歪んだ真実
鞄を肩に引っかけ、上靴の踵を潰してゆったりと階段を登っていた柳雨を、凄まじい勢いで追い越して行く人影があった。朝の登校時間は朝練の時間でもあり、校舎の外は運動部員たちの元気な声が飛び交っているが、校舎内にまでその元気を持ち込む生徒がいるとは。と、暢気なことを思いながら三段飛ばしで駆け上がって見れば、件の人影は柳雨のクラスへと飛び込んで行った。
先ほどは一瞬過ぎてわからなかったが、改めて見ればあれはクラスメイトの女子だ。
「ねえ! さっき、朝間くんが事故ったって!」
勢いのままクラス中どころか廊下にまで聞こえる声で、飛び込んだ生徒が叫ぶ。声は思いの外遠くまで響き、朝間という生徒が所属する芒組にまで届けられた。
「嘘だろ……? アイツ昨日、レギュラー決まったって喜んでたのに」
誰かの零した声で、柳雨の中でも漸く名前と人物像が一致した。
柳雨が教室に入り机に鞄を下ろすと、今度は女子生徒が「なにこれ!?」と叫んだ。声につられて視線をやると、叫んだ女子はスマホケースごと端末を握り潰さんばかりの力で握っていて、その表情は驚愕と怒りと困惑が入り乱れている。
「りぃな、どうしたん?」
「……何でもない」
低い声で呟き、握っていた端末を鞄に突っ込むと、まだ朝だというのに鞄を掴んで、りぃなこと山口里菜は教室を出て行ってしまった。
柳雨はそれには目もくれず、教室内に視線を巡らせる。今し方の山口の異変が嘘屋に関わるものであるなら、彼女の嘘と真実を入れ替えた人間がいるはず。
そう思って探すと、案の定。文庫本で口元を隠してはいるが、それでも隠しきれない愉悦が表情に滲み出ている男子生徒がいた。
それを確かめた柳雨は人化を解いて風に紛れ、山口を追った。彼女はどうやら電車で隣町まで行くようで、柳雨もそれに続く。行き先は、私立大学。いったい、彼女の身になにがあったのか。車内でも必死に端末を操作していた。
駅からはバスで大学に向かい、到着すると小銭を料金箱に叩き入れて駆け出した。
「空也!」
キャンパス内に飛び込むやそう叫んだ山口に、人の目が集まる。その中でもより一層迷惑そうな顔をした青年の元に駆け寄って、山口は重ねて叫ぶ。
「ねえ、あたしと別れたいって、なんで!?」
縋り付く山口を煩わしげに振り払い、彼女に空也と呼ばれた青年は一歩後退った。
「ッ、いい加減にしろよ! 俺はお前と付き合った覚えはないし、別れたいじゃなくて俺に付き纏うのをやめろっつったんだよ! キモい妄想で勝手に彼女面しやがって! マジで迷惑なんだよ!」
遠巻きに眺めていた人たちが、ざわめき出す。声を潜めるふりで、聞こえよがしに。見世物を見物しているかのように、二人の必死な様子を娯楽として消費している。
山口は絶望を面に張り付けて、ふらりと足を引いた。
其処へ、ヒールの音が近付いてきて、空也の腕にそっと寄り添った。緩く巻いた髪と地味目の化粧に男受けを意識した甘い服装を合わせた女性が、何の感情も乗らない目で山口を見る。
「空也、どうしたの? あの子だれ?」
「知らねーし興味もねーよ。こんなところまで乗り込んで来やがって」
「ふぅん……?」
冷たい言葉が、山口に突き刺さる。女性は気のない返事をしながら端末を取り出し、長い爪をものともせずに操作し始めた。
「付き纏うなってメッセ送ったらいきなり現れたんだよ」
「やだ……気持ち悪ぅ……ねえ、もう行こうよ。皆に見られてるよ?」
「ああ。二度と目の前に現れんなよ、キチガイ女」
冷たい声で吐き捨てると、空也は女性の肩を抱いて踵を返した。――――その瞬間、俯いていた山口が突然顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになった顔も構わず叫んだ。
「空也! 空也空也空也空也ぁ!! あたしを見てぇ! ねえ! あたしを見てよ! あたしのこと好きだって言ってくれたじゃない! あれは嘘だったの!? どうして、どうして嘘にしちゃったの!? あたしはずっと空也が好き! いまでも空也のことが大好きだからぁ! だから、あたしは! ねえ!」
常軌を逸した叫びに、思わず立ち去りかけた二人が振り返る。野次馬も何事かと去りかけた足を、逸らしかけた目を戻し、招かれざる乱入者である山口里菜を見る。だが、好奇心に負けた野次馬たちは、すぐにそれを後悔することとなる。
「空也に捨てられたあたしなんかいらない!!」
山口は表面に引き攣った笑顔を張り付け、涙を流しながら、鞄からカッターナイフを取り出すと首に添えて、思い切り喉を引き裂いた。その力はちょっとした脅しのつもりなどではなく、明確な殺意が乗ったものだった。
他害とは異なり自害の際には恐怖による躊躇いがあるものだが、錯乱していたことを差し引いても、いまの彼女にはそれがなかった。まるで憎い他人を殺すときのような、躊躇も遠慮もない殺意の刃を自らに向けていた。
「ヒッ!?」
「う、嘘……!」
辺りから悲鳴が上がり、パニックが広がる。
吹き出した血が噴水のようにびちゃびちゃと降り注ぎ、呆然と立ち尽くす空也の目の前を真っ赤に染めた。空也に寄り添っていた女性は半ば彼に隠れるようにして、惨状を色のない目で見つめている。
「いまのヤツ、途中で様子が変わったな。誰かの干渉があったっぽいが……」
一部始終を上空で監察していた柳雨が、ぽつりと呟く。
誰かと言いつつ、柳雨には侮蔑と怨嗟に塗れた目で血だまりを見る女性の姿が見えている。先ほど端末を弄っていた、あのとき。予め見つけておいた嘘屋にアクセスして、山口の真実を書き換えたのだろう。
いったいなにを真実としたら、あそこまで常軌を逸した末路を押しつけられるのか。画面の中身までは見えていなかったため、柳雨には其処まではわからないが。
「帰ってアイツらに聞いてみるしかねえか」
遠くに救急車のサイレンを聞きながら、柳雨はキャンパスをあとにした。




