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2、否定されるべき何か、または愚かしい痛み

 深く、そして何処までも底がない。

 闇を孕むその感情は俺たちにとって何よりの甘美だった。



 だから自分の存在が父親を救えないと知ったときの彼女の表情は

 そりゃあ、悪魔の俺が最高にゾクゾクするほどの絶望が詰まってた。


 甘くて濃厚で、とても気持ちが良かった。



 だけど、いつからだろう。


 彼女がその表情を見せるたびに、俺は少しずつ苦しくなっていった。

 生命の危機とかってほどの苦しさじゃなくて、ただ胸がちくっとなるだけの、些細な、とるに足らない痛み。


 でもそれは確実に、俺を浸食していく。








「ねぇ、悪魔さん 」

「ん?」


 口を開けば、自分を殺せと言う彼女。

 だけど俺はその願いを叶えることはできなかった。

 たとえ、本人がそう望んだとしても、契約の元で下僕となった者が主を殺すことはできないのだ。

 できるとすれば、そう、たったひとつ。


 でも、それは





「先日、何かの書物を読んだのですが私と貴方の契約、破棄できますね 」

 何処か、光りを見つけたような笑み。

 それを見て俺は不覚にも、あぁ、いいなと思ってしまった。



「まぁ、な。それなりに手続きをふめばだけどな。でも俺はそんな気ねえぞ。もったいねぇ。

 あんたの契約は魂と躰の両方を与えるってもんで、そんな契約は滅多にないんだからな」


「でも、私はもう願いなどないのですよ。 私はまだこれから何十年も生き続けるんです。

 その間、あなたは私が願いを見つけるか私が死ぬまで待たなくてはならない。 それこそ、時間の無駄ではないですか? それに、」


 うつむいてしまった彼女の表情は上手く読みとれないが、何か言葉を選んでいるようだ。


「魂と躰の両方を手に入れるなんて、契約を破棄した後にあなたが私を殺せば、済む問題じゃないですか? 」


 あぁ、知ってしまったのかと俺はまた、あの苦しさを感じた。




 悪魔が人間界に行けるのは、人から招かれた時だけ。

 招かれたとしても、その代償として自動的に主と下僕の契約を結ばされている。


 招かれることと引き替えに結ばれた契約は、俺たちが人間界に存在する全てだ。

 だけど、契約破棄をしたなら俺たちはそのしがらみから解放される。

 人間界で自分の自由にできるってわけだ。 といっても、留まれるのはせいぜい一日程度だけ。

 精神体としての俺たちには、この世界はあまりにも全てが整いすぎていてすぐに消されてしまう。


 でも、契約主が契約破棄の時に、『ソレ』を認めてしまえば

 俺たちはその魂も躰も、全てを譲り受けることができる。



「私は認めますよ、『己の存在の消滅』を 」


 自分は不要だから、もう要らないから。

 そう願われれば、俺たちは元契約主を殺して、それに成り代われる。





「私はその破棄の方法とやらを知らないので、貴方にお願いしなくてはならないのですが、よろしいですか? 」

「全然、良くねぇっ!!」


 思わず声を荒げてしまった。

 なんだか分からない感情が後から後から溢れる。

 落ち着け俺と思っても、チクチクと胸の痛みは大きくなり続け、とまりそうもなかった。


「なぁ、人ってのはよ、絶望だけじゃねぇだろ 」

 必死すぎる声は自分でも情けないほど。

 悪魔はいつでも冷静にと誰だったかに言われたが、今はそんなこと考えていられない。


「希望とか夢とか、そういうもんだって底なしにあってよ、何処までも悪あがきをして、無様なほど懸命に生きてるもんだろ。だったら、なぁ、 たのむから、あんたも、生きてくれよ 」


 俺を蝕んだ浸食はどうやら、いくところまでいってしまったようだ。

 あぁ、なんで俺は悪魔のくせにこんな反吐がでるような言葉を口にしているのだろう。


 驚いて見開かれた彼女の瞳は、一体何を見ているのか。

 確実に分かるのは、生きることを説いた愚かな悪魔を映しているということだけ。





「あなたは、愚かですね 」

 彼女が放った言葉は正にその通りすぎてて、俺は何も返事もできないまま、ただ俯いた。


「悪魔なのに、そんなことを言うなんてあまりにも愚かすぎます。 それに、怒鳴られたことなんて私は一度もなかったから驚きました。 二度としないで下さい。それから …ありがとうございます 」

 思いもよらない言葉に反応して顔を上げると彼女の瞳からはポロポロと涙が落ちていた。


「あなたが、初めて、言ってくれたんです。私に、生きろと。生きても良いのだ、と。

 こんな私に、こんな、私に、こ んな 私 に、」



 普段は魔力を使うから余り実体にならないのだけど、この時ばかりは、ならずにいられなかった。

 だって、このままでは、彼女を抱きしめられない。


 実体になって初めて触れた彼女はとても小さくて

 この身体の何処に、あの重く深い絶望があるのだろうと思った。

 だけどこの細い肩は、ずっとあの重みに耐えていたんだ。


「ありがとう、ございま、す。ありが とう ござ い」

「もう、泣き止め。じゃなきゃ、はなさない 」


 泣きじゃくる彼女を抱きしめながら

 底なしの絶望からこの人を守りたいと、願った。


 俺は、悪魔なのになぁ。






 それは酷く愚かで

 だけど、どうしようもなく温かい


 あってはならない何かの、始まり。


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