恋心は雨に濡れて、バスケットゴールにぶら下がって
どこまでが天然で、どこまでをぶりっ子と言うのだろう。ラインを探ることは女の子にとって重要だ。サイン・コサインよりも、仮定法過去完了よりも、ローマの五賢帝なんかよりも、ずっとずっと。
教えて欲しいことは一つだけ。どうやったら敵を作らずに男子達にもっと可愛く見られるか。それだけなんだ。きっと、世の中の女子達はみんな同じことを考えている。少なくとも私の周りはみんなそうだ。
「最近雨多くない?」
「そうかもー?」
「嫌いだなー……。雨」
「え、私ちょー好き。コート使えんくなって部活すぐ終わるもん。雨なんてなんぼあってもいいもんですから」
「いやだれ?」
「たしかあ……ミルクボーイ?」
「ふるっ! てか使い方あってるん?」
「あれこんなんじゃなかったっけー?」
「ぜったいちがうー!」
立ち上がると、捲り上げたスカートを下ろしてから、レバーを捻った。同じタイミングで隣の個室からもシャーと水の流れる音がした。個室から出て、手洗い場で蛇口を回す。さらさらと流れる水に手を突っ込んで「いいなー。外部活の人らは」そんなことを呟きながら念入りに鏡をチェックした。前髪は崩れてない。いい感じ。
「カナはバスケ部やもんねー。さすがに雨は関係ないか」
「ないねー」
ハンカチで手を拭いて、ハニーの香りのリップクリームを塗り直した。プルプルの唇を取り戻した姿で鏡を見ると、やっぱり私って可愛い方やんなって思う。私は間違いなく恵まれている。顔がいいとか、胸が大きいとか、たったそれだけのことで分かりやすく何かに大きく勝ってしまう。女の子の世界で、一番不平等で残酷な部分。その牙が私に向けられなくて良かったと心から思う。ああ、やめやめ。こんなこと考えるのって、ださいださい。
「かわいそうやなー。バスケ部は」
「いいよ別に。私部活好きやし」
「ふーん」音符がくっついたみたいな弾んだ音が鳴る。
「ふーん、やめよっか」
愉しそうに含み笑いをする顔に向かって私は目を細めた。嘘じゃないのに。私は部活が好きだ。バスケットボールではなく、部活が好き。
「ほら。噂をすれば……!」
トイレから出てすぐに肘で小突かれた。シャキッとして前を見ると、廊下の向こうの教室から日野涼太が顔を出した。いつ噂したんよ。なんて突っ込む余裕も無く、私の脳みそはフル回転する。
「あ、本田やん! 今日は良く遭うなー!」
私を見つけると、涼太はニカッと笑った。ちょっと声を大きくして気を引いてみようかとか、すれ違いざまにわざと肩をぶつけてやろうかとか、私の必死な企みなんて全部くしゃくしゃにしてゴミ箱にポイって投げ捨てたりするようなことを、こいつはするんだ。
「ほんとやねー。ストーカーせんでよ!」
「それはおまえやろ!」
「ちゃうし! 私は由美とトイレ行ってただけやもん」
ねー! と由美と二人で顔を合わせる。
「でも涼太はお一人みたいだけど。これはもしかして……! そういうことお?」
「残念やったなあ! 移動教室ですう!」
英語の教科書をこれ見よがしに胸に掲げ、勝ち誇ったように言う。馬鹿だこいつ、て私は思う。でもこんな下らない会話を一緒に楽しんでくれるところがこいつのいい所だ。
涼太の後ろから男の子がやってきて「イチャイチャしてんな!」と丸めた教科書で頭を叩いた。崩れたマッシュの前髪が目に掛かって、邪魔そうに頭を左右に振る。こういうちょっとした仕草が、いいな、てなる。なんでか説明できないけど、他の男の子がやってもなんとも思わないけど、涼太がやると、いいな、てなる。
「してねえよ!」とか言いながら、そのまま涼太は男の子と並んで歩いていく。申し訳程度に、私に視線を配り、静かに手を振った。
「もう行っちゃったねー」
能天気な声が、すっと私の耳に入りこむ。
「いいよ。部活で会えるもん」
私は部活が好き。例え一度もレギュラーに選ばれなくても、シュートがどれだけリングに跳ね返されても、部活が好き。たぶん、バスケットボールじゃなくても良かったんだと思う。私の高校生活を甘酸っぱく染め上げてくれるものだったら、なんでも。
放課後になっても雨は止まなかった。
「今日第二体育館らしいよ」
「え? なんで?」
「第一はサッカー部が使うんやってさー。男バスも女バスも、両方第二」
「なにそれ。ムカつく。サッカー部が第二使えよ」
「サッカー部は人数多いから第一がいいんやとさー」
「うちらだって第二やと狭いって!」
「私に文句言わんでよー! なんか男バスとサッカー部が話し合って決めたみたいよ。ほら、あそこらへんって仲いい人ら多いじゃん?」
「そっかー……」
男バス。その話し合いの中に涼太も含まれていたのは容易に想像ついた。それを盾にするなんて、誰に対してかも分からないけど、せこい、て勝手に思った。
私達は靴箱で上履きを履き替えた。私は軒下から雨雲を睨んだ。第二体育館に行くには、わざわざこの雨の中を歩かないといけない。女テニのクラスメート達が風を切るように私の横を通り過ぎて、駐輪場の方向に歩いていく。「バスケ部やん! 部活頑張れー」なんて、エネルギーをたっぷり余らせた黄色い声を私に浴びせながら。
「嫌いやなー。雨」
空気はうす暗く、ジメジメとしている。息を吸うと、そんな空気が体の芯まで浸透してきそうな気がして、溜息と一緒に体の外に押し返した。
「うわ! 朝より降ってない?」
雨の日には似合わない、からっと晴れた空みたいな声が頭上から落ちて来た。見上げると、キャプテンが真後ろに立っていた。
「きゃぷてーん……。なんでうちらが第二なんですかー。サッカー部の我儘なんて訊く必要なくないですか?」
そうですよー。と私に同調する声が周りを取り囲んだ。
「決定したことに文句言わない! グチグチ言えば何かが変わるわけじゃないんやから!」
でもー。と消化不良の部員達に「偶には違う環境でやるのも案外楽しいじゃん?」とかっこよさげな台詞を吐いてキャプテンは笑った。
「この時間が一番むだむだ!」
そんな真っ当な正論を置いていき、ほら。気合入れてこー! とキャプテンは鞄を頭の上に掲げ、率先して雨の中を突っ走っていった。キャプテンはいつも正しいことだけを言う。そういう人って、いつの間にか遠ざけられがちだけど、キャプテンは違う。男の子顔負けの大きく逞しい背中が上下に揺れる。長い手足が鞭のようにしなり、ぐんぐんと遠く離れていった。そんな姿は格好いいな、て思うときがある。
たぶん、そういうところなんだ。
そんなキャプテンの背中を追いかけて、部員の皆も後に続いた。私は傘をさして、その一番後ろを歩いた。
きゅうけーい!
キャプテンのよく通る声が体育館に響いた。私は水筒を手に取って、体育館の壁にもたれて座った。壁越しにぴちゃぴちゃと雨水が流れる音が聞こえてきた。
部員はみんな休憩しているけど、キャプテンだけはシュート練習を続けていた。高身長の身体の全部がひとつのバネのようにぴょーんと高く飛び跳ねて、さらに高い位置からボールを放つ。ボールは綺麗な弧を描いた。何者にも触れることなく、ストン、とリングをくぐりコートに落ちた。
キャプテンはいつもそうだ。みんなより遅く休憩に入って、みんなより早く休憩を終える。キャプテンは努力家で、才能があって、天性の身体を持っている。とにかくキャプテンは恵まれている。全部、バスケットボール選手として。
いいことだと思う。かっこいいとも思う。でも、なぜか羨ましいとはならない。それよりも、自分より胸が大きくて、顔が可愛い女の子に私は嫉妬する。そんな浅はかな価値観を抱いている自分に、悔しい、て強く思う。鏡の前だけでしか自尊心を満たせない私は、人としてなんて未熟ものなんだろう、て強く思う。
たぶん、そういうところなんだ。
隣のコートから、ボールの弾む音が消えた。男バスも休憩に入ったらしい。私は立ち上がると、水筒をがぶ飲みしている涼太の横に座った。
「こっちの体育館って、なんか暗ない?」
「雨だからやろ」
「湿気やばいし」
「雨だからやろ」
「なるほどねー」
「馬鹿なん?」
涼太は苦笑まじりに水筒の蓋をキュッと締めて、胡坐をかいてその場に座った。私は首を斜めに傾けて、一番自信のある角度で涼太の顔を覗いてみたけれど、涼太は向き返してこなかった。
「てゆーか涼太髪切ったんやねー。かっこいいやん!」
「おー。切った切ったー」
こっちを見ることもなく、心ここに非ずみたいな顔で涼太は言った。今、彼の視線がどこにあるのかなんて、その先をわざわざ追わなくたって分かる。
「佐々木先輩って努力家だよな……」
愛しさと憧れを濃縮したようなそんな声でキャプテンの名前を呼ばないで欲しい。エネルギーの塊のような目を一点に向けて、キャプテンを直視しないで欲しい。
「ねー。かっこいいよね」
「おー。なんか応援したくなるよなあ」
涼太は素直で分かりやすいやつだ。それがいいところでもあり、残酷なところだ。
「涼太ってさ。キャプテンのこと好きなん?」
涼太がこっちを向いた。ようやく、私を見た。驚いた顔をしたあとに、照れ隠しに視線を逸らした。
「誰にも言うなよ」
全身の指先にグッと力が入った。これはどういう体の反応なんだろう。分かり切っていた言葉が、そのまま返ってきただけなのに。
心臓がじくじくと痛む。
雨は嫌いだ。雨音は鬱陶しいし、空気はうす暗いし、ジメジメしているし。そんな空気を吸い込むと、私の心までジメジメとしてくるんだ。ジメジメとジメジメとジメジメとジメジメと……。
「でもさあ……」
だめだ。それは言っちゃだめだ。私の中にだって誠実な声はあった。でもその声はあまりにもか細くて、弱々しくて、簡単に雨音にかき消された。
「キャプテン彼氏いるよ」
涼太の顔にすっと暗い線が入った。気がした。ほんの数秒の沈黙がやけに長く思えた。雨が屋根を突き抜けて、床に落ちてきてるんじゃないかってくらい、雨音はうるさかった。湿った感情が心臓を全部覆った時にようやく、私は過ちを犯したんだと分かった。それを全部雨のせいに出来るほど、私の脳は都合よく出来ていない。
「そっかあ……」
涼太は顔を仰いで天上を見つめた。もしかしたら、その向こう側の雲を、あるいは、さらにその向こう側の青い空を。
「でもいいや。諦めねえ」
「え?」
「諦められない」
晴天がそこにあるかのような声。涼太のいる場所には、いつどんな時だって太陽の光が降り注ぐ。キャプテンと一緒だ。そういうところを私はかっこいいと思ったんだ。好きだと思ったんだ。
「涼太はかっこええね」
「どっちかっつうとださいやろ」
「かっこええよ」
ここまでしても勝てなくて、初めて私はキャプテンに対して本気で悔しいって思えた。涙が眼に溜まったから、欠伸を噛み殺すふりをして誤魔化した。涙はすぐに拭き取った。
「そんで私はかっこ悪いなあ」
「なにが?」
「知らんくていいよ。まだ」
「なんやそれ」
そうだ。まだ何も知らなくていい。何にも気付くな。こいつがそれに気付く時は、かっこいい私でありたい。
「諦めんから。私も」
「なにを?」
「全部」
「変なやつ……」
私は立ち上がり、コートに足を運んだ。ボールを拾い上げ、キャプテンの横に並ぶとシュートを放った。私のボールはそれが当たり前かのようにリングに弾かれる。
「おお……!」キャプテンは驚きの声に嬉しさを混ぜ込ませた。
「どうしたん? やる気やねー!」
「まあ、たまには……」
ふふん。キャプテンは上機嫌に鼻で笑い、シュートを放った。ボールは虹の様な綺麗な放物線を描き、リングを潜った。
「キャプテン……」
「ん?」と光の束のような視線が私を射抜く。どうしてこの人はたったの一文字でも、こんなにも輝きを放つのだろう。
「シュートのこつ。教えてくれませんか?」
「うん! いいよいいよ!」
雨なんか吹き飛ばす、太陽のような眩しい笑顔がそこに咲いた。
分かる気がする。私が涼太を好きになったように。涼太もキャプテンのこういうところを好きになったのだろう。
動機は不純だ。でもそれでもいいじゃん。少しずつ変わっていこう。私は女の子としてよりも前に、人として魅力的になろう。
今なら大嫌いな雨にだって負けない気がする。たとえ雨空の下だろうと傘もささずに走ってみせる。