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動く歩道

作者: ほんじじ
掲載日:2026/02/23

 早苗は「動く歩道」にうまく乗れない。


 乗る瞬間も降りる瞬間も、世界の流れに自分だけ置いていかれる気がする。

 みんなは何事もない顔ですっと足を出しすっと降りていく。

 どうしてあんなに自然にできるのだろう。


 早苗はいつもほんの少しタイミングがずれる。

 早すぎるのか。

 遅すぎるのか。


 ある日、大きな駅地下でまたもや長い「動く歩道」に出会った。

 天井は低く白い蛍光灯がどこまでも続いている。

 その横にはもちろん普通の通路もある。


 そっちを歩けばいい。

 何の問題もない。

 けれど早苗は立ち止まり、ガラス越しに流れていくベルトを見つめた。


 よし。今日こそ克服してやる。


 タイミングをはかる。

 三人見送る。

 四人目。

 今だ。


 すっ。


 乗れた。


 あれ?

 いま、かなり自然だったのでは?


 胸がじわっと熱くなる。

 流れる景色。

 自分はちゃんと立っている。

 揺れも少ない。


 できた。

 私できた。


 次は降りるときだ。


 終点が近づく。

 銀色のギザギザが迫ってくる。

 あそこを越えれば普通の床。


 スムーズに足を出せなくてもいい。

 その瞬間にちょっと飛べばいい。

 軽くぴょんと。


 よし、いまだ!


 小さく飛んだつもりだった。

 次の瞬間、視界が回転した。

 つま先が引っかかったのか体勢が崩れたのか、派手に転んだ。


「いたたたた」


 静まり返るわけではない。

 周囲の人は流れていく。

 ただ一人、若い男性が足を止めた。


「大丈夫ですか?」


「あ、すみません。大丈夫です」


 早苗は笑う。

 笑うしかない。

 膝がじんじんする。


 これまでもよろけたことは何度もある。

 でも転んだのは初めてだ。


 私がどんくさい?

 それで片づけていいの?


 いや、こういう事例もある。

 ちゃんと伝えるべきだ。

 誰かがまた転ぶかもしれない。


 妙な使命感が湧いてくる。

 早苗は近くのインフォメーションセンターへ向かった。


「はい、承ります」


 カウンターの女性がにこやかに言う。


「あの……そこの“歩く歩道”で転んで……」


「歩く歩道で……通路でしょうか?」


「はい、歩く歩道で転んじゃって。だから、あぶないですよってお伝えしようと思って」


「あ、ありがとうございます。それはどのあたりでしょう?」


「だから、そこの“歩く歩道”です」


「えっと……通路、ということでしょうか?」


「そうです。そこの歩く歩道です」


 女性の笑顔がわずかに硬くなる。


「お客様、えっと……」


「え? わかりませんか? 歩く歩道。すぐそこですよ!」


「歩く……?」


「だーかーらー、歩く歩道ですって!」


 なぜ通じないのか。

 カウンターの女性は端末を見たり、周囲を確認したりしている。


「お怪我はございませんか?」


「怪我の問題じゃなくてですね」


 このやりとりは十分以上続いた。

 そのあいだにも背後では人々が静かに流れていく。


「お客様、えっと“動く歩道”ということでよろしかったでしょうか?」


 早苗はふと冷静になる。


「え? 動く? あ、そうです。動く歩道。あれ?」


 もしかして――


 さっきまで“歩く歩道”と言っていた自分に気が付いた。

 そして、力説していた自分が急に恥ずかしくなってきた。


「お客様、係の者にはあらためて速度の見直しなど注意するよう伝えます」


「あ、はい、あ、いやぁ、あはは。よろしくお願いします」


 なんとかそれだけを口にしてその場を後にする。


 早苗は「動く歩道」にまだうまく乗れない。




 終


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