黯翼の紅き風
門前に降り立つと、柳雨は迷いなく呼び鈴を押した。
応対に出たのは若い男性で、機械越しの声で曖昧ではあるが千鶴には聞き覚えのない人物に思えた。親戚の人でも来ているのだろうかという疑問は、続く男性の声で綺麗に晴れたと同時に、屋敷の広さと家柄を思い知るのだった。
『英玲奈お嬢様ですね。暫くお待ちくださいませ』
そう告げると、インターフォンの奥で通話が切れる音がした。
「お嬢様……そういえば、真莉愛ちゃんも英玲奈ちゃんもお嬢様なんだっけ」
「ははは。友達の家柄とか、あんま普段意識しねぇよな」
「そうなんですよね。よく考えれば真莉愛ちゃんは普段から可愛いしお上品だし見てて癒されるし可愛いから、家柄も育ちもいいってわかりそうなんですけど……」
「二回言ったな」
親友のプレゼンをする千鶴のしあわせそうな様子を柳雨が微笑ましく眺めていると、奥から英玲奈が駆け寄ってきて門を隔てたところで止まった。縁にフリルがついた白いスクエアカラーとパフスリーブが可愛い黒の膝丈ワンピースを着ており、艶のある黒いエナメル靴には小さな花がついている。淡く甘い色を好む真莉愛と対照的で、英玲奈はモノクロの服装が多い。
鉄格子を挟んだ先で二人を交互に見ると、英玲奈は柳雨を見上げて口を開いた。
「何の用ですか、こんな時間に」
「いやあ、ちょーっと紅葉に頼みたいことがあってな」
性懲りもなく旧い名で呼んだ柳雨を不機嫌そうな目で見つめるが、一応話を聞く気はあるらしく、黙って先を促す。
「うちの部に依頼が来たんだけど、その依頼が縁切りでな」
「ああ……成る程。その人、墓荒らしでもしたんですか」
溜息交じりに英玲奈が言うと、柳雨は「依頼人じゃねぇけどな」と、同じく嘆息して答えた。それから英玲奈は千鶴のほうを向き、じっと大きな黒い瞳で見つめる。
「どうしたの?」
「千鶴姉さんは、どうして柳雨と一緒に?」
「えっと、たぶん、黒烏先輩一人だと断られるかもって思ったんじゃないかな……」
「……拉致されてきたんですね」
同情を映した目で言われ、千鶴は苦笑しながらも否定はしなかった。
英玲奈は少し考えてから「ちょっと待っててください」と言い、屋敷へと駆け戻っていった。走り去る後ろ姿は小学生の少女そのもので、日暮れ間際に呼び出してしまった事実を実感すると、何だかとても悪いことをしている気分になってくる。
「黒烏先輩は、英玲奈ちゃんと旧い知り合いなんですよね」
「まあな。オレ様もアイツと同じ、京の出身だし。でもまあ、アイツもこっちに来てたことは知らなかったし、人間の体を借りてることも知らなかったけどな」
「そうだったんですね」
以前、真莉愛が攫われた事件で、英玲奈に少しだけ身の上話を聞いたことがあった。死にかけていたところ、母親の胎内で死亡していた空の肉体に宿ることで命を繋いだという内容だった。けれど、根掘り葉掘り聞ける話でもなく、また長話に興じていられる場面でもなかったため、なぜ死にかける羽目になったのかまでは聞けなかった。
「英玲奈ちゃんも黒烏先輩も、謎が多いですよね」
「ははっ。謎めいてたほうが格好いいだろ?」
見上げた紅い瞳は、相変わらず読めない色をしている。嘗て神域を訊ねたことがある桜司と伊月も全てを知っているわけではないけれど、柳雨はそれ以上に謎が多い。彼がなぜ鬼灯町に来たのかさえ、千鶴は知らないのだ。それでも。
「そうですね。それに、全てを知らないと一緒にいられないのなら、わたしは部室にも学校にもいられなくなってしまいます」
「……聞き分けがいいなぁ、おチビちゃんは」
そう柳雨が零したとき、英玲奈が戻ってきた。
「お待たせしました。夕食の時間までには戻るよう言われたので、早速依頼人の元まで案内してください」
「あいよ。上からでいいか?」
「……まあ、いいでしょう」
頷くや否や、またしても柳雨に抱え上げられ、千鶴は驚きつつも首にしがみついた。隣を見れば、英玲奈も柳雨と同じ黒い翼を生やして飛んでいる。
「千鶴姉さん、怖くないですか?」
「うん、最初は凄く怖かったけど、毎回急だから慣れちゃった」
「そうですか……千鶴姉さんも苦労しているんですね」
呆れながらじっとりと睨まれるが、柳雨は誤魔化し笑いを浮かべて受け流した。この反応も織り込み済みなのかそれ以上なにか言うことはなく、目的の建物が見えてくると揃って屋上に降り立った。
「ここの301号室だな」
「ええ、糸が執拗く絡みついているのでよくわかります。それにしてもこの方角に獣の臭い……まさか、依頼人を呼び込もうとしているのは犬神屋敷の者ではないですか」
「よくわかったな。依頼人のダチが肝試しに行って、同行しなかった依頼人を引きずり込もうとしてるってわけよ」
柳雨の説明を受けて、英玲奈は抉るような溜息を吐いた。やはりあの場所がどういうところか知っている者からすれば、ただの探検では済まないのだとわかるようだ。
英玲奈は大きな紅葉を手の中に現すと、大きく振りかぶった。
「わ……!」
周囲に暴風が起き、千鶴は思わず顔を覆って目を閉じた。風が収まったのを確かめて怖々目を開くと、旧犬神村の方角から集合住宅のとある一室に向けて無数の赤黒い糸が伸びてきているのが見えた。
「これは……?」
「縁の糸です。目的のものだけ視覚化しましたが、人や物は、こういった糸に繋がれて現世に留まっているんです」
「現世に? じゃあ、もし全部の糸が切れたら……」
「何らかの要因で死ぬでしょうね。鬱状態がわかりやすいでしょうか。あの状態の人は自らあらゆる縁を切り捨て、そして最後に現世との縁も断ってしまうんです」
英玲奈曰く、縁の糸は見えないだけでそこら中を走っている。人や物、場所に繋いで命を現世に繋ぎ止めている。死者はそれらを繋ぎ止める力が弱く、生前に執着していた唯一のものに絡みつくことしか出来ない。
今回の依頼人が呼ばれているのは、彼らの最期の執着と犬神屋敷の性質が最悪の形で結びついてしまった結果だという。
「抑々、あの屋敷は通常の作成方法ではなく、蠱毒方式で犬神を作成していたんです」
「こどく、って、あの、虫とかでやる……?」
「ええ」
煩わしそうな目で辺りの糸を見回しながら、英玲奈が頷く。
「離れに犬を複数匹閉じ込め、最後の一匹になるまで放置して、生き残った一匹の首を用いて呪術を行使したようです」
「ひどい……」
自分が体験したことであるかのように沈痛な面持ちで呟いた千鶴を見上げ、英玲奈は小さな手で千鶴の手を握った。
「暫く、こうしていてください。わたしの社はもう存在しないので、どこまで出来るか自信がないんです」
「えっ……」
どういう意味か訊ねようとしたとき、辺りをまた暴風が吹き荒れた。けれどその糸は集合住宅を取り囲む竜巻のような形で吹いており、体を巻き上げる力は感じない。
なにが起きているのか確かめようと、千鶴は怖々目を開けた。
「っ……!」
犬神屋敷の方向から伸びて寄り集まり、301号室へと絡みついていた赤黒い糸が、ぶちぶちと音を立てて千切れ飛んでいた。糸が千切れる度、辺りに血の雨が降り注ぎ、しかしそれも風が巻き上げていく。
千々に飛んだ糸が黄昏色の空に溶け消えた頃、風も止んで辺りに静けさが戻った。
「お見事。腕は落ちてなさそうだな」
「……いえ、わたしひとりでは、やはり難しかったです」
千鶴と繋いだままだった手を、きゅっと握り締めて見上げると、英玲奈はぎこちなく笑みを浮かべて見せた。
「千鶴姉さんのお陰です」
「え、わたし?」
思わぬ言葉に首を傾げる千鶴に、英玲奈はゆるりと頷いてから千鶴の手を自らの頬へ添えた。
「千鶴姉さんに触れていると、失われたはずの力が蘇るのを感じるんです。いえ、戻るどころか、過日以上に溢れるくらいで……」
千鶴の手を頬に添えたまま、静かに目を閉じる。
「数多の怪異が、妖が求めるのもわかります。ただ触れているだけで、これほどの力があるんですから。……千鶴姉さん」
「はいっ」
改まって呼ばれ、思わずつられて敬語が飛び出した千鶴を、英玲奈が微笑を浮かべて見つめた。大きな瞳は夜空のようで、見つめ返すと吸い込まれそうになる。
「怪我をしないよう気をつけてくださいね。血の一滴でさえ、計り知れない力を与えるものなので。血の匂いに惹かれてくるものは大抵ろくでもないですから、特に警戒してください」
「う……うん、わかった。ありがとう、英玲奈ちゃん」
力強い眼差しに気圧されて頷く千鶴の手を、英玲奈は優しく撫でてから解放した。
「柳雨、千鶴姉さんを頼みました」
「あいよ。お前さんは送って行かなくていいのか」
「上から帰りますので」
「そっか。んじゃ、お姫ちゃんによろしくな」
屋上の柵に腰掛け、黒い翼を現しながら、英玲奈は悪戯そうな笑みを見せて。
「千鶴姉さんの分は伝えておいてあげます」
そう言って飛び立っていった。