第3話「こうばしい場所」
僕の学校の図書室は良質だ。
ほかの学校を知らないから比較はできないけど、それでもここの図書室のクオリティはそう簡単に破られるものではない気がする。
理科室や音楽室よりも広さがあり、夏は数台の扇風機、冬はストーブが稼働して、そのときどきの厳しい気候をやわらげてくれる。特にうちの学校はエアコンがないので、複数の扇風機が尽力している図書室は、本を読むつもりなどない生徒たちもたまに涼をとるためにやってくる。
広々した室内の、入って右手にカウンターがあり、橘さん――学校司書の女性――が座っている。中央には十人がけの長テーブルが、横に三台セットされている。それにあわせて、椅子は三十脚。
左側一帯が書架で、等間隔で連なっている。小学校の図書室なので、置いてあるのは児童書が大半だ。
図書室に入り、借りていた本二冊と、長方形の貸出カードをカウンターに出す。橘さんが自身のリストにチェックをしたあと、貸出カードの“返却欄”のところにスタンプをふたつ押した。
僕が借りていたのは『こうばしい日々』(江國香織)と、『漢検二級 でる順問題集』の二冊。一般向けの小説や参考書なども少しは置いてあって、ここにある小説は半分ほど読んだけど、『こうばしい日々』は特に良かったな。収録されている中編二作はどっちもすごく読みやすかったし、ふたつとも僕と同じ小学生が主役の話だから親近感がわいた。
漢検の問題集は、はっきりいって趣味の範疇だ。もともと漢字の書き取りや慣用句を覚えたりするのが好きで、小学校低学年のころから遊び感覚で取り組んでいた。
漢検は五級が小学校卒業程度の難易度らしいけど、僕はすでに去年の夏に準二級――高校在学程度のレベル――に合格している。二級は“高校卒業・大学・一般程度”のレベルなのでさすがに骨が折れそうで、まだ挑戦していない。今は受験勉強に照準を合わせないといけないから漢検の勉強はあまりしていないけど、息ぬきに図書室で借りた問題集をやっていた。中学受験にも、少しは役に立つかもしれないからね。
都筑たちのいる体育館に行く前に、僕は書架のエリアをぶらつく。試合は四時からと聞いたけど、まだ三時半を過ぎたところで余裕がある。都筑はやっぱりせっかちだ。
子ども向けの絵本や小説、あるいはマンガに近い学習参考書――ドラえもんが理科の実験をしたり、地理や歴史の説明をしているようなやつだ。ああいうのは子どもだましなようで案外使える――などが汗牛充棟びっしりと詰まった書架は、眺めているだけで不思議と落ち着いてくる。
いや、眺めているというより、こうして本棚と本棚の間に立っていると、なんだか自分もこの本たちの一部として溶けこんでいるような気がして、だんだん心地よくなってくるのだ。特に、今日のように僕以外の生徒がだれもいない図書室は静寂に包まれていて、その静けさはちょっとカッコつけた言いかたをすれば、幽寂なんて言葉がしっくりくる。
市の図書館にも小学生が立ち寄りやすい児童書コーナーはある。でも、種類が少ないし、本は破けていたり染みがついていたりすることが多くて、とても借りようという気にならない。
それに比べてここの本は、児童書もそうでない本も全体的に清潔だ。古くなった本はバザーに出したり寄付したりして新しいものを適宜仕入れているから、汚れが目立ったりほこりかぶっているような本は少ない。
「本は丁寧に扱いましょう」と書かれた張り紙を室内にいくつか貼っているけど、橘さんは生徒たちに言うだけじゃなくてちゃんと環境を整えてくれる。室内そのものもいつも綺麗で、まめに掃除してくれているのだろう。
「なにか、お目当ての本はあったかしら?」
一番奥の、一般向けの小説が並ぶコーナーを眺めていると、横から橘さんの声がした。さっき僕が返した『こうばしい日々』を手にしている。本棚に戻しにきたのだろう。
「この前借りた小説面白かったから、同じ作者の別の話ないかなと思って」
特に探していたわけではなかったが、思わず口から出たその言葉は確かにうそではなかった。
「江國香織ね。ええっと……。あぁ、これなんか良いんじゃないかな」
本棚の上段に三作品あった中から、橘さんは『つめたいよるに』という短編集をセレクトした。
「『こうばしい日々』が好きなら、きっとこっちも好みだと思うよ。爽やかな文体だからね。五、六ページぐらいの短いお話が多いから、気分転換にちょうどいいわね」
僕に本を手渡し、橘さんはウインクする。
橘さんは、長く勤めているから四十は過ぎているのだろう。図書室と同様にスキンケアにも気を配っているらしく、だからしわが少なくて若く見える。こんなふうにほほえむ橘さんは可愛らしくて、僕はほんの一瞬だけドキっとしてしまう。別に年増好みとかではないけどね。
「じゃあ、これ借りていきます」
貸出の手続きをするために、橘さんと並んでカウンターに戻っていった。