動く歩道
早苗は「動く歩道」にうまく乗れない。
乗る瞬間も降りる瞬間も、世界の流れに自分だけ置いていかれる気がする。
みんなは何事もない顔ですっと足を出しすっと降りていく。
どうしてあんなに自然にできるのだろう。
早苗はいつもほんの少しタイミングがずれる。
早すぎるのか。
遅すぎるのか。
ある日、大きな駅地下でまたもや長い「動く歩道」に出会った。
天井は低く白い蛍光灯がどこまでも続いている。
その横にはもちろん普通の通路もある。
そっちを歩けばいい。
何の問題もない。
けれど早苗は立ち止まり、ガラス越しに流れていくベルトを見つめた。
よし。今日こそ克服してやる。
タイミングをはかる。
三人見送る。
四人目。
今だ。
すっ。
乗れた。
あれ?
いま、かなり自然だったのでは?
胸がじわっと熱くなる。
流れる景色。
自分はちゃんと立っている。
揺れも少ない。
できた。
私できた。
次は降りるときだ。
終点が近づく。
銀色のギザギザが迫ってくる。
あそこを越えれば普通の床。
スムーズに足を出せなくてもいい。
その瞬間にちょっと飛べばいい。
軽くぴょんと。
よし、いまだ!
小さく飛んだつもりだった。
次の瞬間、視界が回転した。
つま先が引っかかったのか体勢が崩れたのか、派手に転んだ。
「いたたたた」
静まり返るわけではない。
周囲の人は流れていく。
ただ一人、若い男性が足を止めた。
「大丈夫ですか?」
「あ、すみません。大丈夫です」
早苗は笑う。
笑うしかない。
膝がじんじんする。
これまでもよろけたことは何度もある。
でも転んだのは初めてだ。
私がどんくさい?
それで片づけていいの?
いや、こういう事例もある。
ちゃんと伝えるべきだ。
誰かがまた転ぶかもしれない。
妙な使命感が湧いてくる。
早苗は近くのインフォメーションセンターへ向かった。
「はい、承ります」
カウンターの女性がにこやかに言う。
「あの……そこの“歩く歩道”で転んで……」
「歩く歩道で……通路でしょうか?」
「はい、歩く歩道で転んじゃって。だから、あぶないですよってお伝えしようと思って」
「あ、ありがとうございます。それはどのあたりでしょう?」
「だから、そこの“歩く歩道”です」
「えっと……通路、ということでしょうか?」
「そうです。そこの歩く歩道です」
女性の笑顔がわずかに硬くなる。
「お客様、えっと……」
「え? わかりませんか? 歩く歩道。すぐそこですよ!」
「歩く……?」
「だーかーらー、歩く歩道ですって!」
なぜ通じないのか。
カウンターの女性は端末を見たり、周囲を確認したりしている。
「お怪我はございませんか?」
「怪我の問題じゃなくてですね」
このやりとりは十分以上続いた。
そのあいだにも背後では人々が静かに流れていく。
「お客様、えっと“動く歩道”ということでよろしかったでしょうか?」
早苗はふと冷静になる。
「え? 動く? あ、そうです。動く歩道。あれ?」
もしかして――
さっきまで“歩く歩道”と言っていた自分に気が付いた。
そして、力説していた自分が急に恥ずかしくなってきた。
「お客様、係の者にはあらためて速度の見直しなど注意するよう伝えます」
「あ、はい、あ、いやぁ、あはは。よろしくお願いします」
なんとかそれだけを口にしてその場を後にする。
早苗は「動く歩道」にまだうまく乗れない。
終




