古ぼけたラジオが見た夢は
「お前はいつまで怠けているつもりだ! 早く勉強をしろっ!」
暴力的に扉が開かれ、怒鳴り込む父親にビクリと肩を揺らした俺は、止まっていたシャープペンシルを機械的に動かす。手垢がつくほどに見慣れた教科書、無数の数字がノートを埋め尽くし、欄外に溢れても止まる事はない。
父親は俺へネチネチと嫌味を続けていたが、すぐに飽きたのか、乱暴に扉を閉めて出ていった。それを横目で確認し、俺は動かしていたペンを置いて、肩の力を抜く。
……俺は見慣れた自室の、見慣れた机に座りながら、果てしなくつまらない勉強を続けている。手首が腱鞘炎のように痛みながらも、それでも止める事が出来ずに延々と出題を書き写し、解を記し続けている。
その理由は至極、簡単。
俺の家庭が……お行儀良く言えば教育熱心、悪い言い方だと教育虐待を行うような家だからだ。
父親は、とある大学で教鞭を持つ偉い立場の人間で、俺に対しても同じような調子で熱弁を奮うのが趣味らしく、幼い頃から暑苦しいほどの学力向上を義務付けられてきた。努力の甲斐あってか、いつしか俺は学年一の秀才だと、先生やクラスメイトに持て囃されていたが、しかし家に帰れば一転、出来損ない扱い。
あいつは俺をとことん否定したいらしく、「学年一位がなんだ、国内一位を取れ!」「この程度の問題すら知らないくせに生意気を言うな!」という言葉を、口から唾を飛ばして力説する。ついでに「俺がお前くらいの頃はもっと頭が良かったのに!」も追加で出てくるな。自尊心だけはエベレストのように高い男だった。
そんなあいつの教育を、母はやんわりと否定するだけで、俺を助けてはくれない。いつも申し訳なさそうに、部屋へと連行される俺を眺めるだけだ。俺よりまだマシとはいえ、妹もまた怖い父から逃れるように、頭を伏せているのが常だった。真横で父親が座り、数式を解くのをしかめっ面で見ているのがどれほどのプレッシャーか、あいつはきっと理解していないだろう。
そんなくだらない家庭の、くだらない自室で勉強をしている俺は、時折怒鳴りつけてくる父親に辟易しつつも、勉強を続けている。どうしてあいつは、俺がサボっているのを知ることが出来るんだろう。まさか、監視カメラでも仕掛けられていないだろうな?
なんとはなしに顔を上げれば、俺の自室が一望できる。
ゴミ袋だらけの部屋には、ペラペラの敷き布団が乗ったパイプベッドに、鉄製の細長いゴミ箱、天井まで届く戸棚には所狭しと参考書が放り込まれ、壊れかけている天井のランプが、薄暗い明かりを投げかけていた。カーテンの外は特に癒される物もない、見慣れた夜の住宅街を眺めることが出来るだろう。
テーブルランプに照らされた勉強机の上にも、積み重なった本が山積みで、この全てを解かないと俺は部屋から出ることも出来ないのだ。長い長い夏休み、昼は塾通いで夜は自室で睨めっこ、外出どころかテレビを見る事すら禁止されている、そんな地獄にももう慣れた。
「はぁ」
溜息を吐く。サイドテーブルに手を伸ばせば、ダース単位で置かれた栄養ドリンクの山がある。空瓶が積まれた中で封を切っていない物を取り上げて、一服代わりに一気飲み。
「……頭、いってぇ」
それでも虚脱感は晴れる事がなく、脳内のモヤモヤとした暗雲と、渦巻くような頭痛だけは未だに俺を苛んでいる。
目を閉じて眠ってしまいたいと、切実にそう思った。
「……秀也、勉強は進んでいるか?」
不意打ちのようにノックも無しに、扉越しから声を掛けられて、ビクリと俺は身構えた。あいつだ。
「あ、ああ、やってるよ……」
「そうか。……父さんはな、秀也に苦労だけは、してもらいたくないんだよ。厳しいことも言うけども、全てお前の為なんだ。お前が大好きだったスポーツを辞めさせたり、携帯電話を取り上げたのだって、全部お前の将来の為なんだ」
「……」
「次のテストが全て満点だったら、家族で旅行にでも行こう。きっと花子も喜ぶぞ」
「そ、そっか……頑張るよ……」
妹を出汁にしやがって、満点が取れなかったら花子に俺を責めさせるくせに。満点すら取れない俺が悪いんだって、そう思い知らせようとするんだろう。
あいつの気配が消えたのを感じて、俺は大きく息を吐いた。気を抜くと頭が痛いのを思い出す、酷く視界がグルグルしている、気持ちが悪い。
眠りたいのに、眠れない。俺が少しでも居眠りをすれば、あいつは怒鳴りこんで殴るだろう。俺の頭の出来が悪いから、睡眠を削ってでも取り戻せ、他の学生はもっと先を行っているぞ、という感じで叫び続けるんだ。考えるだけで頭が痛い。
「…………、ラジオでもつけよう」
睡魔から逃れるために、普段は聞かないオンボロのラジカセを取り出す。四角くてアンテナの付いた、昔ながらのラジカセだ。
小学生のころ、初めて百点を取ったときに買ってもらった物だった。小さい頃は流れてくるラジオ放送に、どこかワクワクとした思いで夢中になっていた。自分だけの、まるで秘密の放送のように感じていたっけなぁ。
過去を思い出して悲しい気分に落ち込むが、流れるラジオは俺をこの部屋で唯一、癒してくれる。あまり大きな音で聞くとあいつが怒鳴り込んでくるから、小さな音で聞こう。
電源を付けて、ザリザリと周波数を、どこかの番組に合わせる。
程よく静かなクラシックが流れ出したので固定して、机の隅に置こうと……、
『…………ザ……ザザ…………あ……し、もしもし? ……聞こえてます? 秀也くん?』
「……え?」
思わず、ラジカセを取り落しそうになった。
今、俺の名を呼んだ? ラジオが?
まじまじとラジカセを見つめていれば、鳴っていた雑音だらけの音がふっと消えて、周波数が合ったようにクリアな音質で声が響いた。ねっとりとした、太く低い男の声だ。
『秀也くん、聞こえてますか?』
「…………俺、を、呼んでるのか?」
『ああ、聞こえているようですねぇ。よかったよかった』
ラジオが返事をした。馬鹿な、ラジオとは一方通行のはずだ。放送局が流す電波を受け取る受信機に過ぎない筈だぞ。
そんな常識など投げ捨てるように、ラジオの向こうの人物は、明確に俺へと話し始めたのだ。
『やぁ、秀也くん。初めまして。私は鈴野という者でして、このラジオを通して貴方に話しかけているんですよ』
「ど、どうやって……?」
『それは……まあ、手段なんてどうでもいい事ですよ』
声の主、おそらく男であろうそいつは、何かを言い淀んだ。何か、俺のラジオに細工でもしているのか?
ラジカセをひっくり返し、電池を外して確認するも、それらしい物はどこにもない。
それどころか電池を抜いたにも関わらず、鈴野という男の声は変わらず、スピーカーから流れ続けているのだ。
『どうやら貴方は、閉じ込められているようですねぇ。その狭い、ゴミだらけの部屋に』
今の状況を言い当てるような言葉に、思わず背筋がゾクリとした。
「……と、閉じ込められてるって? 何を馬鹿な事を……」
『私の情報提供者は有能でしてね。貴方のことは、割と知っています』
全て、じゃなくて、割と、なのか。
しかし情報提供者だって? 心当たりはない。
『まあともあれ、貴方は父親の影に怯えながら、そこで苦痛極まる勉学に身を投じ続けているわけですね。まったく意味を為さないのに、無駄な努力を延々と』
「……ひょっとして、俺の頭を馬鹿にしているのか?」
『いえいえ、全然? 無意味だとは思いますが、努力する姿勢は称賛に値すると思いますよぉ? はい、パチパチパチ』
実に小馬鹿にしきった言動と拍手に、俺はかなりイラっとした。
なんなんだこいつ、という思いをしつつも、ラジオへ向かって鋭い声を発する。
「アンタは何なんだ、俺に何か用なのか?」
『ええ、用ならあります。私は交渉人でしてねぇ、依頼主の望み通りの事態になるように、貴方へと声をかけました』
「交渉人? アンタ、弁護士か何かか? 誰かが俺へ、何かを交渉するように依頼しているのか? まさかとは思うけど、あの父親じゃないだろうな」
『まさか。彼は今頃、心の中の貴方をサンドバッグ代わりに、恨み辛みを吐き出している事でしょう。全て息子が悪い、あいつみたいな不出来な息子を作るんじゃなかった、とね。まったく、責任転嫁はなはだしいとは思いませんか?』
「……」
全く知らない赤の他人から、父親の言葉を代弁されるというのは、どこか変な感覚だった。あの世間体を気にする男が、こんな得体のしれない相手へ明け透けな本音を話すというのも、奇妙な話に思えたが。
そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、男は話を切り出した。
『それで秀也さん。貴方、そこから出たくはないですか? その閉じられた牢獄から』
「……は? さ、さっきから何を言ってるんだよ、扉は鍵なんて無いし、出ようと思えばいつでも」
『でも、出られませんよね? お父様が貴方を監視しているうちは。先ほどのように、また貴方の部屋へと飛び込んで来るかもしれませんからねぇ』
こいつは、やはり今の俺の状況を知っているのだ。今、こうして話しているこの瞬間にも、どこからか俺を見ているに違いない。
得体の知れない相手に、一方的に情報を掴まれているという事実に、俺は冷や汗が止まらない。
『だからね、秀也さん。私も回りくどくて面倒は嫌いなので、単刀直入に言いましょうか。――殺しませんか?』
「…………え」
『ですから、お父様を』
相手の放った無造作な言葉に、俺はポカン、と口を開けて絶句した。
なにを、言っているんだ、こいつは。
今まさに、こいつは俺へ、あの父親を殺せと宣った。
殺す、だって? 俺が? 何を馬鹿な……。
『でも、計画はされてますよねぇ? どうやって殺そうかと、いつも考えていらっしゃるのでは?』
次いだ言葉に、ゾワゾワとした悪寒を抱く。
なんだこいつ、どうして俺の頭の中まで知っているんだ。だって、誰にも話した事なんてないし、文章にした事だってない、あいつを殺す方法を調べているだなんて。
俺は悪寒を誤魔化すように、わざとらしく声を上げた。
「ば、バカバカしい! 俺があいつを殺す? そんな妄想、あり得るわけが無いだろう!」
『では、そこにある物はいったい、何なのですか?』
「え」
『貴方の足元にある物ですよ』
言われ、反射的に足元を……勉強机の下を覗き込む。
「……あれ」
そこには、見知らぬ物があった。
大きな紙袋の中には、ナイフ、ロープ、金槌、釘、バット……それらが山のように積まれている。
どだい、大工道具とは思えないそれは、俺の記憶にはない代物で。
思わず舌を縺れさせて、椅子から飛び上がっていた。
「な、なんで、こんなもの、が」
『さあ、それでお父様を殺しなさいな。ナイフでもバットでも、なんならロープでも宜しいですよ? 寝ている相手に馬乗りになって、キュっと締めればあっという間です。それが一番、血が流れない方法でもありますし』
「お、お、お前が置いたのか!? こんなものを俺の部屋に、勝手に……!」
『どうでも良いではないですか、手段など。必要なのは、それを使って憎い相手を殺せるという事実だけです。さあ、親子の縁など、サックリと断ち切ってしまいましょう』
なんだこいつは、何なんだこいつは!?
電源が入っていないラジオは、雄弁を披露しながらも、そこに佇んでいる。
得体の知れない状況、得体の知れない相手。
もはや誤魔化すことも出来ない、俺は明確に、この鈴野という男に恐怖していた。
震える俺は思わずラジオを手に取って、衝動的に床へ向けて叩きつける。
ガシャン、と音を立てて拉げたそれは、プラスチックの破片をまき散らしながら崩れ落ちた。
「こ、これなら……」
『無駄ですよ、それはただの飾り。それを壊したところで、私を壊す事など出来はしません』
「な、ぁ……!?」
『秀也さん、いい加減に正直になりなさいな。貴方は、父親を、殺したいほどに憎いはずだ。今すぐにでも手にかけて、ベッドに倒れこんで寝てしまいたいと思っている』
そいつは断言するかのように、台本でも朗読するかのように、俺にとっての事実を述べる。
他人へ知られるには、あまりにも醜くて、あまりにも血生臭い願い。
『楽になりたいのでしょう? でしたら、私の言う通りになさい。ほら、聞こえてきませんか? 貴方のお父様が、今まさに扉を叩こうとしているのが』
「…………秀也ぁぁっ!!」
ドガンッ! と、叩き割らんばかりの勢いで、扉が外から叩かれた。あいつの声だ。
心臓が休む暇もなく震え続け、俺は荒い呼吸で扉を見つめる。ガチャガチャとノブが動くも、まるで鍵でも掛かっているかのように、扉が開くことは無い。
「と、父さん……!」
「お前、俺を殺そうとしていたのか? ……今まで育ててやった恩を忘れやがって! やはりお前なんて俺の息子じゃない! この俺の息子が、お前のような出来損ないの筈がないんだよ!!」
ドンドンドン! と、外から扉が激しく叩かれる。
暴力的な音と怒声に、俺は全身が震えて止まらなくなった。くらくらと眩暈がして、頭がズキズキと痛い、今にも破裂せんばかりに脳が悲鳴を上げている。どうして俺を、ここまで苦しめるんだ。
『ほらほら、殺さないと貴方が殺されてしまいますよぉ。いいんですか? それで』
「な、なんでお前は、そこまでして俺にあいつを殺させたいんだよ!? おかしいだろ! 知らない赤の他人のくせに、なんで俺をそこまで苦しめるんだっ! 俺が憎いのかよ!?」
『いえいえ、私は貴方のことなど、これっぽっちも興味がありません。憎くも無ければ好意も無いという、それだけの存在です。しかし、これも仕事でしてね。ほら、秀也さん。周囲をよく見てごらんなさい。貴方の部屋の中を』
激しい音の中、俺は言われた通りに視界を巡らせ――、
――グルリと回るその端から、部屋の内装が一変する。
「え」
壁紙は黒く薄汚れ、フローリングは埃塗れに散らかりっぱなし、本棚の中身は全て消え、勉強机は綺麗に片付けられていた。しばらく寝ていないベッドの上にはマットすらなく、枠組みだけが虚しく鎮座していた。
チカチカと明滅する薄暗い明かりの中で、俺は一人、ぽつんと佇んでいる。
…………、あれ? 俺の部屋……ここは、俺の部屋、だよな?
「……秀也、秀也、居るんだろう?」
呆然としている合間にも、あいつの声が、扉の隙間から漏れてくる。
くぐもった、感情を押し殺した、静かな声色だ。
「俺はな、秀也。お前のことを愛しているんだよ。だからお前に厳しく当たるんだ。お前は将来、俺のように教師になりなさい。そして多くの子供たちを導いて、正しい人生を歩ませるんだよ」
理解できない現状にふらつきながらも、俺はその言葉に反感を抱く。
何を言っているんだろう。愛しているのなら、どうして俺を雁字搦めに縛るんだ。
だというのに、穏やかなあいつの声は、扉の隙間から染み込んでくるように、ヒタヒタと俺の部屋を歩き回っている。
「いいか、勉強は人生の強みになる。学校では、学ぶ姿勢を学びなさい。学び方を知ったのなら、次は人から教えを乞う方法を覚えなさい。そして得た知識を、次の世代へ繋げなさい。人はそうして、知識を継承していくものなのだよ」
「……なに、を」
「俺はな、お前なら立派な教師になれると信じているんだぞ。そのためにも、まず必要なのは、勉学だ。知識をたくさん吸収して、お前自身の強みに変えるんだ。辛いことの多いこの世界で、学ぶ強さを得るんだぞ。それが、お前の為なんだ。お前が幸せになる為なんだから」
「だから、何を言ってるんだよっ!?」
頭が搔き毟るほどに痛みを訴えている。酷い痛みだ。平衡感覚はとうの昔に無くなって、俺は埃まみれの床に膝をついている。
ああ、痛い痛い、痛くてたまらない……!
「俺の、幸せ? 幸せってのは主観的な物の筈だ、俺だけの物を、どうしてアンタが決めるんだよ!? 俺はな、勉強なんて大っ嫌いだし、それを強制するアンタも死ぬほど大嫌いなんだよ!! 俺のため俺のためって言いながら、結局は全部アンタの為じゃないか!? アンタの自尊心を満たす為の自己満足に付き合わされている、俺の人生はいったい何だったんだよ!?」
「俺の言う通りにすれば、お前は必ず幸せになれる。だってお前は、俺の息子なんだからな」
「息子という言葉を人質にするな! 俺はアンタの人形じゃないんだよっ!! 俺は、俺は……」
俺はいったい、何なのだろう。この男の良いように人生をコントロールされて、死ぬような苦しみの中で生殺しのように生き続け、爆発しそうな衝動に心を疲弊させ、
ああもう、たくさんだ!
――茹る思考のままに気づけは、いつの間にか、ロープと金槌を手に持っていた。
殺してやる、殺してやる、殺してやる。
あいつだけは許さない、俺をメチャクチャにしたあいつだけは、必ず殺してやる。絶対に殺してやる。
決して許してなどやるものか……!!
弾ける様に扉のノブに取りついて、俺は凶器を手に、その扉を――――
……ザザ、ザー……
――――ラジオが、音を流している。
部屋の真ん中に置かれた、壊れたラジオ。古ぼけたそれは今、ノイズ交じりの放送を流している。
その音は、郷愁のように俺の胸中を駆け巡り、無残に沸騰した頭を押さえつけた。
雑音だらけの音楽は、俺の殺意を否が応でも、萎めていく。
「……どうして」
これだけの憎悪に支配されても尚、俺を引き留める物がある。
手は固まったように動くこともなく、ただ、痛みに引き攣れる自分の脳裏に、顔が浮かんだ。
懐かしい、親愛なる、在りし日の父の顔。
俺はそれに、どうしようもない絶望だけを抱いた。
「どうして……!」
どうして、憎ませてくれないんだ。
どうして、望む愛をくれなかったんだ。
どうして、どうして、どうして……。
ただ、会話をしてくれるだけでよかったんだ。俺の話を聞いて、ちゃんと向き合って、物じゃなくて、人として見てほしかっただけなんだ。
それは、そんなに贅沢な望みだろうか?
……失意に濡れる俺は、気づけば、壁の前に佇んでいた。
本棚とカーテンの合間、高い柱のあるスペース。
見れば、天井付近に長い釘が打ち込まれ、そこからロープが垂れ下がっている。
輪を作った、そのロープの後ろの壁には、人型の黒いシミがどんよりと浮かんでいた。
「…………嗚呼」
首を括るようなシミには、顔があった。
それは、まごう事なき、俺の顔。
舌を突き出し、絶望に疲弊しきった、俺自身の死に顔だった。
『……ようやく、気づかれましたかねぇ』
ラジオの声が、空虚に響く。
鈴野は、ハッキリとした声色で、俺へと向けて宣告した。
『貴方、もう、とっくの昔に死んでるんですよ』
※※※
「貴方、もう、とっくの昔に死んでるんですよ」
そう告げた小太りの男の前には、壊れたラジカセが置かれている。歪み、錆つき、動くはずもないそのスピーカーから、倒れるような物音が聞こえている。
帽子とコートを纏う小太りの男は一人、部屋の中をぐるりと見回した。
「いやはや、家具がそのままで助かりましたねぇ。流石にゴミは片付けられていましたが、花子さんの証言で知ることが出来ました。……ここは、秀也さん、貴方の部屋だ」
そこは、彼の部屋と同じ間取り、同じ家具で構成されている。違うのは、家具が全て埃だらけで薄汚れ、天井付近の壁には釘がうち込まれている点だろう。釘の下は、黒いシミのような影だけが、ひっそりとそこにある。
「二年前、貴方はこの部屋で自殺した。虐待に耐え切れず、助けを求めることもなく、この部屋で無残に孤独に縊死したのです。事態が明るみになってから、貴方のお父様は世間から大いに叩かれ、職を辞する羽目になったそうですよぉ? その後は奥さんから離婚を突きつけられ、今も一人寂しく生きています。……貴方のお母様と妹さんは、それから平和に暮らしていました。まあ、こうして貴方の形見のラジカセから、貴方の声が聞こえてくるまではね」
壊れたラジオは、重い物を叩きつけられたように拉げている。誰かが殴りつけたのだろうか。
「おそらく、霊となった貴方がラジオへと憑りついて、外へと声を届けていたんでしょうねぇ。眠りたい、休みたい、勉強なんてもう嫌だ、とね。ラジオから半径十メートルの全ての機器のスピーカーから、同じ声が聞こえたそうです。夜な夜な聞こえるその声を聞いたお母様は、たいそう心を不安定にされましてねぇ。今じゃ病院通いだそうですよ」
いやはや、と男は両手を広げて苦笑する。
あの父親も含めて、自身の行いのツケとはいえ、その代償を最大限に与えているのだ。死ぬという選択は確かに、彼の願った復讐にはなった。
問題は、それを終えた、彼の方であるが。
「故に、うちの『霊能交渉事務所』へと、貴方が持ち込まれてきたんですよ。楽にしてやってほしい、とね。ま、楽にしたいのなら半年も放置せずに、もっと早くに行動するべきだったんでしょうが。何事も早すぎて悪いことなど、ありませんからねぇ」
男……鈴野は空き家の只中で、独演会のように一人、ラジオへ向けて話し続ける。
「しかし、除霊しようとしても、貴方は自分が死んだことを理解していなかった。ただ延々と、悪魔のような父親の影に脅かされ続け、勉学という終わりのない責め苦の夢の中で、苦しみ続けているだけだった。……除霊で何よりも大切なのは、その存在の苦しみや未練を取り除く事と、死を自覚させる事。故に、こうしてラジオを通じて貴方へと声を届け、貴方が死んだことを教えさせていただきました。これでようやく、貴方は正式に死ぬことができる」
『………………、俺、は』
ひび割れた声が響く。
機械的に、歪んだ、ノイズだらけのその声は、何の感情も乗せない声色で、言った。
『自由になりたかった。自由にテレビを見て、自由にスポーツをやって、自由に友達と遊んで……普通の、家族として、過ごしたかった……』
「……」
『でも、ダメだった。俺の家庭はどう足掻いても、普通じゃなかった……あいつを殺したいほどに憎むと、思い出すんだ』
訥々と、声は想いに塗れて、濡れている。
『幼い頃、まだまともだった頃、家族で行った水族館、あいつは父親の顔で、小さな俺に魚の種類を教えてくれた……スズメダイ、アンコウ、アロワナ……その時の顔が、どうしても、離れなかった』
「……だから、殺害計画を練っても、実行しなかったんですねぇ」
殺したいほどに憎んでいたのは、ここに残された遺品から察していた。ナイフやロープ、釘やバット、どこからか搔き集めてきた道具類は、今ここに埃を被って、うらぶれていた。
存在しないのは、短いロープと、釘一本。
使われたのは、他殺ではなく自殺だった。
鈴野は皮肉げに口端を歪めて、肩を竦める。
「この世で最高の呪いは、愛だそうですよ。貴方は遠い日の父の愛に縛られて、理性と殺意の天秤が崩れた瞬間、自らの首を締める羽目になった。まったく、人とは実に業の深い生き物ではありませんか」
『殺してやりたかった、でも、殺さなくてよかった……あいつが苦しんでいるのなら……今も俺への憎しみに囚われ続けているのなら、もう、それでいい……どうでもいい』
「未練は、断てましたか?」
『…………花子は、花だけは、どうか幸せになってほしい……俺の代わりに、俺よりもずっと長く、生きていてほしい…………俺には、出来なかったことだから』
「わかりました、妹さんへは必ずお伝えしますよ。これも、仕事ですからねぇ」
ふつりと途絶えた声を確認し、鈴野はよっこらせっと屈んでから、無造作に取り出しボタンを押す。
歪んで軋みながらもパカリと開いたカセットデッキには、録音中だったテープがあった。
「愛想を尽かせば楽だというのに、誰も彼も、与えられた僅かな愛だけを縁に、未練がましくしがみ付く。最悪の結末へと、自らを転がり落としていく。徹底的に否定された人間は、そもそも抗う意思すら持たされない物です。だからこそ選択は二つではないのだと、世界の広さを教える大人が、貴方には必要だった。そうすればきっと貴方にも、人並みの幸せが手に入る筈だったのにねぇ」
汚れたテープを取り出して、鈴野はヒラヒラとそれを振る。
恨み事の遺書が録音されていたテープには今、彼の未練だけが残っている。
「過去の在りし日を想う、古ぼけたラジオが見た夢の中。今までそこに囚われ続けていましたが、もはや、貴方を縛るものは何もない」
鈴野は錆付いた、鉄製の細長いゴミ箱を引き寄せて、燃料の入っているそこにテープを放り込んだ。
そしておもむろにマッチを取り出して、点けた種火を投げ入れる。
……じわじわと、何かが燃える臭いが充満していく。
明るい窓を開け放ち、パタパタと手で仰いでやや咽せる。
閉じられた部屋から天へと昇っていく煙に目を細め、鈴野は帽子を取って、呟いた。
「お休みなさいませ、秀也さん――」
――――どうか、よい夢を