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元宰相で義兄だった夫と、今日もふわふわのメロンパンを焼き上げます。〜この、やさしくて、ゆる〜い世界で。〜 常連さんは王様のようです。

作者: 文月ナオ

一週間、お仕事お疲れ様でした。

今週の疲れを癒やすために、ざまぁも復讐もな〜んにもない。

悪い人が一人も出てこない、ただただ甘くてゆる〜いお話を書きました。

週末の夜や朝、温かい飲み物と一緒にパンが食べたくなるような、幸せな時間になれば嬉しいです。

 

 まだ外は真っ暗。


 しんと静まり返ったキッチンに、生地をこねる音が響いている。


 ペチ、ペチ、というリズムの良い音。


 それと、オーブンから漂ってくる甘い香り。


「……んぅ……」


 私は眠い目をこすりながら、二階の寝室から階段を降りた。


 キッチンの明かりの下、一人の男の人が背中を丸めて作業台に向かっている。


 アインハルト・フォン・ベルンシュタイン。


 私の大好きな旦那様。


 そして、ほんの少し前までは、この国の政治もお金も全部動かしていた、すごい宰相様だった人。


 いつもはビシッとしてる銀色の髪も、今はゴムで適当に結んだだけ。


 襟足がぴょこんと跳ねてて、なんだか可愛い。


「おはよ、アイン……」


「……っ!?」


 声をかけると、アインはビクッと肩を震わせて振り返った。


 かけていた眼鏡がちょっとズレてるのがまた可愛い。


「ユ、ユリアか……。なんだ、起こしてしまったか?」


「アインが隣にいないと、寒くて起きちゃう」


 私はふらふらと彼に近づいて、その大きな背中にぎゅっと抱きついた。


 シャツとエプロン越しに伝わってくる体温が、すごく高い。


 小麦粉とバターが混ざった、焼きたてのパンみたいな匂いがする。


 この匂い、すごく落ち着く。


「まだ四時だぞ。あと一時間は寝ていられたのに」


「いいの。アインがパン作ってるとこ、見てたいもん」


 私が甘えるように背中に頬を擦り付けると、アインは困ったように、でも嬉しそうに笑った。


「……ずるいな、君は」


 彼は作業を止めて、粉のついた手をタオルで拭くと、くるっと振り返って私を抱きしめ返してくれた。


 大きな手。


 昔は難しい書類にサインして、たくさんの貴族たちを震え上がらせてた手。


 でも今の彼の手は、温かくて、優しくて、パン職人の手だ。


「今日はちょっと雨っぽいからな。水の量を調整するのに手間取ってしまったんだ」


「ふふ、また難しい顔して生地と睨めっこしてたんでしょ? 眉間に皺、寄ってたよ」


「睨んでないさ。……ご機嫌を伺ってただけだ」


 アインは少しむっとして、作業台の上のボウルを指差した。


「見てくれ。この生地のツヤ。……昨日よりも、ずっとぷにぷにしてる」


「どれどれ」


 私が指先で白くて丸い生地をつつくと、ぷにゅん、と押し返してくる。


 赤ちゃんのほっぺたみたいに吸い付くような感触。


「うん、気持ちいい。すっごく柔らかいね」


「だろう? ……まるで、ユリアの二の腕みたいだ」


「えぇ? なにそれ?」


 アインは真顔で変なことを言い出した。


 さらに悪いことに、彼の手が私の二の腕に伸びてくる。


 ぷに、と掴まれた。


「うん。この柔らかさ、すべすべ感、温かさ……完全に一緒だ。やはり俺の読みは正しかった」


「ちょ、くすぐったい!」


「俺はこの柔らかさを出したくて、バターを混ぜるタイミングを何回も変えたんだぞ。君の肌みたいなパンが焼けたら、それはもう世界一のパンってことだろ?」


「そんな理由でパン焼かないでよ! あと私の腕はパンじゃない!」


 私が顔を赤くして文句を言うと、彼は悪戯っぽく笑って、粉のついた指で私の鼻先をちょんと触った。


 冷たい粉の感触に、私は思わずくしゃみをする。


「くしゅんっ! ……あーあ、鼻に粉がついちゃったじゃない」


「取ってやるよ」


 アインの顔が近づいてくる。


 眼鏡の奥の瞳が、とろんとした熱い色で私を見てる。


 指で拭ってくれるのかと思ったら、違った。


 ちゅ。


 鼻先に、柔らかい唇が触れた。


 一瞬の触れ合い。でも、そこから伝わる好きって気持ちが凄まじい。


「……ん、取れた」


「……バカ。……もう」


 顔が一気に熱くなる。


 朝から心臓に悪いよ。


 この元宰相様は、仕事をやめてからというもの、タガが外れたみたいに私を甘やかしてくるんだから。


 王宮で「笑顔を見せない仕事人間」なんて言われてた彼を知る人が見たら、この変わりっぷりにはきっと腰を抜かすと思う。


「さて、遊んでる場合じゃないな。そろそろ発酵が終わる」


 アインは満足したように笑うと、また職人の顔に戻った。


 冷蔵庫から冷やしておいたクッキー生地を取り出して、麺棒で薄く伸ばしていく。


 それを丸めたパン生地に乗せて、ナイフで丁寧に網目を入れていく手つきは、すごく丁寧で優しい。


 その真剣な横顔がかっこよくて、私は思わず見とれてしまった。


 ここは田舎の村、ルルーニュ。


 私たちは今、小さなパン屋『ブーランジェリー・ベルンシュタイン』を営んでる。




 ◇◆◇




 私たちがこうしてパン屋を始めたきっかけ。


 それは、私の何気ない一言と、お義父さんの死だった。


 数ヶ月前、長く療養していたお義父さんが亡くなった。


 お義父さんは、血の繋がらない私を実の娘みたいに可愛がってくれた。


 アインも、跡取りとしてのプレッシャーに耐えながら、お義父さんの期待に応え続けてきた。


 私たちは義理の兄妹。


 この国では義理の兄妹の結婚も法律で認められてる。


 けれど、真面目なお義父さんに余計な心配をかけたくなくて、ずっと「仲の良い兄妹」を演じてきた。


 お互い好きだって気づいてたのに、私たちはその一線を越えようとはしなかった。


 でも、お義父さんが天国へ旅立った夜。


 お葬式が終わって、屋敷中が静まり返った深夜のこと。


 喪服姿のアインが、私の部屋に来て言った。


『……もう、十分だろう』


 彼の目は少し赤くなって、すごく疲れた顔をしてた。


 今まで背負ってきた重たい荷物を、ようやく下ろしたような顔だった。


『家のため、国のために生きてきた。父上との約束も果たした。……これからは、俺自身のために生きたい』


 彼は私の手を取って、震える声で言った。


『ユリア。……愛してる。俺と結婚してくれ。これからは、君を幸せにすることだけを人生の目的にしたい』


 嬉しかった。


 ずっと胸の奥に隠してた気持ちが、ようやく報われた気がした。


 そして彼は、ある時、私が熱を出した際にうわ言で呟いた「メロンパン」の話を持ち出した。


 前世の記憶にある、日本のあの懐かしい味。仕事で疲れきって、帰ってご飯を作る気力もなくて、何となくで食べてたメロンパン。


 今思うと、あれってすごいご馳走だったし、私を支えてくれてた。


『君が食べたいと言ったパン。……作ってあげたい。だが、片手間の仕事じゃ、そんな難しそうなパンは作れない』


『え、パン? ここで?』


『そうだ。俺たちはパン屋になるんだ』


 急すぎて笑っちゃったけれど、彼の目は本気だった。


 そこからのアインの暴走っぷりは、すごかった。


 国中の小麦を集めたり、一番いいバターを探して牧場に行ったり、部屋を粉まみれにして研究したり。


 最初に作ったやつは、ただの硬いパンの上にクッキーが乗っただけの「石」だった。


 次は、クッキーが溶けてドロドロになった「何か」。


 その次は、中が生焼けの「小麦粉爆弾」。


『なんでだ! なんでクッキー生地とパン生地が仲良くならないんだ! バターが多すぎるのか!? こね方が足りないのか!?』


 彼は目の下にクマを作りながら叫んでいた。


 その顔が国の予算で悩んでる時より、よっぽど必死だったから、少しおかしかった。


 そして試行錯誤を重ね、ついに完璧なメロンパンが完成した時の、あのアインの笑顔。


 まるで少年みたいな、無邪気で得意げな笑顔を、私は一生忘れないと思う。


 翌日、彼は陛下のところへ辞意を伝えに行った。


 私は怖くてついて行けなかったけど、あとからアインに聞いた話だと、こんな感じだったらしい。


「陛下。辞めます」


「ぶっ!? な、何を言うアインハルト! 父上が亡くなっておかしくなったか!?」


「いいえ、正気です。……私はパン屋になります」


「ぱ、パン屋だと……!? お主のような天才が、なぜパン屋なんじゃ!」


「天才だからです。天才にしか焼けないパンがあるのです」


 陛下、きっと口をポカンと開けてただろうな。


 アインは「完璧な引継ぎノート」と「地獄の引き継ぎ特訓を受けた後任三人」を置き土産に、強引に退職を認めさせた。


 今ではその後任たちはアインに負けないくらい大活躍してて、本人たちも誇りを持ってやってて、満更でもないらしい。


 こうして、私たちは誰にも邪魔されない自由を手に入れた。


 地位も名誉も捨てたけれど、代わりに手に入れたのは、毎朝の甘い香りと、二人きりの温かい時間。




 ◇◆◇




 現在、朝の六時半。


 オーブンから、甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。


 チーン! という音が鳴って、アインが分厚いミトンをつけて天板を取り出した。


「……よし。焼けたぞ」


 黄金色に輝くメロンパンたち。


 網目もきれいで、表面の砂糖がキラキラと光ってる。完璧。


 ……と言いたいところなんだけど。


「あちゃー……」


 私は小さな悲鳴を上げた。


 端っこにある一つだけ、ちょっと形が崩れちゃってる。


 クッキー生地が割れて、中のパンが見えてしまってる。


「ごめんアイン。私が丸めるとき、力入れすぎちゃったかも」


「……ふむ」


 アインが崩れたパンを手に取って、じーっと観察する。


「売り物にはできないな」


「だよね……。もったいないことしちゃった」


「味に問題はない。……責任を持って、俺たちが処理しよう」


 そう言うと、アインはその熱々のパンを半分に割って、片方を私に差し出した。


「はい、あーん」


「えっ」


「手が塞がってるだろ? ほら」


 確かに私は両手が粉まみれだけど、洗えばいいだけの話。


 でも、アインは引かない。


 私の口元にパンを近づけて、楽しそうに待ってる。


 要は、それを口実に、私にあーんをしたいだけ、と。


「……もう」


 私は恥ずかしいのを我慢して、彼の指先からパンを齧った。


 サクッ。


 香ばしいクッキー生地が崩れて、中のふわふわな生地が口の中で溶ける。


 バターの濃厚な香りと、砂糖の甘さがジュワッと広がる。


 焼きたて特有の、幸せの味だ。


「……おいしい」


「だろうな。ユリアがこねた生地だもの」


 アインも残りの半分を自分の口に放り込んで、満足そうに頷いた。


「うん、失敗作とは思えない美味さだ。……それに、こうして君と半分こして食べると、どんな王宮のフルコースより美味しく感じる」


 彼は私の口元についていたパンくずを、親指でそっと拭った。


 そして、あろうことかその指を、自分の口に含んだ。


 舌先で、ぺろりと舐め取る。


「……ッ!」


「甘いな」


 ニヤリと笑う確信犯。


 色気がだだ漏れだよ。


 パン屋の店主というより、獲物を狙うオオカミの目つきだ。


「さあ、開店準備だ。いちゃつくのは夜の楽しみに取っておこう」


「いちゃついてたのはアインだけでしょ!」




 ◇◆◇




 カランコロン、とドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませー!」


 開店時間になって、私が声を張り上げる。


 アインもビシッと背筋を伸ばして、エプロンの紐を締め直した。


 最初のお客さんは、近所に住む常連のマダムだ。


「あら、アインハルトさん。今日も精が出るわねぇ」


「ええ。いらっしゃいませ、マダム。今日のメロンパンは、いつもよりサクサク感が強いですよ。おすすめは、まず香りを楽しんでから……」


「はいはい、それもう50回は聞いたから。三つ頂戴」


「……かしこまりました」


 アインが少ししょんぼりしながらパンを詰める。


 その不器用さが、最近は村の人たちにも受け入れられてきたみたい。


 前は「怖そうな旦那さん」と敬遠されてたけど、今は「パンバカの旦那さん」として愛されてる。


 次に入ってきたのは、近所の男の子だ。


 小銭を握りしめて、背伸びしてショーケースを覗き込んでる。


「おじちゃん、これちょうだい!」


「おじちゃんではない。お兄さんだ!」


 アインが真顔で訂正する。大人げないなぁ。あの子から見ればおじさんでしょ。


 ……私はおばさんじゃないけど。


「それで、坊や。どれがいいんだ?」


「いちばんあまいやつ!」


「ならばこれだ。チョコチップメロンパン。チョコの苦味と生地の甘さが一緒になって、すっごく美味しいぞ」


「それにする!」


 男の子は嬉しそうにパンを受け取って、走って出て行った。


 アインはその後ろ姿を、目を細めて見送ってる。


「……子供の笑顔というのは、悪くないものだな」


「アインも、いい笑顔だったよ」


 その時だった。


 バーン! と勢いよくドアが開いた。


 カランコロン、というベルの音が悲鳴のように響く。


「ガハハ!! おーい!! アインハルト! 元気にしておるかー!」


 入ってきたのは、お腹の出た商人風のおじさん。


 フードを目深に被ってるけど、隠しきれない偉そうな雰囲気と、高そうな服の生地が「普通の人じゃない」と言ってる。


 ……そう、この方は国王陛下だ。


 そして背後には、同じく商人風の服を着た、目つきの鋭い大男が二人。


 腰には剣を隠し持ってるのが服の上からでも分かる。


 いつも陛下の護衛をしている騎士様たち。


「……うわ、また来たのですか」


 アインが露骨に面倒くさそうな顔をする。


 私とのデレデレモードを邪魔されてムカッとしたのかもしれない。


「こ、こらアイン、『うわ』とか言わない! 」


「ガハハ! 相変わらず礼儀がなっとらんのう! よいよい、今日は一介のパン好きじゃ。……お忍びで来るのも楽じゃないのう」


 陛下は笑いながらトレイを手に取った。


 護衛の二人は、アインに一礼してから、さりげなく入り口と窓際に立って見張りをしている。


 パン屋に似つかわしくない緊張感だ。


「おお……これが噂の新作か! チョコチップメロンパン! 黒いツブツブが乗っておる!」


 陛下の手が伸びる。


「お待ちを」


 アインがパンを取ろうとする陛下を静止する。


「全く……あなたは、何度言えばわかるんですか、まず店内に入ったら入口の魔道具で手の洗浄ですよ。()()殿」


「な、ナハハ! ついうっかり!」


「さ、清潔に」


「相変わらず厳しいやつじゃのう……」


「毎回言ってるでしょう。いい加減覚えてください」


「年には勝てんな! ガハハ!」


「覚える気がないだけでしょう……」


 陛下は渋々手を洗浄魔法で綺麗にして、嬉しそうにメロンパンをトレイに乗せた。


 陛下に対しても遠慮がないというか、距離が近いというか……。


 このやり取りは、二人の信頼関係の証なのかもしれない。


 宰相を辞めるだなんて、後任を立てたとしても通常なら許されることはない。


 それを、許してくださった懐の深い陛下。


 そしてそんなことを、物怖じせず陛下に直接言えるアインの胆力。


 私の想像より、きっとこの二人は強く繋がっているんだろう。


 でなきゃ、わざわざ陛下がお忍びでパン屋に通うわけがない。


 陛下は会計を済ませると(陛下からもお金はちゃんと貰う)イートインスペースの椅子に座り、早速パンを食べ始める。


「ふむ……! 美味い! このサクサクしたクッキーみたいなのが最高じゃ!」


 陛下はメロンパンを頬張りながら、目を細めた。


「城のシェフにも作らせてみたんじゃが、どうもこの食感が出せんのじゃ。……お主、何か魔法でも使っておるのか?」


「魔法など使っていませんよ。……強いて言うなら、愛……ですかね」


 アインが真顔で答える。


「あ……愛?」


「ええ。ユリアに『美味しい』と言ってもらいたい。その一心で生地をこね、温度を見て、焼き上げているんです。……妥協なき愛の結晶、それがこのメロンパンです」


 陛下はポカンとして、それから少ししてニヤニヤと笑い出した。


「カーッ! ごちそうさま! パンより甘いわ!」


 陛下は冷やかしたけれど、アインは全く動じない。


 むしろ、私の肩を抱いてドヤ顔をしてる。


()()殿には分からんでしょう。愛する人のために何かを作る喜びというものが」


「はいはい、分かった分かった。……しかし、お主がそんなに幸せそうな顔をするとはのう」


 陛下は少し真面目な顔になって、アインを見た。


 その眼差しは、部下を見る国王の目ではなく、親戚の子供を見るおじさんのような目だった。


「覚えておるか? お主が5歳の頃、父上に連れられて城に来た時じゃ。お前は庭で泥団子作りに熱中しておった」


「……しょ、商人殿、その話は」


 アインが嫌そうな顔をするが、陛下は止まらない。


「『まんまるじゃないと許せない』とか言って、手と顔を泥だらけにしながら、必死に泥団子を削っておったのう。あの時の集中力、今のパン作りにも活かされておるのだな」


「ぶっ」


 私が吹き出すと、アインは顔を真っ赤にして叫んだ。


「あ、あれは忘れたい過去なのです!」


「ほっほっほ! 堅物アインハルトにも、そんな可愛い時期があったんじゃよ、ユリア嬢」


「へぇ……可愛いですね、アイン。泥団子職人だったんだ」


「やめろ、ユリア! ニヤニヤしてこっちを見るな! ……今の俺はパン職人だ!」


 アインが本気で焦ってる。


 私の知らないアインをまたひとつ知れた。


 陛下も、すごく嬉しそうに話してくださる。


 きっと、アインの顔を見るのが嬉しいんだろうなぁ。


 自分の子供のように。


「うふふ。あんまりにも可愛くて、つい」


 いつも完璧な彼の、そんな隙のある姿が見られるのも、ここが平和なパン屋だからこそだ。


 そして、この国を平和に、豊かに治めて下さっている陛下のおかげだ。


 陛下はひとしきり笑った後、ふと優しい声で言った。


「……亡き父上も、安心しておるだろうよ」


 その言葉に、アインの手が止まった。


 お店の空気が、少しだけ静かになる。


「お主はずっと、父親の期待に応えようと、自分の感情を殺して生きてきたからのう。……それが悪いとは言わん。そういう生き方もある。だが……やっと、人間らしい顔になった。お前を辞めさせて、正解だったかもしれぬな」


「……ええ。父には感謝しています。そして、寛大な心で受け入れてくださった陛下にも」


 アインは少し微笑んで静かに言った。


 私の腰に手を回して、引き寄せる。


 その手のひらの温かさが、じんわりと伝わってくる。


「父と陛下のおかげで、様々な力や知識がついた。……おかげでこうして、自分の力で大切な人を守り、生きていくことができています」


 アインの手が、私の手をぎゅっと握った。


「今は、国の情勢より、明日の天気とパンの焼き加減……そして、ユリアの機嫌の方が重要なんです」


「カーッ! 当てられっぱなしじゃ!」


 陛下が大げさに顔をしかめた。


「胸焼けするわ! おい、塩気のあるパンをくれ!」


「クロワッサンならありますよ。バターの塩気が効いています」


「それをくれ! あと紅茶もじゃ! ……おい、お前たちも食え! 奢りじゃ!」


 陛下が護衛たちに声をかける。


 護衛たちは困惑しながらも、アインからパンを受け取って恐縮している。


「はいはい。少々お待ちを」


 アインは呆れながらも、手際よく紅茶を淹れ始めた。


 口では冷たいことを言っても、結局は面倒見がいいんだから。


 窓の外には、どこまでも広がる青い空。


 店内には、焼き立てのパンの香りと、紅茶の香り。


 そして、大好きな人たちの笑い声。


 かつて、国の全てを背負っていた彼は今、エプロン姿で私の隣にいる。


 その横顔は、私が知っているどんな時よりも輝いてた。


「ユリア、陛下が帰ったら、新作の試作をしようか」


 アインが耳元で囁く。


「うん! 今度は何を作る?」


「イチゴの果汁を練り込んだやつだ。……君の唇みたいな色の」


 そしてアインは私に軽く口付けをする。


「なっ……! もうっ! バカ! ほら! 早く陛下に紅茶をお出しして!」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


 もちろん、私の顔は真っ赤だ。


 これは、元宰相と転生令嬢の、おいしいセカンドライフ。


 このゆる〜い国で過ごす、甘くて、香ばしくて、あたたかい毎日は、まだ焼き上がったばかりだ。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!


皆様の心が焼きたてのパンのように、ほんのりと温かくなっていたら幸せです。


このお話のふたりみたいに、皆様の週末もやさしくて、ゆる〜い、甘い時間になりますように。


それでは、よい週末を。


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