痛みを知る者
空を真っ直ぐ飛んで社の前まで戻ると、ずっと外で待っていたらしい桜司がふたりの元へ駆け寄ってきた。地面に降ろされるや腕を引いて抱きしめ、千鶴を確保したままで柳雨へと視線をやる。
「首尾は」
「完了したぜ。少なくとも、犬神屋敷に近付かねえ限りは問題ない」
「然様か。ならば役目は終わったな」
千鶴の肩を抱いたまま踵を返し、社の奥へと向かう。その後ろを、当然のような顔で柳雨も着いてきて、共に奥屋敷へと帰還した。
「お嫁さま、鴉さま、お帰りなさいませ!」
「ただいま」
「おう、相変わらず元気だな」
柳雨が両手でわしゃわしゃと小狐の頭をそれぞれ撫でると、小狐たちは桜の花びらを舞わせて尻尾を振りながら喜んだ。
「オレ様は昨日の続きーっと」
柳雨はそれだけ言うと、いそいそと居間へ入っていった。自宅同然に寛いでいるその手慣れた様子に呆れながらも、桜司は黙って見送った。
「お嫁さま、お風呂の支度が調っておりますが、いかがなさいますか?」
「それじゃあ、もらおうかな。いつもありがとう」
「もったいないお言葉にございます」
ふさふさの尻尾を思い切り振って全身で喜ぶと、小狐たちは「では、お夕食の支度に戻ります」と言って揃って台所へ戻っていった。千鶴は桜司の手に自分の手を添えて、背後を見上げた。
「桜司先輩はどうしますか?」
「うん?」
言葉の意図が汲みきれずに問い返した桜司に、千鶴は微かに頬を染めながら、小声で続ける。
「外で待ってたのなら、先輩も早めに浴びたいのではと思ったんですけど……わたしが先でいいんでしょうか?」
「ああ、なんだ、そのことか。なに、気にするな」
そう答えてから、ふむと呟いて千鶴の耳元に唇を寄せた。
「何なら、共に入るか?」
「っ!?」
一気に火がついたように紅く染まった頬を見て満足げに笑うと、桜司は未だに初心な反応を見せる千鶴を愛おしげに撫でた。いつもの戯れだとわかっていても、同性とさえまともに付き合ったことがなかった千鶴にとっては、異性の、しかも恋しい相手からのこの手の言葉は、冗談として流すには刺激が強すぎた。
「まあ、いずれ、な」
「もう……」
桜司の腕から解放されると千鶴は自分の着替えを集めて胸に抱え、部屋の扉まで赤い顔のまま歩いていく。そして引き戸を開いたところで振り返り、
「次は、本気にしますからね」
そう言うだけ言って、逃げるように浴室へと駆けていった。
残された桜司は、ぽかんとした顔で去って行く背を見送ってから、じわじわと言葉の意味を理解し、口元を手で押さえて悶える羽目になった。
顔の熱が収まってから居間に入ると、桐斗と柳雨が対戦ゲームで遊んでいた。ソファ前に置かれたローテーブルの上には、彼らが人助けで得た対価で買った菓子が文字通り山と積まれており、そのうちのいくつかは既に空袋となっている。
「お主ら、夕餉前には片付けておけよ」
「おー」
聞いているのかいないのかわからない返答をしつつ、手元は器用にコマンドを入れてキャラクターを操っている。いつもの場所に腰を下ろして眺めていると、向かいで本を読んでいた伊月が顔を上げた。
「千鶴は」
「風呂だ」
「そうか」
短い会話をしたのち、伊月は再び本へと視線を落とす。
ぼんやり寛いでいるあいだに、いつの間にか音楽ゲームへと移行しており、画面上に描かれた五線譜のようなものの上を、無数の光が滑り降りているのが見える。ふたりが操作しているコントローラーも専用のものらしく、ボタンを押す度手元が光っている。
目にも耳にも賑やかな空間で、伊月は静かに本を読み進めていく。
やがて桜司が手持ち無沙汰を感じ始めた頃、背後から待ちわびた足音が聞こえた。
「ただいま戻りました。先輩、お先にお湯頂いて、ありがとうございます」
「うむ、ゆっくりしてきたなら良い」
手招きに従い、千鶴は桜司の隣に腰を下ろす。湯上がりの体温が伝わってきて、髪を撫でれば洗い立てのふわりとした手触りが心地良い。
「やったー! やっと勝ったー!」
「あーくっそ! 子猫ちゃん上手くなったなぁ」
「えへへー」
どうやら白熱していた勝負がついたらしい。両手を挙げて喜ぶ桐斗に、柳雨もどこか嬉しそうな色を滲ませながら悔しがるという器用な反応をして見せた。
暫くはしゃいでから、桐斗はふと千鶴のほうを見て目を丸くした。
「千鶴、なんか変わった匂いするねー」
「そうですか? 石鹸は変えてないんですけど……」
「んーん、そーじゃなくって……」
ぺたぺたと近付き、正面から抱きしめると「やっぱり」と言って顔を上げる。
「秋の匂いだ。柳雨が言ってた心当たりの子って、どんな子?」
「え、っと……英玲奈ちゃんって言って、真莉愛ちゃんの妹さんです」
「あー、体育祭のときに来てた、あの可愛い子かぁ」
成る程と納得してから、桐斗は「あれ?」と言って首を傾げた。
「でもあの子、前に会ったときは人間の匂いだったと思ったけど……」
「それは……」
「アイツも色々複雑なのさ」
桐斗の疑問に、千鶴の代わりに柳雨が答えた。桐斗は千鶴に抱きついた格好のままで振り返り、柳雨を暫し見つめてから「ふぅん」とだけ呟いた。
「それにしても、柳雨が小学生の幼女とお知り合いだったのは意外だったなー」
「言い方!」
桐斗に吼えてから、柳雨はソファから立ち上がると千鶴に抱きついている桐斗の背にのし掛かった。潰れた声が桐斗から漏れ、隣からは呆れた視線が降り注ぐ。
「千鶴が潰れるー!」
「潰さないようにがんばれ」
「にゃー!!」
二人分の体重を支えている桐斗の腕がぷるぷるし始めた辺りで体を起こし、清々した顔で柳雨が笑う。
穏やかな日常の中にあって、千鶴はふと屋上での出来事を思い出した。
「そういえば、わたし、英玲奈ちゃんの言葉に圧倒されてろくにお礼も言ってなかったことにいま気付きました……」
千鶴の魂に触れて、改めて狙われる理由を理解したと英玲奈は言っていた。忠告にも手伝いにも、英玲奈の力と言葉に驚き頷くので精一杯だったせいで、お礼らしいことはなにもしてこなかった上に、ひとりで帰らせてしまったのだった。
「気にするタマじゃねぇとは思うけど、おチビちゃんが気になるならまた会いに行ってやればいいんじゃねえの」
「そうですね。明日、改めてお礼に行こうと思います」
夕食の支度が調ったとの知らせが入り、桐斗と柳雨は散らかした菓子の痕跡を慌てて纏め、桜司たちのあとに続いた。家族のように過ごす時間が当たり前になって久しく、特に伊月は、寝るときを除けば、千鶴が神蛇の祠を掃除しに戻るときにしか自分の社に戻らないという。
終始賑やかに時間が過ぎ、桐斗と柳雨は離れへ、伊月は自分の社へとそれぞれ帰っていった。数刻前までふたりがゲームをしていた居間で、静かにお茶を一服する。千鶴の右隣に桜司が、左隣には小狐の薊が座っていて、膝の上に葵がいる。
「お嫁さまは、小動物がお好きなのですね」
「うん。ふわふわで可愛くて、好きだよ。……だから、犬神屋敷のことを聞いたときはちょっと堪えたな……」
「お嫁さま……なんとお優しい」
千鶴が撫でる度、辺りに桜の花びらが散る。最初こそ窘めていた桜司だったが、最早すっかり諦め顔で小さいものたちの戯れを眺めている。
千鶴の表情がどこか寂しげで、その原因が犬神絡みであることを祭以前から気付いている桜司は、どうにか気を晴らしてやれないものかと考えた。
「なあ、千鶴。犬っころは犬神という概念そのものが形となった奴だが、子犬のほうが此度の蠱毒に使われた犬神であるぞ」
「え……そうなんですか……?」
「うむ」
暗くなにもない離れに閉じ込められ、兄弟や仲間を食い殺さなければならないという地獄の果てに殺された、哀しい呪詛の素。なぜこんな目に遭わなければならないのか、なにも理解出来ないまま道具として使い潰された魂が、いまも存在している。
「猫の奴同様、人に傷つけられた魂は人にしか癒やせぬものだ。……会いに行くか」
葵を抱きしめながら静かに涙を流す千鶴の頭を撫で、桜司は優しく語りかける。一つ頷いたのを見て、桜司は「明日にでも」とだけ答えた。
「お嫁さま、泣かないでください」
桜の花が刺繍された、白いガーゼのハンカチを取り出して薊が言う。抱き枕となっている葵は、耳をしんなりと垂れた状態で、身動きが取れないなりに心配している。薊が黒い肉球のついた小さい手で千鶴の器用に涙を拭うと、突然、ぼふっと音を立てて薊の尻尾が二つに裂けた。
「はわ!?」
それに驚いたのは薊で、自分の尻尾を確かめようとその場でぐるぐる回り始めた。
一拍の間ののち、葵の尻尾も二つに増え、千鶴の腕の中で動揺しているのが伝わってきた。千鶴も同じく突然のことに驚き、衝撃ですっかり涙が引っ込んでいた。
「あの……これは、いったい……」
「……まあ、十中八九、お主の涙に触れたせいであろうな」
「えっ……あっ!」
先刻英玲奈に言われたことを思い出し、千鶴は気まずそうな顔で桜司を見た。桜司は千鶴を撫でてから、一先ず混乱して回転している薊を抱え上げた。
「落ち着け」
「あっ、あの、ぬしさま、我らはどうすれば……」
「そうさなあ……お主らの修行は、尾が裂けるまでとの話であったが……」
桜司がそう言うと、小狐たちはおろおろと桜司と千鶴を見た。増えた尻尾は両方ともしょんぼりと垂れていて、耳も垂れ耳の犬のようになってしまっている。
「不測の事態であることだし、仕方ない、三尾までここに居るか」
「は……はいっ!」
「精一杯お世話いたしますっ!」
風切り音が鳴りそうなほど元気に尻尾を振りながら頷くと、薊は幼子のように両脇を桜司に抱えられた格好で、千鶴を見つめた。
「お嫁さま、いま暫くお世話になります」
「我ら、ぬしさまのような立派な狐になれるよう、がんばります」
「うん、よろしく。あと、わたしのせいで、ごめんね。英玲奈ちゃんに気をつけてって言われたばかりだったのに……」
葵も薊もふるふると首を振り、桜の花びらを舞い散らせて笑った。
「お嫁さまは我ら獣にも心を寄せてくださる、お優しいお方でいらっしゃいます」
「そのお心を、どうして我らが責められましょう」
葵の小さな手が、千鶴の頬に触れる。それを薊がじっと見つめているのに気付いて、桜司は抱え上げていた手を下ろして解放した。数分ぶりに床と接した薊は、千鶴の隣によじ登ると、葵と同様に千鶴に寄り添って尻尾を振った。
小狐と言うよりは子犬のような有様に嘆息しつつも、桜司は微笑ましく見守った。