメだと思っていたんだけどさ、剣抜くだけで合格しちゃったんだよね、これが」

「お前が自慢するな。俺のアイデアだろうが」

 なめらかに弁舌を繰り広げる西野の頭を教師が小突いた。

「なに、こいつが二次面接に行くっていうからな、剣を作って行けって言ったんだよ」

「剣って、あの突いたり斬ったりする?」

「そうそう。先生に言われた通り演劇の小道具作る感じでファンタジーっぽいの作ったの。鞘からちゃんと抜くこともできるようにしてさ」

「こいつ、内弁慶だからな。どうせ話のひとつも満足にできないと思って、剣を提げて面接室に入って、入ったら鞘から剣を抜いて決め台詞を言ってみろってアドバイスしたんだ」

 それでなぜコピーライティング部門に合格できるのかはわからなかったが、武志はとにかくひとつ頷いて話を勧めた。

「でぇ、面接室に入って言われた通り剣抜いてさ、天下御免の剣の冴え西野健吾けんごまかり通る、って叫んだわけ。そしたら面接官が大爆笑で」

「でも、質問はされたんだろ?」

「うーん。なんか笑われたことでうまく気が抜けたっていうの? なんかいつもよりするっと答えられちゃったんだよね。俺がひとこと言うたびに面接官がまたどっかんどっかん笑うもんだから、こっちも気分良くなっちゃってさあ」

 ふうん、と返して武志は書きかけの履歴書を睨んだ。サブクラフトには書類審査の段階でふるい落とされた身である。そんな不真面目なことをしてへらへらしている人間を通すくらいなら、なぜちゃんと真面目に努力している人間を切り捨てるのか、胃のあたりがむかむかしてならなかった。

「まあ、田島もがんばれよなあ。俺、応援してるし」

「何かあったら相談に乗るぞ。そうだお前、自分の顔のハンコを掘って特技欄に捺したらどうだ。それだけでだいぶん違うと思うぞ」

 はあ、とだけ答えて武志は履歴書に向き直った。特技欄にはサッカーだの映画鑑賞だのといった趣味が並んでいる。この真実を押しのけて不真面目を通すくらいなら、書類審査なんて何度でも落ちてやるとそう思った。

 西野と教師はしばらく頭の上でごちゃごちゃやっていたが、武志が何を話しかけても上の空の返事しかしないことを悟ると去って行った。

 就職活動の一年はこの調子で過ぎ去り、やがて卒業の季節が来て、武志は全学級中7パーセントの就職先未定者に分類されたのであった。就職が決定した者はある者はバイト三昧、またある者は西野のように調子のよい人間ばかりであった。武志のように真面目な者、独力で何かを切り開こうとした者は置き去りにされ――そうして、武志は就職活動をまったく馬鹿らしく思うようになってしまったのであった。

 スポーツタオルをバッグに詰めながら、はて美樹はどうだったであろうか、と武志は首をひねった。

 彼女もまた要領のよかった人間だろうかと考えたが、そんな記憶はない。むしろ、武志と同じように就職情報サイトを睨んでいたように思う。違いがあるとすれば、武志はもっぱら教室にこもって履歴書や作品集をひねり回していたのに対し、美樹は自分の足を使って歩きまわっていたことぐらいか。

 それにしたって、現状かくのごとく横たわる溝の理由にはなるまいと武志は勢いよくスポーツバッグのチャックを閉めて立ち上がった。


 大阪の中心街は碁盤の目状に切られている。京都や奈良でもあるまいに、不揃いな長方形をなす街区はやはり不揃いな長方形の建物によってびっしりと埋め尽くされていた。町の中核をなすのは建築業や外食業の建物で、そのところどころにコンビニエンスストアやマンション、アパートがぽつぽつと置かれている。

 町を大きく分断するのは西から東へ順に御堂筋、堺筋、松屋町筋、谷町筋、上町筋の5つの筋で、これに細い路地が東西にいくつも渡されている。そのさまは、碁盤の目というよりはあみだ籤と言ったほうが当たっているかもしれない。北に行けば繁華街、南に行けば大きな商店街があることさえ覚えておけば、大阪という町は東京やその他の大都市に較べると住み移りの良い土地と言える。

 もっとも生まれてこの方、この大阪市中央区から籍を移したことのない武志にとってはそんなことはまったくの無関係であった。南北にのびる5つの筋のうち東から2番目、小さな社屋や食品店が建ち並ぶ谷町筋をべたべたと歩きながら武志は先ほど考えに浮かんだ溝について考えあぐねていた。

 長引く夏の気配が首裏をじっとりと濡らす晩のことである。町全体が光っているせいで空は不気味な赤銅色に輝いて、太陽も沈んだというのにまったく暗くなる気配を見せなかった。むしむしとした空気が片側三車線のアスファルトから歩道にまで忍び寄り、サンダル履きのくるぶしをじわりじわりと侵食する。

 気分は鬱々として晴れなかった。それはこれから向かう仕事のせいでもあったし、先ほど思い出した――思い出したくもない――思い出のせいでもあったし、美樹と自分との溝を改めて思い知ったからでもあった。

 現状かくあるわが身を悔しいとも悲しいとも思わない。そのうえ専門学校時代のように、誰かのせいだとか誰が悪いとか怒る材料すら見当たらなかった。だが何か形のないものが腹の内でくすぶって、武志の胃の腑をいぶしている。その正体を知りたいとは思わないが、存在がわずらわしいのはたしかであった。

 俺は何も悪くないのに、と武志は思った。

 二十何年も生きてきて、いいことなんてひとつもなかった。満足のする彼女ひとつできなかったし、満足に就職すらできなかった。努力ばかりが積み重なって、百点満点のテスト用紙すら受け取ったことがなかった。平々凡々がちょうどいいと父は言う。しかし、この幸福感のなさが平々凡々であるのなら、そんなものは要らないと思う。

 狭い世界のこと、引き比べる存在は美樹ぐらいしかいない。専門学校時代の同期とは卒業以来まったく連絡を取っていないし、幼なじみと呼べる存在もいなかった。

 地下鉄の改札をくぐりながら、それだってひとつの不幸だ、と武志はごちた。

 テレビドラマや映画の中では主人公には常に幼なじみや頼れる同期の友人や、昔なじみの職人がいて主人公にあれやこれやと力を貸してくれる。現実とはこんなものかと思う一方で、こんなものではない人間が世の中にはいるのだと考えると暗澹となった。

 あたうかぎりの幸福などという言葉がテレビドラマや映画ではよく出てくるが、つまり、自分にはあたう程度の幸福すらないのだ。それが誰のせいかと考えれば、つまりふりだしのせいだとしか考えられなかった。

 人間には先天的な性格と後天的な性格とがあるらしい。自分のどの性格がどちらかとは断言することはできないが、几帳面で生真面目なところは先天的なそれであろう。その先天性が災いして、世界の速度にいつまでたっても追いつけないでいるのだ。

 100点でなかったテストのミスを修正する間に次のテストが返ってきて、そのミスを修正する間に次のテストが返ってくるというのは武志の人生そのものであった。

 地下鉄の生ぬるい風に背を押されて武志は階段を駆け下りた。がらんと広がったホームとぽつぽつと並ぶ人。がらんとしたこの大穴は俺の人生そのものだと思った。ぽつぽつと並ぶ人は俺が埋めてきた人生そのものだと思った。人のいる場所を飛び石を渡るように飛びながら、それでも次の駅には届かない。電車は待てど暮らせど来ず、生ぬるい流れだけが肌にはりつくように感ぜられて、それでも時間は流れているのだと武志に告げている。

 やがてやってきた地下鉄に飛び乗って揺られながらも、武志は周囲を見渡し続けていた。彼ら要領のいい飛び石たちは、次の駅かまた次の駅で自分を追い越して去っていくに違いない。あるいはこのまま電車に揺られて幸福という名の終着までひた走るに違いない。

 俺は何も悪くないのに、と武志は二度思った。すべてがすべて裏目に出て、すべてがすべて武志を追い抜いて去っていく。残るのは恨みと妬みと、その気力すら尽きる怠惰だけである。

 俺は何も悪くないのに。心の中で繰り返しながら、電車の走るまま、武志は闇のなかをひた走った。

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