第五章②
「神隠し?」
「江戸時代には全国各地で、おもに子供が突然、行方不明になる神隠しが頻発していた。神隠しの正体には諸説あるが、その多くは『口減らし』だったといわれている」
口減らしとは、おもに農村で、貧困に喘ぐ家庭が家計の負担を軽くするために、子供を奉公などに出す風習だ。古くから、東北地方の農村などを中心におこなわれていたらしい。子供を殺すことも多く、一部の地域では「殺された子供は座敷わらしになる」などと信じられていたという。
「人々は、口減らしを断行しながらも、良心の呵責に苛まれたことだろう。普通の人間なら、当然のことだ。そこで、人々はしばしば口減らしを神隠しと呼び、人知を超えた不可思議な現象として合理化してきたんだよ」
遠くで、複数の男たちの声が聞こえた。恐らく、監視役を担っている久比沼家の一族の男たちが、奥平のような外部からの侵入者がいないか、定期的に見回っているのだろう。あるいは、アルバイトである僕も、警戒対象かもしれなかった。
僕は、思わず首をすくめた。
「この集落でも江戸時代を通じて、子供たちがしばしば神隠しに遭ったという言い伝えが残っている。しかし私は、この集落で起こっていた神隠しの正体は、口減らしなどではなかったと思っている」
「なぜ、そう思うんですか?」
「口減らしがおこなわれていたのは、おもに貧困にあえぐ地域や集落だ。それに対して、この集落は江戸時代を通じて、非常に裕福だったんだ。この地域の主産業は養蚕だったんだが、なぜかこの集落の生糸は、生産量、品質ともに他の追随を許さなかったというのが理由だったらしい。十九世紀前半に起こった天保の大飢饉のときには、近隣の集落に食糧を配って、多くの人々を救ったという記録まで残っている」
「よく、そこまで調べましたね」
もちろん、皮肉ではない。素直に感心した。さすが、ジャーナリストだと思った。
「いったいどこで、その情報を?」
「そんなに難しいことじゃない。図書館で、当時の藩の記録を調べたんだよ」
奥平は身を屈め、囁くように続ける。男たちの声を聞いても、焦る様子を見せていなかった。むしろ、楽しそうでさえある。もしかすると、誰かに自分の話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「本来、口減らしなど必要なかったこの集落で、なぜ神隠しが起こったのか。それは、この集落の神隠しは口減らしなどではなく、多分、本当の神隠しだったからだ」
僕は、耳を疑った。俄かには信じられなかった。
「少なくとも、集落の人々は、そう信じていた。そして、やがて『神隠しが自分たちに富をもたらしてくれている』と考えるようになった。いなくなった人々は、いわば『生贄』という位置づけになったんだ」
――生贄?
不吉な言葉だった。
「ところで、この『神との取引によって富を得る』という考え方は、何かと共通していると思わないか?」
「ええと……、よくわかりませんけど」
「来訪神の信仰だよ。この共通点のために、この集落では神隠しがいつしか来訪神の信仰と結びついていき、さらに時代が下ると、神隠しが起こった年に来訪神をもてなす神事が大々的におこなわれるようになったんだ」
「それも、藩の記録に載っていたんですか?」
「いいや、これは昭和初期、この地の伝承について調べた民俗学者が残していた記録に記されていた内容だ。そして、今から約百五十年前の明治時代初期に、来訪神の信仰と神隠しの要素がはっきりと融合した形で、現在の祭りがはじまった。こちらは、僕自身が神田神保町の古書店街で手に入れた、祭りの起源についての本に書かれていた」
――今の祭りに、神隠しの要素が?
瞬間、雅代の顔が頭に浮かんだ。
奥平は、月を見上げるように天を仰ぐと、小さく息を吐いた。再び姿を現した満月が、奥平の顔を照らした。
思い詰めた表情をしていた。できれば言いたくない言葉を言わなければならない。そんな表情だった。
「もしかしたら、今回の祭りのなかでも、誰か姿をくらました者がいるんじゃないかな?」
僕は、奥平の慧眼に驚いた。今までは話半分のつもりで聞いていたのだが、奥平の話が急に真実味を増したように感じられた。
「います。母親の雅代さんが、いなくなりました」
「やはり……。今の時点では確証があるわけではないのだが、この祭りでは、恐らく功を除く家族四人全員が……」
奥平が続きを話そうとした、そのときだった。
一際近くに、二本の光のすじが見えた。
僕は、奥平の顔から目線を上げて、暗闇に目を凝らす。
光は、池の向こう側の闇の中で、左右に忙しく動いている。明らかに、懐中電灯の光だった。「いたら、大声で知らせろよ」と話す声が聞こえた。
二本の光のうち、一本は庭の反対側に進んでいく。もう一本の光は、ちらちらと上下左右を照らしながら、見る見るうちに近づいてきた。
体中の毛が逆立った。心臓が急激に拍動を速め、額からどっと汗が噴き出した。
――見つかったら、終わりだ!
「まずいな。これ以上、話している余裕はなさそうだ」
奥平は、初めて焦る様子を見せた。僕の肩に手を置くと、目を真っ直ぐに見つめる。
「私が右側に走って逃げるから、その隙に君は来た道を戻ろ。ええと……、名前、聞いてなかったね」
僕は、名乗るべきかどうか一瞬、悩んだが、こう答えた。
「高山です。高山翔也」
「高山君、くれぐれも気をつけるんだよ」
そう言い残した奥平は、石燈籠の右側に躍り出ると、そのまま蔵の方に向かって全速力で駆けていった。奥平の姿が見えなくなった頃、「おい、蔵のほうだ!」という男の声が聞こえた。
僕は、石燈籠の陰に身を潜めたまま、足音と懐中電灯の光が遠ざかるのをじっと待った。
しばらくすると、再び静寂が訪れた。
静寂を確認した僕は、この場所まで来た道を駆け足で逆に辿った。僅かに開いていたガラス戸の隙間から室内に転がり込むと、焦りと暗さが原因で縺れそうになる足を懸命に動かして、部屋に戻った。
*
部屋に戻った僕は、ベッドの上に大の字で寝転んだ。まだ、心臓の鼓動が収まらなかった。
――奥平さんは、無事に逃げられただろうか。
小さく深呼吸をしながら、奥平との会話を思い出す。
奥平が最後に口にした言葉が、脳裏にこびりついて離れなかった。
――功を除く家族四人全員が……。
きっと奥平は、こう言いたかったのだろう。
――功を除く家族四人全員が、生贄となる展開が待っている。
今にして思えば、雅代の失踪は彼女が神隠しに遭った、つまり生贄になったということを象徴していたのだ。
そして、最終的に自分や頼子を含む家族四人全員が姿を消す展開になる……。
祭りのなかで演じる役に過ぎないとはわかっていても、いい気持ちはしなかった。
ここまで考えて、ふと気がついた。
奥平は、「時代が下ると、神隠しが起こった年に来訪神をもてなす神事が大々的におこなわれるようになった」と言っていた。しかし、今の祭りは、来訪神神事のなかで神隠しが起こる展開になっている。微妙な違いだが、気になった、
――百五十年前、今の祭りが生まれるときに、何かが起こったのだろうか。
頭を捻ってみたが、気の利いた答えが見つかるはずもなかった。
不意に、奥平から聞いた情報を頼子と共有したいという衝動にかられた。
しかし、よく考えてみると、祭りの起源を奥平から聞かされたと明かし、祭りの今後の展開を告げる行為は、研一としての立場を逸脱した“高山翔也としての言動”に他ならない。つまり、話した時点で即刻、アルバイト打ち切りの対象になる。
諦めるしかなかった。
気がつくと、思考の速度が少しずつ遅くなっていた。
――生贄役の四人が別の場所に移動した後、祭りはどのような展開になるのだろう。
心と体の疲労が限界に達していた僕は、祭りの暗い一面に対する嫌悪感と未来が見えないことに対する不安を抱えたまま、気がつくと深い眠りに落ちていた。
*
夢の中で、僕は真っ暗な森の中に立っていた。
――ここはどこだ?
見覚えがある場所のようにも思えたが、初めて訪れた場所のようにも思えた。
周囲を見渡す。僕を取り囲む無数の木の間からは、漆黒の闇が見えるだけだった。その暗闇は、この森が遥か遠くまで続いていることを示唆していた。
何気なく、自分の手を見る。両手にスコップを持っていた。
誰かが、つい今しがたまで使っていたのだろうか。スコップの先端には、まだ湿ったままの泥が大量に付着していた。
――誰が、何を掘っていたんだろう?
確認しようと、足下に視線を落とす。草むらの中に、真新しい穴があった。
長さは一五〇センチ、幅は一メートル弱ぐらいだろうか。
薄暗い穴の中に、人工的な色彩が見えた。僕の足下近くには紺色、僕から遠い場所には淡い茶色。土の隙間から覗く、人間の服の一部だった。
そのとき、木々の枝の隙間から差し込む弱々しい月の光が、穴の中を頼りなく照らし出した。服の向こう側で、半ば土に埋もれた真っ黒な毛髪が、月の光を受けて艶やかに光った。僕の足下にまで伸びた生足が、青白く浮かび上がった。
髪が長い、小柄な人間。
――僕が、埋めていた?
記憶のひな型のような朦朧としたものが頭の中で蠢き、記憶領域を内側から刺激した。頭が、疼くように激しく痛んだ。
額から冷たい汗が噴き出し、頬を伝った。スコップを持つ手が、自分の意思とは関係なく、小さく震えた。
――これは、自分が幸福を手にするための……。
――生贄。
突然。
土の中に八割ほど埋まった体が、微かに動いたように見えた。
――まさか。気のせいだ。
そう自分に言い聞かせる間もなく、体は細かい蠕動を繰り返しながら、少しずつ持ち上がった。その姿は、まるで羽化を目前に控えた蝶の蛹のようだった。
動きは少しずつ大きくなり、背中に小さな亀裂が入る。亀裂の間から、クリーム色の物体が僅かに顔を覗かせた。
体中の血液が、逆流するような焦燥感に包まれた。
――羽化させてはいけない。
――早く、埋めてしまわなければ。
脳の奥底から沸き上がる正体不明の声が、そう命じた。
命じられるまま、スコップを握る手に力を入れる。何かに憑りつかれたかのように、傍らの土をすくう端から、穴の中に放り込む。
穴の中に土を落とすたびに、羽化しかけていた人間の姿が、少しずつ見えなくなっていった。同時に、混乱していた僕の精神も、少しずつ落ち着きを取り戻していく気がした。
僕は、滴り落ちる汗を拭うことさえ忘れて、ただ無心に土をかけ続けた。
この人間の存在を、現実世界から切り離すために……。