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贄の里  作者: 児島らせつ
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プロローグ

プロローグ


 いつの間にか、眠っていたらしい。

 断続的に突き上げるような振動で、目を覚ました。

 全身が、光に包まれているような感覚だった。

 僕を包んでいる周囲の光が、前から流れてくる光に押し出されるように、次々と後方に流れていく。

 ――ここは?

 頭の中は、靄がかかったようにぼんやりとしていた。

 光の流れに身を任せていると、徐々に靄が晴れ、少しずつ現実世界が見えてくる。

 ――そうだ。バスに乗っていたのだ。

 今、僕が乗っているのは、G県北部の山間部を走り、麓の町と山奥の集落を結ぶ路線を走るバスだ。

 自分の置かれた状況を思い出した僕は、心を体を初期化するために、小さく伸びをしながら窓の外を見た。

 先ほどまで窓の外を流れていた単調な住宅街の景色は、すでに見えなくなっていた。代わって目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤や黄色に染め上げられた木々だった。

 いつの間にか、山道に入っていたらしい。

 木の上方に視線を移すと、折り重なる枝の間から澄み切った青空が時折、顔を覗かせる。

 僕は、限りなく透明に近い青色の光の眩しさに、思わず目を細めた。

 続いて、光を避けるように足元に目を遣る。

 膝の上に置いていたデイパックが、いつの間にか足下にずれ落ちていた。

 半開きの口から、厚さ五ミリほどのA4サイズの冊子が半分ほどはみ出ている。

 僕は、腰をかがめてデイパックを引き上げると、冊子を中に入れ直した。

 そうしている間にも、バスは曲がりくねった山道を、ゆっくりと進んでいく。

 再び、バスがガタンと揺れた。

 ――あと二十分ほどだろうか。

 僕はバッグを膝の上に置き直し、しっかりと抱え込む。

 寝不足気味のおかげで、昨日は、なかなか眠れなかった。

 気がつくと、僕は再び目を閉じていた。


          *


 それまで心地よく感じていたバスの振動とエンジン音が止んだ気がして、僕は目を開けた。

 また、眠ってしまったらしい。

 バスは、止まっていた。

 目覚めたばかりで焦点の定まらない視界の中に、車内中央の通路を歩いて近づいてくる運転手の姿が見えた。

「終点ですよ」

 運転手は、僕の目の前まで来ると、感情が籠っていない平坦な声で言った。

 慌てて周囲を見渡した。僕以外の客は、すでに車を降りたのだろうか。誰もいなかった。

「すみません」

 僕は慌てて立ち上がると、運転手に頭を下げ、料金を支払ってバスを降りた。

 降り立った場所は、道路の外れにつくられた数十メートル四方ほどの空き地だった。まさに、田舎のバスの終着地点と聞いて、多くの人がイメージする通りの場所と言っていいだろう。

 空地の入口に、この終点の停留所名を示す「元久比沼」と書かれた看板が立っている。

 僕は、今しがた乗ってきたバスが空き地の真ん中でUターンし、山道を下って行くのを見届けると、小さく深呼吸をして気持ちをリセットする。そのまま、空き地の傍らにある林道に足を踏み入れた。

 車一台がようやく通れそうなほどの、細い林道だ。もちろん、舗装などされていない。右側には地層が露頭を晒し、左側は深く落ち込んだ崖の下に、谷川が流れている。

 僕は、頭上を覆う木でトンネルのようになった薄暗い林道を、ひたすら歩いた。

 二日前に降った雨のせいで、所々がぬかるんでいた。気を抜くと、車が残した轍に残るぬかるみに足を取られ、バランスを崩す。体が左側に倒れそうになるたびに、崖の下を流れる谷川が視界に入り、ヒヤッとした。

 足元に細心の注意を払いながら十分ほど歩くと、林道の右側、ちょうど崖が途切れた場所に、頼りなさげな鉄製の錆びた柵が見えた。柵の向こうには、大きな沼が灰色の水面を晒している。薄暗い林道の脇に広がる不気味な湖面にちらりと視線を移すと、吸い込まれそうな気がして、僕は足を速めた。

 もちろん、民家などはない。かつて、農作業や林業関係の人々が使っていたのだろうか、今は朽ち果てている小屋が、所々に見えるだけだ。

 沼から二十分、停留所からは三十分ほど歩いただろうか。

 突然、森が終わり、目の前が明るくなった。

 僕は、轍に注意を向けていた視線を前方に向けて、明るさに目が慣れるのを待った。

 目が慣れるにつれて、真っ白だった周囲の景色が少しずつ形を成しはじめる。最初に目に入ったのは、道の両側の狭い斜面に張りつくように連なっている、十軒ほどの時代がかった民家だった。

 さらに、その向こうにある山の中腹には、開けた土地が広がっていた。数百坪はあろうかという広大な平地だった。僕は、民家の間を抜け、その平地に向かって進んだ。

 平地の手前には高さ数メートルの石垣があり、中央にある石造りの階段の先には木造の立派な門が建っていた。

 門の向こうには、適度な不規則性をもって配置された照葉樹が、よく手入れされた状態で茂っている。そして、庭木の間を縫うように、飛び石が奥へと続いている。

 飛び石の先には、建坪が百坪を超える木造二階建ての壮麗な屋敷が、その威容を誇るように建っていた。

 昔話に出てくる山奥の幻の御殿を連想させるほど、このような辺鄙な場所には場違いな存在感だった。

 僕は、石垣の階段を登ると門をくぐり、玄関へと続く飛び石の上を進む。玄関に辿り着くと、格子柄の引き戸の前で立ち止まった。

 感慨深い思いで見上げる。木製の立派な表札が掲げられていた。

 右端に大きく「久比沼功」という名が彫られ、その左隣にはやや小さめの文字で「幸作」、「雅代」、「研一」、「頼子」と彫られている。

 久比沼研一。

 僕の名前だ。

 ガラガラと勢いよく玄関を開けた。やや薄暗い室内に目を凝らすと、大広間かと見まがうほどに幅広い廊下が奥まで伸びている。その広さを意識した僕は、無人の空間に向かって、ことさら大きな声で「ただいま」と挨拶した。

 古民家特有の木と土の匂いが微かに漂う廊下に、声が数回、木霊した。

 しばらく待っていると、半ば闇に埋もれている廊下の奥から、パタパタというスリッパの音とともに、一人の女性が姿を現した。

「お帰りなさい」

 歩み寄ってきた女性は、僕の顔を見ると、半ば緊張したような面持ちで微笑む。

「長旅、疲れたでしょう」

 僕の全身を観察するようにちらちらと見ながら、静かに問いかけてきた。まるで、それが義務であるかのような問いかけ方だった。

「大丈夫だよ。東京からは数時間しかかからないし」

 僕は、彼女の芝居がかった言動に気づかないふりをしながら、上がり框に腰をかけ、靴を脱ぐ。

「ゼミの授業はどう? 新しいマンションには、もう慣れた?」

 女性は様子を窺うように、再び僕の顔にちらりと視線を流す。

「うん、どっちもだいぶ慣れたよ。お母さんも、変わりないね。安心した」

 ――お母さん。

 僕はそう呼んだが、正確に言うと、彼女は僕のお母さんではない。僕はあくまで、彼女にとって初対面の「息子役」なのだから。

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