第七章⑥
その表面には、一人の老婆の姿が描かれている。
左下には奉納された年なのだろうか、年号が書き込まれている。明治四年と読めた。
「あった! これだ!」
僕は、改めて絵の中の老婆に目をやる。佐世とそっくりだった。
いや、その姿や風貌は、佐世そのものと言ってもよかった。
半身で右半身を晒している佐世は、眉間に皺を寄せながら目線だけをこちらに向け、大きな口から牙のような歯を覗かせて、薄気味悪く笑っていた。
この世のものとは思えない、あらゆる邪気を内に秘めたような姿だった。
――これは……、鬼!
後ろから僕を心配そうに眺めていた芽依は、絵の中の老婆が佐世にあまりに似ている事実に気づき、目を丸くした。
「ひょっとして、これって……。佐世?」
「ああ、多分ね」
もう一度、絵に目を凝らす。
絵馬の中で悍ましく笑う佐世の右前腕付近が、真っ赤に染まっていた。
まるで、その部分に怪我をしているように見える。ちょうど先ほど、芽依が植木ばさみで刺した場所と、ほぼ同じ箇所だった。
僕の予感が、確信に変わった。
「間違いない。これが佐世。つまり久比沼神社の本体、久比沼様だ!」
気がつくと、僕は叫んでいた。
僕は絵馬を引っ張り出し、埃を払うと、祠の奥の壁に立てかけた。絵の中の老婆は、格子から差し込む朝の光を受けながら、相変わらず不気味な笑みを浮かべている。
「この絵馬こそ、佐世の本体。すべての元凶なんだよ!」
冷静に考えると、有り得ない話だった。しかし、僕たちは生きるか死ぬかの極限状態にあり、冷静ではいられなかった。何より、たとえ有り得なさそうな事象であっても、今、この場所ならばあり得る。そんな確信があった。
僅かな可能性に賭けてみるしかなかった。
僕の声に、芽依はすべてを察したようだった。
芽依は、上着に忍ばせていた植木ばさみを再び手に取ると、絵馬に向かって刃の先端を突き立てた。世界の終わりを告げるような悍ましい悲鳴が上がり、絵馬の一面に真っ赤な染みが広がった。
同時に外の喧騒がパタリとやんだ。外を覗くと、あれだけいた男たちの姿が見えなくなっていた。
だが、ほっとしたのも束の間だった。振り向いたとき、僕は今までの危機的状況を忘れるほどに驚愕し、狼狽した。
絵馬の中の佐世の心臓付近、ちょうど芽依がはさみの刃を突き立てている部分から、火の手が上がっていた。
火は瞬く間に絵馬を包み込む。なす術もなく見つめている間にも、炎の先端は祠の天井に手を伸ばす。そのまま天井を赤く染め、見る見るうちに祠全体にまで燃え広がった。
一刻も早く外に出ないと、手遅れになる。そう考えた僕は、慌てて芽依の肩に手をかけた。
だが、祠から連れ出そうとする僕の手を払い、彼女は叫んだ。
「今、とどめを刺さないと、手遅れになる! 私は大丈夫だから!」
言葉とほぼ同時に、彼女の左手が僕の胸を強く押した。一人の女性の能力とは思えないほどに、強い力だった。
彼女に突き飛ばされた僕は、背中で扉を押し開き、そのままの勢いで祠の外に転げ落ちた。顔を上げると、祠はすでにオレンジ色の炎に包まれていた。
オレンジ色の火があまりに熱く、眩しい。祠の中に芽依の姿を確認することは、もはや不可能だった。
柱が、バキバキと恐ろしい音を当てて崩れ落ちた。
僕は思わず、炎に向かってあらん限りの声で叫んだ。
「芽依ーっ!」
祠を包む炎が一段と高く、熱く、赤く、空を染めた。
*
その後のことは、よく覚えていない。
気がつくと、僕は神社と屋敷を結ぶ山道の途中に倒れていた。転がったとき、どこかにぶつけたのだろうか。履いていたジーンズは所々が破れ、膝から血が出ていた。
――そうだ、芽依は?
僕は、足を引きずるようにしながら神社に戻った。
神社は、跡形もなく焼け落ちていた。僕は、真っ黒な木炭のようになった柱を持ち上げ、その下に芽依の姿を探した。
しかし、芽依の姿はもちろん、芽依がこの世に存在したという僅かな痕跡さえ、見つけることはできなかった。まるで、芽依は最初からこの世界に存在していないかのようだった。
小一時間ほど周辺を捜索した僕は、最後には諦め、山道を下って屋敷に戻った。
屋敷の前に立った僕は、目を疑った。
屋敷は、朽ち果てた廃屋にすっかり姿を変えていた。窓ガラスはほとんどが割れ、屋根の一部は崩れ落ち、部屋を押し潰している。手前の客間に至っては、柱ごと崩れ落ち、原形をとどめていなかった。
――ここが、あの屋敷、なのか……?
数時間前まで、僕たちはこの屋敷の中で暮らしていたはずだった。しかし、目の前に佇む廃屋は、数十年前に打ち捨てられた建物そのものだった。
一体何が起こったのか、理解できなかった。
まるで、昔話の主人公になった気分だ。悪い夢でも見ているようだった。
僕は、廃屋に足を踏み入れ、階段を上る。階段は、途中の数ヶ所が腐っていたが、僕の体重をかろうじて支えることができるようだった。
注意深く二階に辿り着くと、床を踏み抜かないように気をつけながら廊下を進み、研一の部屋から自分の荷物を運び出した。さらに、その足で蔵に行くと、タブレットも回収した。
もしやと思って、蔵の奥の隠し部屋を覗く。部屋の中に放置された三体の遺体は、そのままだった。
まさに狐に摘ままれた気分だったが、タブレットや遺体の存在は、僕の体験したことが決して夢や幻ではなかった事実を告げていた。
僕は、蔵を出ると庭を抜け、屋敷を後ろに見ながら林道に出る。
そのまま、倒れ込みそうになる体を二本の足で懸命に支えながら停留所まで降りると、備えつけの非常電話の受話器を取り、警察に電話した。