4.
「あれ、フォレイス卿、喋っちゃったんですか?」
内緒にしてって言ってたのに、とルシアーナは、からからと笑った。決してお上品ではないが、嫌味の無い明るい笑顔だ。
「父に付き合わせて悪いな」
「そんな! それより、あまりに感謝されすぎて我が家は恐縮しまくりですよ。私がエヴァンス様のファンだって知るや否や、結婚しよう! ですもん。一瞬プロポーズされたのかと」
「何やってんだあのジジィ」
「お美しいレイラ様とラブラブな事は知っていましたから、一瞬でないだろって気付きましたけど」
楽しそうに笑うルシアーナを、俺は、じ、と見詰める。
ぱちぱちと瞬きしたルシアーナは、「何か」と首を傾げた。子リスみたいな動きだった。
「最初の頃に比べれば、随分と緊張もほぐれたようだと思ってな」
「あら」
ルシアーナとこうして、庭で話すのは三回目だった。
ご令嬢らしい言葉遣いではなく、俺が名前を呼ぶだけで鼻血を出したりはしない。
俺に慣れたんだろう姿に、にんまりと笑うと、ルシアーナは眉を下げた。
「私、失礼じゃありませんか?」
「お前、誰に言ってんだよ。俺なんか、こうだぞ。もっと普通にしろよ」
「普通」
普通、普通……と呟く横顔に、髪がかかる。まろい頬を隠すのがなんだか残念で、「敬語やめろよ」と髪を耳にかけてやる。
おもしろいくらいに、顔を真っ赤にしたルシアーナは、口をパクパクさせた。
「名前も。エヴァンスだ。エヴァンス。おら、言ってみろ」
「え、え、え、え、ば、んす、ぅ」
「もっかい」
「え、えば、えばん、す、う」
なんで最後、「う」なんだろう。
「もっかい」
「まだ?!」
「言えてねーだろ」
ひいん、と泣く顔が、おや。まあ。
ちょっと可愛いのではないかと、俺は瞬いた。
「えばん、す、う」
「もっかい」
「えばんす!」
「はい、もう一回」
「エヴァンス!」
涙を貯めて、真っ赤な顔で、ちょっと突き出た、小生意気そうな唇。
ちょっとどころじゃなく可愛いのでは? と俺はその唇に自分のを重ねてみた。
柔らかくて、しっとりと、あたたかい他人の温度は、一瞬で、けれどさすがに「もう一回」とはいけなくて。
間近で見える、案外長い睫毛の下、灰色の瞳が大きく見開かれているのを、俺は満足して眺めた。
「よくできました」
「ぶべらっ!!」
盛大に吹いた鼻血を俺の顔にかけなかった事は、さすがと言うべきか否か。
「と、ところで」
しばらく何事かつぶやきながら丸くなっていたルシアーナは、のそのそと起き上がると、真っ赤な顔で池を見ながら口を開いた。
「その、フォレイス卿は、あの日、ご自分がどこにいらっしゃるのか、わかっていないご様子でしたが」
「……父はひどい方向音痴なんだ」
なるほど、とルシアーナはこくこくと頷いた。
「他言いたしません!」
やっぱり、意外と聡明だ。
「方向音痴」なんて言葉だけ聞けば、それくらい、と笑い飛ばせるような事でも、父の場合は度が過ぎていることも、それがどんな影響を及ぼすかも、わかっている。
子どもの俺が言うのもなんだが、子どもらしからぬ冷静な判断力も、父がルシアーナを気に入った要因かもしれない。
突然現れた英雄の姿に、子どものようにはしゃぐのではなく、こんな風に毅然と接していたのだろう。
「有り難いが……ルシアーナ」
だがまあ、それはそれである。
ゼイスト子爵家が、父の弱点を吹聴して回るような人柄でないことなど、我が家ではとうにわかっていたので。
そんなことより、
「無かったことにしやがったら、次からお前と会うとき麻袋顔にかぶってやるからな」
「んな殺生な!」
ルシアーナとの日々は、そうして穏やかに、或いは鮮烈に過ぎていった。何せ真っ赤な鼻血と共にである。そら鮮烈だ。
「エヴァンス、あの、ちょっとお願いがあるんだけど」
ルシアーナは、俺の名を呼び慣れ、俺に敬語を使わなくなった。
それから、
「わかった」
「え、いや内容聞いてよ。駄目だよ騙されちゃうよ」
「お前なら良い」
「う、ぐ」
最近、やけに可愛いと思う。
歯を食いしばって、顔を真っ赤にして、なんかうまそうなんだよなあ、と俺は肩に落ちる髪を一房つまんだ。するん、と小麦色の髪が指を落ちていく。
「デビュタントのエスコートだろ?」
「そうだけど~~! なんでわかるの?!」
「そういう時期なんだから、わかるだろ」
この国では毎年、年頃の令嬢を集めた社交界デビューのための夜会が、王城で開かれる。
参加するための正式な年齢は決まっていない。要は、王の権力を見せる場でもあり、王に忠誠を見せる場でもあるので、出席できる財と教養があれば、それでいいのだ。
所詮は、貴族の見栄の場である。
だが、子供たちにとっては大人の世界に一歩足を踏み入れる、重大なイベントだ。
俺の周りには期待に頬を染めるご令嬢方の視線が集まり、鬱陶しいことこの上ない。婚約してるっつーのに、ご苦労なことである。
「ち、違うお願いかもじゃん!」
「あ? それ以外だったらお前……」
「な、なによ」
「良かったなあ、エスコートの話にして」
「やだこわい! 私何されるところだったの!?」
さて。
それは俺が髪に口付けるだけで鼻を押さえる婚約者殿には、まだ早いだろうなあ。
なんて。
たった一つしか年の差がない、意外と冷静で賢い、人の目があれば淑女らしくある婚約者様を、俺は舐めていたらしい。
「お、おまたせ」
ほとんどの令嬢がそうであるように、ルシアーナと俺も会場で初めて顔を合わせた。互いに、隣には父がいる。
ついにですなあ、とか、どうです最近、とか大人らしい会話の隣で、ルシアーナは恥ずかしそうに目を伏せた。
綺麗に結い上げられた小麦色の髪には、黄色の花が飾られ、純白のドレスはふわふわと白い肌を覆う。
惜しげもなく晒された鎖骨を飾るのは、俺が、贈った、シトリンのネックレス。
「ルシアーナ」
「は、はい」
そろ、と俺を見上げる真冬の瞳には、不安と期待が揺れ、それは俺への好意に他ならない。
今、この瞬間。
少女から一歩、大人へと踏み出したルシアーナは、今、俺の言葉だけを待っている。
それは、いっそ、暴力的なまでの愉悦であった。
誰が見たって、美しく愛らしいのに。互いの母が見立てた最高の装いなのに。
ルシアーナは、ただ、俺の言葉を聞かねば、不安なのだ。
いつも、不安、なんて言葉から遠いところで、時に馬鹿々々しく、時に凛々しく、笑うルシアーナが!
ルシアーナが鼻血を出すのはこんな気分の時かもしれない。
俺は思わず笑い、すいとルシアーナの耳に顔を寄せた。
それで、つるりと美しい、真珠のピアスにキスを一つ。
「可愛い」
「びゃあ!」
色気もクソもない悲鳴を、狂わんばかりの愛らしい顔で上げたルシアーナに、俺はにんまりと笑い、次の瞬間、頭蓋に衝撃が襲った。
「エヴァンス! ルシアーナ嬢に近づきすぎ!」
「フォレイス卿げんこつはちょっと!」
なんで婚約者の父親の方が優しいんだろう。
「え、エヴァンス、頭大丈夫?」
「お前、誰に向かって言ってんだ」
「え? あ、違うそういう意味じゃなくて!」
ふ、と思わず笑うと、ルシアーナは、ぼ、と顔を赤くした。
あー、可愛いな。これ。
ぎゅ、と繋いだ手に力を入れると、ルシアーナは俺の肩に置いた手をぴくりと跳ねさせた。
「お前、飽きねぇなあ」
「え?」
腰を抱いて、くるりとターン。
わ、と小さく声を上げたルシアーナは、顔を上げにへらと笑った。くっそ、可愛いな。
「実際に会って、俺がこうだって知って、もうじき一年だろ。飽きねぇの」
「えー? なに、エヴァンスの顔に私が飽きるかもって思うの?」
「全然」
だよね、と笑うルシアーナは鼻を赤くしているし、13歳になった俺は手足も伸び、一段と美しいに決まっている。夜会用の派手な装飾が着いた騎士服に、ルシアーナが必死で鼻血をこらえていることだってお見通しだ。
「でも、嫌になるときはあるんじゃねぇの」
「えー? 顔と剣術の才能と頭脳以外、わりと最悪だから?」
「いい度胸だなテメェ」
「え、やだ! 正解?! エヴァンスかわいい!!」
ダンスが始まった直後はあんなにガチガチだったくせに。俺のリードがなきゃ、今頃どうなってたかわかんねーくせに。なんて薄情な婚約者だろうか。
ち、と舌打ちすると、ルシアーナは「かわいい! つらい!!」と俺の胸に頭をくっつけた。
可愛い仕草、ではなく鼻血をこらえる仕草である。
「まあさあ、いろんな意味で不安がないわけじゃないけどさ、でもさ、」
ふふ、とルシアーナは顔を上げ、猫のように笑った。
「私、それでもあんたが好きなのよ」
「顔が?」
「さあ、どうかしら!」
***
「あ、起きた」
ぱち、と瞬きすると、ルシアーナは目を細めた。
「……ルシアーナ」
「なに、珍しい」
ふふ、と笑う顔はすっかり大人のそれで、そうだ今俺は17で、シアンは16だった、と思い出す。
「ねー、起きたなら降りてよー。足痺れた」
「……色気ねぇなあ」
「ぐ」
何に反応したのか、シアンはポケットからハンカチを出すと、鼻を押さえた。
俺は大人しく、頭を乗せていたシアンの膝から身体を起こす。ソファの背に顔を乗せると、髪がばさりと頬に乗った。
「エヴァンス、お茶飲みなよ。寝起きの声駄目危険」
ふうん。
俺はくるりと体の向きを変え、ソファに足を乗せる。膝の上に頬をつけて見上げると、シアンは目元を赤くした。
「何思い出したわけ」
「べ、べつに??!!」
慌てふためく顔が可愛くて笑うと、シアンはぐ、と眉を寄せた。ハンカチで見えないが、多分また鼻血を出してんだろな。
「……なんか、楽しそうだね」
「あー、夢見てた」
へえ、とハンカチをしまったシアンは、うっすらと赤い鼻で首を傾げる。
「どんな夢?」
「お前と会った頃の夢。デビュタントで踊ってた」
「うわー、懐かしい!」
きゃっきゃと笑うシアンはもう、小さな女の子じゃなくて、もうじき俺の婚約者でなくなる。
本当にずっと、俺の傍に居続けた、奇特で変態な婚約者は、もうじき、いなくなるのだ。
「私さ、あの時期実はちょっと、悩んでたんだよ」
「へえ?」
初めての話に身体を起こすと、シアンはくすりと笑い、こちらに手を伸ばした。
「私ってさ、一度何かに熱中すると周りが見えなくなるじゃない?」
「俺とか」
「ふふ、そう、エヴァンスとか」
「ピアノとか、乗馬とか」
わかってるな~、と笑うシアンは、放っておくと食事も忘れて何時間もピアノを弾き続けるし、従者どころか馬の方が根負けするくらい駆け回る。そのうち疲れ果てた馬を背負って帰ってくるんじゃないか、と俺はシアンの進化を楽しみにしているのだけれど。
「そんで、人前じゃともかく、実際はこうでしょ? 猫かぶんないと、お嬢様らしくできないのよ」
シアンは、俺の髪を指で丁寧に撫でる。顔にかかる髪を耳にかけ、そのままするりと首筋を撫でる指先が気持ちよくて、俺は目を閉じた。
「しかも、エヴァンスの記事とか絵姿見るたびに鼻血出してたから、ドレスにポケットが欠かせないっていうかハンカチが欠かせないし」
ふ、と思わず笑うと、シアンが両手で頬を包んだ。
目を開けると、真冬の空が、ふるりと震える。
「さすがに鼻血はこっそり出してたけど……変わり者って、婚約者探しはうまくいってなくて、嫁ぎ先ないかもなーって、諦めてたの。だから、どうやったら一人で生きられるかなって、いつも考えてた」
結婚が全てではない。
だが、貴族令嬢に結婚以外の選択肢は、多くはない。
あの夫婦なら、どんなシアンも笑顔で受け入れるだろうけれど、それには相応の覚悟が必要だっただろう。
「だから、領地経営の勉強もしてたのか」
「やだ、知ってたの?」
あは、とシアンは笑い、俺の頬から手を離す。
髪を撫でつけて満足したんだろうが、そうはいかない。ぜひとも間近で、俺の顔を思う存分眺めてもらおうじゃないか。
「母上が、こんなに良くできた女主人はいないと褒めていた」
「や~だ~! 恥ずかしいし気が早いよぉ!」
顔を覆うシアンの手を、ぐ、と引き、腰を抱くと、簡単に俺の方に倒れてくる。
「よ」
「ぎゃあ!」
そのまま両手で腰を抱え、膝に乗せてみた。
「なにすんの!」
「お返し」
「意味が分からん!」
「うるせぇなあ」
ぎゃあぎゃあと喚くシアンも、首筋にキスすると、ぴたりと大人しくなった。
赤い顔で見下ろしてくる顔は、大変に良いものだ。
うなじを撫でると、ふるふると揺れる瞳がたまらない。
「……なんの話してたか忘れちゃったよ……」
くた、と力を抜くシアンを、これ幸いと俺は引き寄せる。
「お前が俺を好きだって話だろ?」
「ええー、エヴァンスが私を愛しているって話じゃなくて?」
まあ、そうだったかもしれない。
俺は目元に、首筋にキスしながら、シアンの名を呼んだ。
「結婚しようぜ」
「何回目のプロポーズよ」
へら、と嬉しそうに笑うシアンは、もうじき、俺の妻になる。
「シアン、キスして」
「ぎゃ!」
小さな顔に、小麦色の髪、勝気そうな丸い瞳に、生意気そうな唇。せっかく可愛いのに、台無しにしてくれやがる真っ赤な鼻血。
だけど、人間が百人いても見つけられる自信がある。誰よりも根性があって、それからいつだって俺への愛を叫ぶ変態っぷりを、俺だって愛している。
何時間見ていても、何日過ごしても飽きないような、神の最高傑作だ。
俺の婚約者は、もうじき、俺の妻になる。
ということで、出会い編でした。
もっと読んでみたい、出会いが気になる、と声を掛けてくださった皆さま有難うございました!