哄笑
間もなく家が見えてこようかというところで、舞桜はビクリと体を竦ませた。双眸は揺れ、体が震える。目の前の光景が信じられず、呼吸が掠れる。
「やあ、神薙。部活をサボって悠々とご帰宅とは、いい身分じゃないか」
家の前に立っていた人影が、懸念通りの人物であったと語りかけてくる。一歩、また一歩と近付きながら、歪んだ笑みを張り付けて。
「この俺がわざわざ迎えに来てやったんだ。当然、一緒に来るだろう?」
本能が警鐘を鳴らす。近寄らせてはいけない。このまま聞いていてはいけない。彼の手を取ってはいけない。
―――逃げなければならない。
瞬間、舞桜は踵を返して来た道を駆け戻った。
「ははは! なんだ、部室まで追いかけっこか? こんなところでも鍛錬をしようとは熱心な後輩じゃあないか! あっはははは!!」
狂ったような笑い声が背後から響く。遠いようにも、すぐ項の傍で聞こえるようにも感じられ、泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。
住宅街を抜け、中央公園に差し掛かると、舞桜は公園内に飛び込んだ。学校に戻れば少なくとも教師がいる。人通りの見込めない住宅街をこのまま走り続けるよりは近道で一気に抜けてしまおうと判断したのだが、植え込みの近くを通り抜けようとしたとき、突然横に思い切り腕を引かれて倒れ込んだ。
「きゃ……!」
「静かにしな」
思わず悲鳴を上げかけた舞桜の口を、大きな手のひらが塞ぐ。藻掻こうとした舞桜を抑えつけながら、耳元で「あの男に見つかりてぇのか」と囁かれ、肩が震えた。
なにが何だかわからない。抑え込まれているのも怖いが、暴れて見つかるのも怖い。半ばパニック状態で暴れる気力も湧かなくなった舞桜を、謎の人物は暫くそうしてろとだけ告げて、植え込みの奥へ身を潜めた。
その直後。公園に駆け込む足音が聞こえ、忌まわしい哄笑が響いた。
「っ……」
思わず声が漏れそうになったが、依然口を物理的に封じている手のひらに塞がれて、どうにか事なきを得た。体が震えて仕方ない。すぐ近くを歩いている気配がする。声が通り抜けていく数分、或いは数秒が、まるで永遠にも感じられる。
「神薙ぃ、どこに隠れたぁ? 公園で隠れんぼだなんて、可愛い真似をするなあ!」
ガツン、となにかを蹴る音がして、体が強ばった。ただ、音は少し離れたところから聞こえたようで、声も僅かに遠い。だからといって身を乗り出す気にはなれず、口元を覆う手も相変わらずで、舞桜は大人しくしていることしか出来ない。
ややあって、探す声がピタリと止まったかと思うと、嘗ての彼のような声音で誰かに語りかけているのが聞こえてきた。
「君たち、こんな子を見なかったかな? うちの後輩なんだが、見当たらなくてね」
話しかけている相手は年下なのか、子供向けのような口調だ。子供は事情を知らないだろうから、もしかしたら居場所を言ってしまうかも知れない。それならまだマシで、知らないと答えた子供相手に激昂してしまう可能性もある。
「その人なら、向こうに走っていきましたよ。凄く急いでいたみたいです」
「そうか、ありがとう。行ってみるよ」
緊張しながら聴覚を研ぎ澄ませていると、子供とは思えないほど冷静な声がした。
どちらを指したのか、視覚に頼れない舞桜からは判別がつかない。けれど少なくとも子供たちに牙を剥く可能性はなくなったことで、僅かに緊張が解けた。
暫くして、舞桜の口を塞いでいた手がとけた。
「行ったぜ」
短くそう告げると、背後の体温が離れる。
振り向けば、鬼灯高校四人の有名人のうちのひとり、黒烏柳雨がいて目を瞠った。
「悪かったな、乱暴して」
「い、いえ……助かりました……ありがとうございます」
お辞儀をしつつそう舞桜が言うと、がさりと植え込みが揺れた。驚いた舞桜が背後を見れば、小さな女の子が二人、手を繋いで舞桜と柳雨を見上げていた。
「手筈通り向かわせました」
「んじゃ、オレ様たちも行くかね」
「え……あの、何処へ……? というか、この子たちは……」
「まあまあ、積もる話はまたあとで、ってな」
軽く言いながら、今度は舞桜の目を塞ぐと、一瞬の間を置いて手を離した。
「え……!?」
次に立っていたのは、学校の文化部部室棟らしき一室だった。
なにが起きているのか把握する前に事態が突き進んでいくせいで、混乱ばかりが頭に降り積もっていく。
「懐かしいな、その初々しい反応。おチビちゃんは最近慣れてきたからなぁ」
けらけらと笑いながら、柳雨はソファの肘掛けに腰掛けた。ふたりの幼女もソファに並んで座り、舞桜を見上げて「どうぞ」と隣を叩いた。
「え、えっと……お邪魔します……」
言われるまま黒髪の幼女に並んでソファに腰を下ろすが、どうにも落ち着かない。
先輩はどうなったのか。いまなにが自分の身に起きているのか。これからどうすればいいのか。わからないことだらけで、質問すら浮かんでこない。
「暫く此処にいてください。この場所には、あの男は来られませんから」
「う、うん……でも、来られないって……此処は学校の部室棟だよね……?」
「ええ、まあ。ですが、此処は部室棟の突き当たりにありますので」
「突き当たり?」
言われて文化部部室棟を思い浮かべるが、突き当たりは窓だったはず。右手側に扉が一つあるにはあるが、其処は非常口だったと記憶している。現在どの部が何処の部室を使用しているかまでは運動部である舞桜は把握していないが、少なくとも突き当たりに部室はなかったはずである。
「あるはずのない部屋なので、入ってこられないんです」
「な、なるほど……?」
最早『わからないことがわかった』といった状態だが、先輩の豹変も含めて、理解の埒外にいるのだと痛感した舞桜は、混乱する頭を少しでも落ち着けようと深呼吸をして部室を見回した。
作り自体は、友人に誘われて見学に来た別の文化部の部室と大差ないように見える。扉が一つ、机があって、椅子があって、収納が壁際にある。ただ、他の部室と違って、収納が事務的なメタリックシルバーのものではなくおもちゃ箱めいたカラーボックスを使っているようだが。
「取り敢えず、超常的な事態だってのは把握してもらえただろ」
「はい……まだ少し信じられないですけど……」
だろうな、と笑って言う柳雨を横目で見上げ、舞桜は小さく溜息を吐いた。
本当に、理解出来ないことばかりが起きている。けれど、認めないわけにはいかないことも、薄々感じ始めていた。
「なにが起きているのか、話して頂けませんか……?」
舞桜が問うと、柳雨は一言「紅葉、頼んだ」と言い、カラーボックスからゲーム機を取り出して遊び始めてしまった。紅葉というのがどちらなのかと窺っていると、黒髪のほうがあからさまに嘆息してから舞桜に視線をやった。
「説明の前に名乗っておきますね。私は織辺英玲奈。織辺真莉愛の妹です」
「え、真莉愛ちゃんの……? そっか……真莉愛ちゃんにもお世話になったんだよね。ありがとう」
「いえ……そして此方が、梅丸雛子さんです」
「雛子ちゃんだね。よろしく」
雛子と紹介された少女は、人懐っこい笑みでぺこりとお辞儀をした。人見知りというわけでもなさそうなのに言葉が返ってこなかったことを不思議がっていると、英玲奈が雛子は生まれつきの失声症であると説明してくれた。
「それで、弓道部で起きている事態ですが……原因は全て、あの男にあります」
英玲奈曰く。
まず西園が、ある店で願い事をした。不調続きだった彼は、その不調をエースである伊織に押しつけ、自らがエースに返り咲くことを願った。願いが以前の調子を取り戻すことだけであれば成功をイメージするだけで良かったが、彼は歪んだ願いも抱いた。
件の店は、そういった歪んだ願いをこそ好んで喰らう。ゆえに部のエースとなること以上に、伊織を蹴落とす方向へ願いが加速していく。
歪んだ願いを抱き、叶え、膨れ上がった結果、彼は彼自身が最も疎んでいた人物へと性質を寄せていってしまった。
「彼が手に入れたオルゴールは、寝ているあいだにイメージしたことを現実で叶えるという性質を持っています。どちらの願いも、明確な対象が身近にいましたから……」
他者を蹴落とすことを喜んで行う人間の手本がいた。それゆえ、西園は顧問と言動が似通ってしまった。イメージを明確にすればするほど、願いは形になる。以前、部室で舞桜を襲ったときに顔色を悪くした伊織を見て、西園は更に体調を崩す伊織をはっきりイメージした。倒れた伊織を見て、歪んだ歓びに満たされた。
願いは歪んだまま膨張し、彼の性質をも歪めていく。
「だから先輩は、急に調子を取り戻して、性格が変わって、入れ替わりに大御門くんがあんなことに……」
「ええ。このまま音色を聞き続けると取り返しがつかないところまで侵蝕されますが、今日中に片付ければ彼次第で戻ることは出来るでしょう」
「そっか……よかった」
英玲奈の言葉に安堵してから、ふと。
「でも、片付けるってどうやって? 英玲奈ちゃんが言うには、不思議なお店で買ったオルゴールが原因みたいだけど、それを壊しちゃうの?」
「それも手ですが、ものを壊しただけでは根本解決にはなりません。彼自身を祓わねば歪んだままの人格で固定されてしまいますから」
其処で、と英玲奈は隣の雛子に視線をやった。つられて舞桜も雛子を見ると、彼女は小さな脚を揺らして鼻歌を歌っているような仕草をしている。
「雛子さんの歌声で、彼の人格を再調律します。音には音を、です」
「歌声……?」
「ええ。まあ、細かいことはお気になさらず」
確か失声症だったはずでは、と問いたそうにしている舞桜に、英玲奈は悪戯な笑みを見せるだけだった。雛子は変わらず歌い続けており、英玲奈はそんな雛子の頭を撫でて褒めている。
「よくわからないけど……全部、元に戻るって思っていいのかな」
「はい。彼が戻れるかは本人次第なところもありますが、歪みは矯正されます」
「……うん。ありがとう」
子供は仲間内だけで通じる独特の世界を持つと言うが、彼女らの纏う空気はそれとはまた異なるものに思えた。そしてその不思議な空気の正体を訊ねても、自分には決して正しく理解出来ないだろうことも。舞桜は何となく感じ取っていた。