第七章⑤
岩の陰からそっと頭を出し、下の山道をうかがう。僕たちの姿を見失った男たちは、どうすればいいのか分からないでいるのだろう。目標を失った蟻たちの行列のように、ただ右往左往するばかりだった。
僕は、再び身を隠し、岩肌に寄りかかる。深呼吸をすると、放心したようすで横に座り込んでいる芽依に声をかけた。
「君のお母さんも、かつて祭りに参加していたんだね」
「うん」
躊躇いがちに頷く芽依。瞬間、山道で叫ぶ男たちの喧騒が、風にそよぐ草の音にかき消された気がした。
芽依は頷いたまま俯くと、言葉を選びながら静かに語りはじめた。
「私の家は母子家庭で、凄く貧乏だった。だから、お母さんは私が四歳のときにアルバイトに応募して、祭りに参加したらしいの。私をお母さんの妹、つまり叔母さんに預けて……」
芽依は、そこまで話すと、辛い記憶の痛みを和らげるように、長い溜め息を吐いた。
「そして、お母さんは行方不明になった。お母さんがここに向かったことまでははっきりしてるんだけど、その後の足取りは全然つかめなくて……。だから、私はお母さんを捜そうと思って、ここに来たの。だけど……」
芽依は静かに目を拭った。肩が、微かに震えていた。
芽依の壮絶な半生に思いを馳せ、僕の心も激しく波打った。思わず、彼女の肩を抱き寄せる。
僕が彼女のためにできることなど、あるはずもなかった。しかし、こうすることで、彼女の苦しみや悲しみを、多少なりとも和らげることができるような気がした。自惚れかとも考えたが、それでも構わないと思った。
そのまま、数秒のときが流れた。
山道の喧騒が、一層高まった。我に返った僕は、芽依からそっと離れると、岩の陰から少しだけ顔を覗かせ、再び男たちのようすを窺った。
男たちのいら立ちが、明らかに高まっていた。今見つかれば、命の保証はない。そう思わせるには、十分な空気だった。
――この危機を乗り越えるには、どうしたらいい。
必死で考えた。僕のためにも、そして芽依のためにも……。
奥平が書いた文章の文章の中に、ヒントが隠されているのではないか。漠然とそう考えた僕は、淡い期待とともに、頭の中で文章を反芻した。
ふと、短い文が頭に浮かんだ。
祭りのたびごとに、佐世が現れる。
佐世の正体は、久比沼様。
――久比沼様とは、何だ?
僕は、右手の親指を噛みながら、一人呟いた。親指の先が、きりりと痛んだ。
「そうだ!」
痛みの中に、正解への道を示しているであろう道すじが、稲妻のように現れた。
この状況においてもっとも避けなければならないはずの大声を上げてしまった僕を、芽依が驚いて見上げた。キョトンとした表情で僕を見つめる芽依の前で、僕は道の先を指差す。
「久比沼様は……。あそこだ!」
僕が伸ばした人差し指の先には、木々に囲まれて、屋根の一部だけを覗かせる久比沼神社があった。
ほぼ同時に、岩の下に伸びる山道を右往左往していた男たちが、一斉にこちらを向いた。構わず、僕は芽依に問いかける。
「今から、久比沼神社に行くよ。走れるかい?」
芽依は一瞬、怪訝な顔をしたが、僕に対する信頼感が勝ったのだろうか、すぐに強い意志を宿した表情で頷いた。
「うん。でも、何で?」
「恐らく、僕らが助かる方法は、一つしかない。だから……」
そこまで言うと、僕は芽依の手を引いて岩の陰から飛び出した。目だけで崖の下を見ると、男たちが一つの塊のようになって、崖をうねうねと上りはじめていた。
神社までは、恐らく五分ほどだろう。僕らは男たちを横目に見ながら、懸命に山道を駆け抜けた。
久比沼神社は、数日前に初めて訪れたときと変わらず、同じ場所に同じ空気を纏いながら佇んでいた。僕は、その前面にある粗末な格子を力任せに開けると、芽依と一緒に中に飛び込んだ。
すぐに、内側からつっかえ棒をする。
僕たちを追いかけてきた男たちは、興奮した様子で、祠を取り囲んだ。その輪の中に、佐世の姿は見えなかった。
恐らく、男たちは祠を破壊するわけにもいかず、どうしたらいいかわからないまま混乱しているのだろう。今は遠巻きに見ているだけだが、祠の中になだれ込んでくるのは、時間の問題と思われた。
残された時間は、少なかった。
気がつくと、木々の上に僅かに見える空が、先ほどよりも白くなっていた。夜が明けはじめていた。
僕は、祠の奥に視線を移した。祠の奥、かつて来訪神の衣装が置かれていた場所の横には、古めかしい絵馬などが、無造作に立てかけられていた。僕はそれらに歩み寄ると、片っ端からひっくり返した。
「どうしたの? 何があるの?」
僕が錯乱したとでも思ったのだろうか。芽依が後ろから心配そうに声をかけてきた。
だが、手を止めるわけにはいかない。もし仮に佐世の正体が久比沼様であるなら、佐世はこの神社の中に「いる」に違いないからだ。
「きっと、ここにいるんだ!」
自分自身に言い聞かせるように強い口調で叫びながら、僕は絵馬を引き倒していく。やがて、埃だらけの絵馬の束の中から、一枚の絵馬が姿を現した。一際大きな絵馬だった。