肆ノ不思議:人体模型の臓器
昨日放課後に起こった講堂での事故は、さざ波のように上級生クラスへと広がった。既に二人が行方不明となっていたところへの、異常な事故。
現場に居合わせた蒼乃に対して「彼女がやったのでは」などと疑いをかける者は全くおらず、それどころかクラスメイトを中心に同情的な視線を送っている。ただ、一部の生徒はそうではなかった。
新聞部が七不思議の調査を始めたのと同時期に事故や失踪が相次いだために、彼らが良からぬことをして怪異じみた現象が起きているのではという噂が出ているのだ。特に現在失踪中の希枝を「マスゴミ女」と陰で呼び疎んでいる生徒などは、このままずっと見つからなければ良いのにと、他の部員にも聞こえるように囁いている。
それは蒼乃のクラスでも同じだった。蒼乃と希枝が部活仲間というだけでなく、友人同士であったことを知っていて、悪し様に嗤う者がいる。蒼乃が積極的に言い返さない性格であることを知った上での所業だ。
この日、蒼乃のクラスは化学室での実験授業があった。
蒼乃が所属する班は前列の一番窓際で、すぐ目の前に化学準備室へと続く扉がある。更にその横には人体模型と骨格標本、それから生物室として使用することもあるため、それらのポスターもいくつか貼られている。黒板を挟んだ逆側、前方出入口の頭上には投影用スクリーンがあり、それを引き下ろすための棒が近くに立てかけられている。
危険な薬品を使うわけではないが、化学実験で使用する器具の殆どが硝子製なので、担当教師は事前に充分注意して授業に挑むよう伝えていた。さすがに高校生にもなって硝子製品を前にはしゃぐ者はおらず、授業は順調に進んで行った。
硬質な音をBGMに、教師が板書をしながら話をする。やがて硝子器具がこすれ合う音からシャープペンシルをノートに走らせる音へと変わり、それも収まった頃合いで、教師は器具の片付けを命じた。
時計を見れば、残り五分だ。慌てなくとも充分に終わらせられるだけの時間はある。蒼乃はノートとペンケースを纏めて机の下にあるスペースへ一度避難させると、器具に手を伸ばした。班員はいつも手が荒れるだとかネイルが剥がれるといって洗い物を一切したがらないので、最早協力を求めることは諦めていた。
机に備え付けられている水道で器具を洗い、教卓にある器具置き場へと持っていく。ビーカーを水切り籠に伏せて置き、それ以外は所定の場所へ返す。
手元から壊れ物がなくなったことで蒼乃が一つ安堵の息を吐いたとき、終業を告げる鐘が鳴った。教師が授業の用意と出席簿をまとめ、室内を見回した。使った実験器具は全て返却されており、壊れたものもない。
「次の授業に遅れないように戻りなさい」
そう告げて、教師は化学室を出て行こうとする。
其処で漸く、化学室内の空気が緩んだ。そのときだった。
「どーん! 突撃しゅざーい!」
「っ!?」
クラスメイトの男子生徒が、突然蒼乃を突き飛ばした。あまりにも突然のことで声も出せず、蒼乃は力の向くままよろけて倒れてしまう。
その先には、人体模型があった。ぶつかった拍子でいくつかの臓器が落ち、更にその中のいくつかが割れてしまう。生徒たちは震災か事故で壊れたことでプラスチック製になったと聞いていたが、どうやら違ったらしいことに驚いた。
倒れ込んだ蒼乃の手のひらや膝が、破片で傷ついて赤く濡れている。
「は!? 武内なにやってんの!?」
女子生徒の一人が信じられないと声を上げる。当の本人はヘラヘラ笑いながら「新聞部員がいつもやってることだろ~?」と、まるで気にも留めていない様子だ。
「信じらんない……小学生かよ。閉籠さん、大丈夫?」
「うち保健室つれてくから、誰か片付けといて」
クラスメイト二人が近寄って、一人が蒼乃を支えて立ち上がらせ、もう一人が周囲を見回した。そのとき偶然目が合った男子生徒が後方の掃除用具入れに走り、ちりとりと箒二本を抱えて戻って来た。そのとき、騒ぐ声と破壊音に気付いた教師が戻ってきて、教室内に向けて「何事ですか!」と叫んだ。
「武内が閉籠さんをいきなり突き飛ばしたんです」
「突き飛ばしたって……いったいどうして。喧嘩じゃないんですよね?」
「違います」
「コイツがふざけてやったんです」
教師が戻ったことで。武内の表情が気まずそうなものに変わるが、かといって蒼乃に対して済まなそうな様子は一切見られない。寧ろ女子が無駄に大騒ぎしたせいで面倒なことになったとさえ思っていた。
「とにかく、其処で手を洗ったらすぐ保健室に行きなさい。破片が入ったら大変よ」
「はーい」
支えてくれていた女子に引き続き連れ添われながら近くの水道で手を洗い流し、血が落ちないようハンカチで抑えながら、蒼乃は保健室へと向かった。
一方化学室に残った生徒たちは、片付けをしながら武内を非難の目で見ていた。
中でも、人体模型の七不思議を知っている女子生徒は、武内が蒼乃を最近起きている七不思議に準えた失踪事件や事故をわざと起こそうとしたのではと囁いている。蒼乃が飛び込んだのは、七不思議の逸話を持つ人体模型だ。陶器製でなくなっていたはずが、どういうわけか七不思議と同じ陶器の模型になっている上、噂と同じように臓器が複数破壊されてしまった。
もし最近の事故と同じことが起きるとしたら、蒼乃もそのうち臓器がなくなったり、壊れたりしてしまうかも知れない。そんな嫌な予感が胸を渦巻いて仕方がなかった。
だが意外にも、蒼乃は手のひらと膝を破片で軽く切った以外、怪我らしい怪我を負うことはなかった。心配されていた破片の血管への侵入もなく、保険医曰く若いからすぐ綺麗に治るだろうとのことだった。
「良かった……」
「もう授業に戻って良いですよ。今日はお風呂などで染みるかも知れませんが」
「はい。ありがとうございました」
保健室を出て三年紅葉組の教室へ戻ると、既に授業が始まっていた。
蒼乃は後ろの扉からそっと入り、目が合った教師に会釈をしつつ自分の席に着いた。幸い大して進行していなかったので、急いで教科書とノートを開いて授業に参加する。板書をすぐに消すことで有名な数学だったら危なかったが、いまは歴史だ。前回習ったところも当然覚えており、黒板に書かれている内容も問題なく理解出来る。この教師はフィクションの映像作品を見せてから史実と照らし合わせる授業をする人物で、いまも数年前に放送された大河ドラマのDVDをスクリーンに映している。
(……取り敢えず、いまは授業に集中しなきゃ)
凄く驚いたし、突き飛ばした本人には謝罪すらされていないけれど、まだ手のひらや膝は痛いけれど、佐保たちの身に降りかかったことに比べれば大したことじゃない。
そう気持ちを切り替えて、授業に耳を傾けていると、微かに呻き声がした。
「? 何だ……?」
蒼乃の隣の男子生徒も気付いたようで、軽く辺りを見回している。声は、蒼乃の斜め後ろ、つまり隣の男士生徒の真後ろから聞こえていた。
呻き声の主は、蒼乃を突き飛ばした武内という男子生徒だった。青白い顔色でお腹を押さえ、脂汗を掻いている。蒼乃の後ろにいる女子生徒も気付いた様子で、隣で苦しむ武内の顔を訝しげに覗き込んだ。
複数の生徒が後ろを向いていれば、教師の目にも留まる。集中しろと注意しかけて、武内の様子がおかしいことに気付き、一度映像を止めた。
「武内、どうし……」
「ぐっ!?……うぼぇえええっ!!」
歴史教師が、机のあいだを縫って武内の元まで来ようとしたのとほぼ同時に、武内は机の上に盛大に嘔吐した。それも、胃の内容物ではなく“内臓”を。
びちゃびちゃ、ぼたりと、重く湿った音が辺りに響く。人の血と臓物という、普通に生活している分には滅多なことでは見ることのないものを直視した教師が、引き攣った音を喉から漏らした。
「ひっ……!?」
「きゃああああっ!?」
「うわああっ!」
教室内は一瞬でパニック状態となり、近くの生徒だけでなくクラスのほぼ全員が席を立って武内から距離を取った。中には、迷走神経反射を起こして倒れ込む生徒もいた。血腥い空気が室内を満たし、青白い顔で口元を押さえてトイレへ駆け込む者や、倒れた友人を抱えて外へ連れ出す者、目を逸らして廊下に出る者などが出始める。
「と……閉籠さん……」
すぐ後ろから震える声がして振り向けば、武内の隣の女子が涙目で蒼乃を見ていた。彼女は至近距離であの凄惨な光景を見てしまい、動けなくなってしまったようだ。
蒼乃は彼女の肩を支え、クラスメイトたちのあいだを抜けて廊下に出た。よく見れば彼女の白い上靴に、血痕が飛び散っている。
「篠田さん、体育館履き下の靴箱にある?」
「うん……」
「じゃあ、私取ってくる。休んでて」
「うん、……ありがと」
蒼乃の後ろの席で化学のときにも同じ班だった篠田は、ばつが悪そうな顔で頷いた。いままで着飾った自分を維持することだけ考えて、大人しい蒼乃が反抗せずに都合良く動いてくれていたのに甘えてきた。篠田が親友だと思っていた津川芹夏は、篠田を放置してさっさと教室を出ている。
「あ、菜穂も出てきたんだ?」
「……芹夏、なんで置いてったの」
「は? なんでって? ゲロの臭いつくじゃん。フツーにキモいし」
「うち、すぐそばだったんだけど……?」
「あーね。ごしゅーしょーさまー」
半笑いで面倒臭そうに言われ、篠田は会話を諦めて俯いた。それに対し「てか菜穂、なにキレてんの? そーゆーのマジダルいんだけど」と追い打ちをかけるように上から吐き捨てるも、篠田が反応しないことを見るとすぐにどうでも良くなって彼女の前から立ち去った。
津川の振る舞いは、いままで自分が蒼乃にしてきたことそのものだ。蒼乃が手伝ってほしいと言ったとき、自分はなんて言ったか。
『えー、そーゆーのダルいしぃ。閉籠さんがやってよ』
言われる側になると、これほど虚しく心を切り裂くものだったのかと今更思い知る。同じことをされるまで気付かなかった幼稚な自分にも嫌気が差す。蒼乃を突き飛ばして嗤っていた武内を最低なガキだと言いながら、自分も大差なかったと痛感した。
「篠田さん、取ってきたけど……大丈夫? 洗えそう? 無理なら私が……」
「いいよ。やる。休んだらマシになったし……保健室で洗剤借りてこよ」
「えっ……う、うん。わかった。はい、これ」
蒼乃から体育館履きを受け取って履き替えると、篠田は心配そうな蒼乃に付き添われながら教室前をあとにした。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。恐らく教師が呼んだのだろう。他学年も突然飛び込んで来た緊急車両の音にざわめきだした。
武内良太が多臓器不全で死亡したとの報せが入ったのは、それからわりとすぐのことだった。