1.
俺の婚約者は大層な変態だ。
小さな顔に、小麦色の髪、勝気そうな丸い瞳に、生意気そうな唇。
人間が百人いれば容易くその中に溶け込めるだろう百人並みの容姿のくせに、百人を薙ぎ倒せそうな根性と、それから百人がどん引きしそうな変態っぷり。
何時間見ていても、何日過ごしても飽きないような、神の最高傑作だ。
「ちょっとエヴァンス! なにこんなとこで脱ごうとしてんの?! 脱ぐならさっさと脱いで! 一思いに! さあ」
「さあ、じゃねぇわ」
冗談でも比喩でもなく、だらだらと鼻血を垂れる顔にハンカチを投げつけると、「ぶへ」と顔面でそれを受けとった俺の婚約者、ルシアーナ・ゼイストは大人しく鼻を押さえた。
真っ黒のハンカチなので見えないが、多分あのハンカチは今、真っ赤な鼻血をたんまりと吸い込んでいることだろう。だから、黒でないと駄目なのだ。
真っ白のハンカチだなんてお上品なものでは、目立ってしょうがない。
気付けば俺のハンカチは、モンスターの討伐任務で返り血を拭くため、ではなく婚約者専用になっていた。
ついでに、ほぼ使い捨てだ。
いや、だって返されても困るだろ。
だから俺は、ハンカチを補充し続けなければならないのだ。
──ハンカチが足りない。
ある時。そう言った俺に、なんの冗談だと執事もメイドも笑ったが、冗談なわけがあるか。
今や俺のポケットに二、三枚のハンカチが入っていることは当たり前と化していた。
そのハンカチが、瞬く間に消えていくこともまた、当たり前の日常と化している。
「失敬失敬」
なにせ、うへへへ、と間の抜けた笑い声をあげるこの婚約者殿は、ことあるごとに、俺の顔を見て鼻血を出すのだ。
すごいだろう。
俺は婚約者が鼻血を出すくらい、美しいのだ。
おかげさまで、俺のハンカチは血が目立たない黒一色だし、顔を合わせればこいつが持って帰るので、俺は貴族一ハンカチを消費する男になった。
「……貴族一美しいと言っても過言ではない俺が、なぜ婚約者に刺しゅうの入ったハンカチをもらうどころか、婚約者にハンカチを投げつけなきゃならねーんだ」
「刺しゅう? なに、エヴァンスそういうの欲しい人だっけ?」
「全然」
だよねー、と笑うこの女は、婚約者のはずだ。
なのに、刺しゅうの入ったハンカチなどいらぬと言われ、なぜ憂いも陰りも無く笑えるんだろうか。
さすがは俺の婚約者である。変わり者にもほどがある。
「シアン」
「ん?」
愛称を呼ぶと、シアンはくるりと灰色の瞳で見上げてきた。
狼みたいに、きんと冷えた冬の色をしたこの瞳が、馬鹿みたいに信頼を乗せて俺を見上げる瞬間を、俺は愛している。
その雪原を踏み荒らしたいような、ずっと眺めていたいような、甘い誘惑で痺れる指を持ち上げた。
「まだ付いてる」
ハンカチを取り上げ、ぐい、と顎を拭うと、シアンはにへらと笑った。
「有難う」
可愛い。可愛いなあ、こいつ。
すごいだろう。
俺が美しすぎる、と鼻血を出すくらい、シアンは俺の顔が好きで、俺が好きなのだ。上気した頬でとろける顔は、疑いようもなく俺への好意を叫ぶのだから、可愛くないわけがない。
「シアン」
「ぶっ」
ぷち、とボタンを外す。
シアンの、ではない。俺のシャツのボタンだ。
勿論、俺はシアンの背中にいくつもあるドレスのボタンを外したって構わないけれど、ここは屋敷の庭だ。
俺が鍛錬中に人の気配があることを嫌うから、使用人はいない。
だが、シアンが俺を訪ねて来たように、決して誰も来ないわけではないのだ。いつ誰が来るかわからない場所で、シアンを辱める趣味はない。
が、まあこれくらいの悪戯は良いんじゃなかろうか。
「ええええええぶぁんす……!」
ハンカチで鼻を押さえ、くぐもった声を上げるシアンは怪しいことこのうえない。俺以外の人間の前では、取り澄ました淑女らしい顔で立っているくせに、俺がボタンを全て外すとシアンは「うっ」と呻いた。
「ほとんどボタンを外していたチラリズムも良いけど、全開なのも! また!」
「変態か」
「変態よ」
変態だった。
当たり前の共通認識を確認した俺は、汗で濡れたシャツを脱いでみる。
そもそも、シャツが肌に張り付くのが煩わしくて脱ごうとしていたのだ。そこに、たまたまシアンがやって来たわけである。
期待通り、シャツから腕を抜くと、肌をするりと風が撫でて心地良い。
髪紐を持ってくればよかった、と髪をかき上げると、シアンが「ごふっ」と呻いた。
見やると、両手でハンカチを押さえている。追加のハンカチを投げてやると、シアンは涙目で俺を見上げた。
客観的に見れば、まあ、おかしな話だな、と思う。
だって、鼻血を流してハンカチで顔の半分を覆っているふざけた婚約者なのに、そうして潤んだ眼で見上げてくるその顔が、俺は可愛くて仕方が無い。
なんとかに付ける薬は無い、ってあれは馬鹿だったか、それとも
「ご要望にお応えして脱いだわけだが……なあシアン」
「にゃ、にゃに」
恋だっただろうか。
「俺を脱がせて何をしようってんだ?」
ハンカチを押さえる手の甲。その下にある唇は鉄の味がするんだろうことは、俺だけが知っている。