風説
「次は……日本史か。なら移動もないし、ゆっくりでいいや」
丁度授業と授業の合間の休憩時間で、廊下には人が多く行き交っている。昇降口前の自動販売機まで来た舞桜は、気持ちを切り替えるためにもなにか買っていこうかと手にしているスマートフォンを読み取り機に近付けた。
冷たいストレートティーを購入し、教室に戻ろうと踵を返したとき、女子生徒たちの噂話が耳に飛び込んできた。
「西園先輩、なんか雰囲気変わったよね」
「いかにも真面目くんって感じだったのに、王子様みたいになってない?」
「でもちょっとズレてる感じがするんだよね……なんていうか、好きな芸能人の真似をしてなりきってる人みたいな」
「あー……今更イメチェンがんばってんのかな?」
一つのグループは西園についての話題を。
「ねえねえ、黄昏郵便って知ってる?」
「なにそれ。またおまじない?」
「なんかねー、けーさつとかじゃ解決出来なさそうな、不思議な出来事を助けてくれる神様に通じる郵便なんだって。ほら、小学校で流行ったカミサマポストあったじゃん」
「そーいえばそんなのもあったね。でもさ、確かそれって旧校舎に人が群がるからって取り壊されたんだよね?」
「うん。でも神様がいなくなったわけじゃないから、黄昏郵便を通してお願いが出来るみたい。まあ、何処にあるのかまではわかんないんだけどね」
「だめじゃん」
そして別のグループは、黄昏郵便の噂を。
他にもどこの先輩が格好いいだとか、誰と誰が付き合っているだとかいった内容が、縦横無尽に飛び交っている。
黄昏郵便の噂は、舞桜も耳にしたことがあった。以前、吹奏楽部の四人が犬神屋敷に肝試しをしにいったとき、ちょっとした話題になっていたのだ。鬼灯小学校で流行ったものと似通っていたこともあって、どこにでもありそうなおまじないだと思ったのを、いまでも覚えている。
だがもう一つの話題は、色々な意味で聞き捨てならなかった。あの西園が、王子様のようだなんて。部活での様子を見る限りでは信じられないの一言に尽きる。
「……戻ろ」
いまは西園の名前を聞きたくない。詳しい話を訊ねる気にもなれない舞桜は、紅茶のミニペットボトルを片手に教室へ戻った。
「あ、舞桜。ちょっと」
教室に入ると、友人二人が神妙な顔で手招きをした。不審がりながらも席まで行って無言で話を促すや、潜めた声で話し始めた。
「舞桜、西園先輩に告白したって本当?」
「は……?」
あからさまに不機嫌な顔と低く唸るような声で返され、友人二人は慌てて「あんなの全然信じてないから、待って」と宥めた。
「先輩本人が、舞桜が先輩を女子更衣室に連れ込んで制服を脱ぎながら迫ってきたとか言いふらしてんの。でも弓道部の人があれは逆だって言ってるから誰も信じてないし、寧ろ、先輩の頭が大丈夫? って感じになってるけど……」
「なにそれ……ほんっと信じらんない……!」
養護教諭と話したことで僅かに凪いでいた心が、またささくれ立つのを感じた。あの出来事を目撃した伊織はいま深く眠っていて意識がなく、女子更衣室に監視カメラなど置いてあるはずもないため、証明の仕様がない。
幸い西園の急激な変化に戸惑っている声のほうが大きく、また、彼の突飛な言い分を鵜呑みにしている人はいないようだが、そうだとしても不愉快極まりない。
「いきなり女子更衣室に乗り込んできて、加茂川先生みたいなこと言いながら人の制服引き千切っておいて……まだ人を馬鹿にし足りないって言うの?」
「え……それマジ……?」
涙目で頷いた舞桜を見、友人は顔を見合わせた。
彼女らは小学校からの幼馴染で、舞桜がいかに弓道を大事にしているか知っている。道場を神聖な場所だと常々言っており、家の道場も部活の道場も毎日綺麗に掃除をし、道具は全て丁寧に扱っているのをずっと見てきた。そんな神聖な場所で、異性を個室に連れ込んで誘惑するなどあり得ない。だというのに、西園は舞桜の抱いている弓道への想いを含めて彼女の尊厳を踏み躙り、あろうことかその行いまでをも押しつけたのだ。
「ていうかそれ、普通に犯罪じゃん……?」
「誰か、先生には相談したの?」
友人の心配そうな言葉に舞桜は首を振り、養護教諭に話しただけだと答えた。
「相談しようにも、誰がいいかわからないし……」
「あ……そっか」
部で問題が起こったときに相談するべき顧問は、寧ろ問題を起こした側。梅組担任は特に性格や指導に難があるわけではないが、二十代の男性教師であるため話しづらい。
「まあ、相談先はあとで考えるとして、舞桜は少し休んだほうがいいよ。顔色悪いし、部活もいまは控えておいたら?」
「……やっぱそう思う?」
「うん。舞桜が弓道一筋なのは知ってて敢えて言うけど、いまはやめときな」
「西園先輩も、いまはなにしてくるかわかんないしさ。女子更衣室に入ってくるとか、マジで普通じゃないもん」
「そうだよね……こんなぐちゃぐちゃな状態じゃ、ろくな射ち方出来ないし……今日は真っ直ぐ帰ろうかな」
予鈴が鳴り、授業が始まる。
いつもならすんなり頭に入ってくる内容も、今日はどこか遠くを滑って行くようで、実にならなかった。
気分が晴れないまま、部活へ向かう人の波を縫って昇降口を目指す。
まだ日があるうちに帰路につくのは久しぶりで落ち着かないが、真莉愛にも友人にも同じことを言われるということは、相当ひどい顔をしているのだろうと思う。校門前でスマートフォンを取り出し、部長宛に今日は休む旨を伝えると、再び歩き出した。
最寄りのバス停は、鬼灯高校前と名はついていても、高校自体が遊歩道を少し進んだ先にあるため、二分ほど歩かなければならない。彩の道と名付けられたその遊歩道は、区画ごとに四季の花や植木が植えられている。道の途中にはベンチも並んでいて、犬の散歩をしている人や、病院帰りのお年寄りなどが休憩していることもある。
彩の道を抜けて国道に行き当たるとすぐにバス停があるのだが、ふと道脇に見慣れぬ建物があることに気付き、舞桜は足を止めた。
「……郵便局? こんなところに建ってたっけ……」
古びた郵便局が、彩の道の傍らにぽつんと建っている。その前には円筒形のポストも立っており、赤さびた肌を露出させている。
いつの間に出来たのだろうと、庇の上を見上げてみる。
「黄昏郵便……」
其処に書かれていたのは、噂で聞いた黄昏郵便の文字だった。
「どこにあるかわからないって言ってなかったっけ……?」
首を傾げつつ興味本位で中に入ってみると、中は意外としっかりした郵便局だった。カウンターに葉書売り場、手続きをするための物書き台や、地域のお知らせが貼られた掲示板など。だがそのお知らせはどうも時代が古く、写真も大正時代の街並みを写しているようだった。
狐につままれたような心地になりながら、しかしこうして実際に目の当たりにすると己の目や頭を疑うより先に、縋りたい気持ちがわき上がってくる。西園の変化、仲間の突然の不調、部活が良くない方向へ転がり落ちようとしている現状を、もしかしたらと思ってしまう。
「神頼みって、自分で出来ることを全部やってからするものだと思ってたけど……」
受験のときを思い返しつつそう呟くが、部でのことはどうすることも出来なかった。あのとき伊織が同じ室内にいなかったら、誰にも信じてもらえなかったかも知れない。
舞桜は一つ息を吐くと、辺りを見回して便箋と封筒を探した。
「……あった。これでいいかな」
白無地の封筒と隅に撫子が描かれた便箋を選んで、物書き台へ向かう。物書き台にはボールペンも繋げられているが、舞桜は自分の筆記具を取り出した。
「うーん……なんて書けばいいんだろう……」
暫く悩んでから、漸くペンを走らせる。
我が身に降りかかったことや伊織に起きたことなど、色々あるが、元を辿れば一人に行き着く。手紙の正しい形式がわからないため、友人に送るより少しだけ丁寧に言葉を選んで書き進めると、最後に挨拶を添えて締めた。
「これで……たぶん、大丈夫、かな」
手紙を封筒にしまい料金を払おうと窓口に立つが、奥にも人の姿は見えない。まさか一銭も払わず出て行くわけにもと辺りを見れば、料金は此方と書かれたポップが小さな賽銭箱の傍に立てかけてあるのに気付いた。
「神様だから、賽銭箱なの……?」
疑問に思いつつも、此方とあるなら此処で良いのだろうと財布を取り出し、千円札を折りたたんで隙間から差し込んだ。手紙の料金と、切手代、それからお願いするための気持ちを乗せて。
外に出て円筒形ポストに手紙を入れると、どこからともなく声がした。
―――確かニ、お預かり致しマシタ。
え……と思ったときには、舞桜は彩の道の出口に佇んでいた。
瞬きをして見ても目の前には蔦に覆われた廃屋が建っているだけで、郵便局どころかポストすら立っていない。周りを見ても同様で、今し方の出来事は夢だったのかとすら思えるほど影も形も見当たらない。
不思議に思いながら丁度到着したバスに乗り込み、帰路につく。これから先の人生でなにが起きても驚かないだろうほどに、此処数日は不可解なことが起きすぎた。
最寄りのバス停で降り、溜息を一つ吐いて歩き出すと、前方に鬼灯高校の制服を着た後ろ姿を見つけた。片方は、保健室で会った四季宮千鶴。もう片方は、直接の関わりがなくとも名前と姿を覚えるくらいの有名人四人組のひとり、赤猫桐斗だ。
「四季宮さん」
後ろ姿に声をかけると、甘栗色の頭が振り返って舞桜を見た。それに釣られて、隣のピンク髪も振り返る。
「あ……弓道部の」
「神薙舞桜だよ。四季宮さん、家こっちのほうなの?」
駆け寄りながら訊ねると、千鶴は小さく首を振った。
「伊織くんのお見舞いに……」
「そっか。大御門くんの家は二つ先だっけ」
舞桜がバス停を振り返りながら言うと、千鶴は「そうなんだ」と呟いた。
「バスはあまり使わないから、知らなかった……」
「え……じゃあ、学校から歩いてきたの? 遠くない?」
「遠いけど……バスとか電車は苦手で……」
「ふぅん……?」
どういう事情があるかは謎だが、伊織の家から学校までは、徒歩で行くなら一時間はかかる。バスを利用すれば二十分程度に短縮される時間を、それでも歩いて行くほどの苦手意識は舞桜には想像もつかないが、深く追求することはしなかった。
「あ、ごめんね。お見舞い行くって言ってたのに引き留めちゃって」
「う、ううん……神薙さんも、気をつけて」
「ありがと」
手を振り、角を曲がろうと足を進めた舞桜の背に、いままで千鶴の隣で見守っていた桐斗が声をかけた。
「お手紙、ありがとね」
「えっ……」
舞桜がその言葉の意味を問う前に、ふたりの姿は道の先へと遠ざかっていた。
「お手紙って……まさか、さっき出したあれのこと……? でも、なんで先輩が……」
本当に今日は、不思議なことばかり起きる。
何度目かも知れない感想を抱きながら、舞桜は家へ続く道を曲がった。




