修復
その場に残された西園以外の部員たちは、暫く呆然としたままなにも言えなかった。加茂川がいたときは気紛れに投げつけられる嫌味に耐えていれば良くて、更衣室にまで入り込んで横暴を働くようなことはされなかったのに。西園は実力行使で気に入らない部員を追い出す真似までし始めたのだ。
「……とにかく、神薙と大御門も着替えて、今後のことはあとでメッセで送るから」
男子部員たちは気まずそうに顔を見合わせると、舞桜を目に入れないようにしながら伊織にそう告げ、隣室へ戻っていった。
更衣室の扉が閉じると、舞桜はいままで耐えていたのだろう、啜り泣きから本格的に泣き出してしまった。肩を震わせ、引き裂かれた胸元を必死に抑えて泣きじゃくる姿をただ見ていることしか出来ず、伊織は歯噛みしながら舞桜を宥めた。
やがて呼吸が落ち着いてくると涙を乱暴に拭い、舞桜は「ごめんね」と呟いた。
「いや、もう、誰のせいでもないだろ……それより制服をなんとかしないと」
「うん……どうしよう……体操着は教室だし」
「あ、そっか。ジャージで帰るか?」
舞桜は一つ頷くが、取りに行くには結局この格好を人目にさらすことになりそうだと俯いてしまう。
「俺が取ってくるよ。席の位置だけ教えてくれるか」
「いいの? ありがとう。左から二番目の列の、後ろから三番目だよ」
「わかった。ちょっと行ってくる」
更衣室を出て運動部部室棟を抜け、本校舎に向かう。
と、丁度帰るところだったのか、真莉愛と行き会った。いつもなら陽が落ちる前には帰宅している彼女だが、今日は遅くまで部活に出ていたらしい。スクールバッグの他に大きめの紙袋を提げており、編み棒や裁縫道具、作成途中と思しき作品が覗いている。
「お、真莉愛。珍しいな」
「先輩の作品展が近いですし、先輩方と過ごす、最後の時期ですから。伊織もいままで部活だったのですか?」
「ああ。……そうだ。真莉愛は手芸部だったよな」
「はい。なにか、あったのですか?」
眉を下げて伊織をじっと見上げてくる真莉愛に、伊織は一瞬迷ってから部室であったことを掻い摘まんで話した。とはいえ舞桜が先輩に襲われたとは言えず、先輩と揉めたときに巻き込んでしまったと濁したような嘘を添え、そのせいで制服のボタンが千切れ飛んでしまったと伝える。
「わかりました。まりあで良ければ、お手伝いします」
「悪いな」
教室へ向かいかけた足を、部室へ向けて歩き出す。
念のため更衣室をノックしてから開けると、舞桜が驚いた顔で出迎えた。
「大御門くん、その子は……えっと……」
「手芸部の友人なんだ。制服、直せるならそのほうがいいと思って」
「まりあといいます。少しだけ、お邪魔します」
ぺこりと頭を下げ、伊織に続いて更衣室に入る。舞桜は困惑しながらも「神薙舞桜といいます」と小さく答えた。
「制服お直ししているあいだ、こちらを羽織っていてください。お洗濯のために持って帰るところだったので、汚れていて申し訳ないのですけれど……」
「い、いえ、あの……ありがとう……」
真莉愛が紙袋の底から自分のジャージを取り出して手渡すと、舞桜は破れたシャツを脱いで入れ替えのように渡し、ジャージを羽織った。そのとき、ふわりとジャスミンの香りが舞桜の鼻腔を擽った。
「なんか、いい匂いが……って、ごめん! 変態みたいなこと言っちゃった……!」
思わずといった様子で呟いてから慌てて取り繕う舞桜に、真莉愛は笑顔で「まりあも好きなにおいなのです」と若干ズレたことを言った。
「弓道部さんは、朝も夕方もたくさん練習していてすごいです」
「運動部はだいたいそうだよ。サッカー部の子なんか、朝一で泥だらけになってる日もあるくらいだし」
「まりあも見たことがあります。まりあは運動が得意ではないので、とても尊敬です」
ふわふわと笑みを浮かべながらも、その手元は正確で緻密。無理矢理引き裂いた際に破れたところも、広がってしまったボタン穴も、千切れ飛んだボタンも、見る間に元の姿に戻っていく。
「凄い……ボタンを縫い付けるだけかと思ってたのに……」
「それだと破れた跡がそのままですので、傷が広がってしまうのです。傷ついたときは丁寧にお手当しませんと、あとで痛くなってしまうのですよ」
真莉愛の言葉は、舞桜の心をやわらかく包み込んで染みていった。
眼前に迫った西園の顔が、いまも瞼に焼き付いている。彼の目は憎悪と狂気に塗れていて、とても正気には見えなかった。伊織に押しのけられたとき一瞬だけ見せた動揺に本来の彼を見た気がしたが、それもすぐ溢れんばかりの憎悪に奥底へと押し込められてしまった。
いったいなにがあって、西園がここまで豹変したのか。
「……先輩、どうしちゃったんだろ……」
ぽつりと落とされた舞桜の呟きは、傷口から染み出る血液だった。伊織はただ嫌味を言われただけだが、彼女は違う。明確な暴力という形で被害を受けた。女子更衣室でもお構いなしに乗り込んでくるとわかった以上、部室は最早安心出来る空間ではない。
しかも伊織が謹慎となっては、女子部員は舞桜だけになってしまう。
「舞桜さん。会ったばかりのまりあが言うのもですけど、暫く部活はお休みしたほうがいいです」
「え……?」
目を丸くする舞桜に、真莉愛はにっこり微笑んで綺麗に直した制服を差し出した。
「それが難しいなら、伊織の傍にいてください。先輩も、伊織も、きっと大丈夫です」
「どうして、そんなこと……」
真莉愛と舞桜はクラスが違う。ビスクドールのような美少女が桜組にいるという話を聞いたことならあり、遠巻きに目にしたこともあるが、梅組の舞桜と桜組の真莉愛では合同授業で組むこともなく、殆ど縁がなかった。ちゃんと話したのはいまが初めてで、部活でのことは、仮に知っていたとしても伊織経由の又聞きに過ぎないはずだ。
舞桜の尤もな疑問に、真莉愛は裁縫道具を片付けながら事も無げに言った。
「まりあが大丈夫だと信じているからです。伊織も舞桜さんも、悪いことはなにもしていませんから、痛いのが良くなるまで、ちょっとの我慢です」
「……本当に、また元通りの部に戻るのかな……」
悲愴を露わに零した舞桜に、真莉愛は重ねて「大丈夫です」と答えた。舞桜にすれば殆ど見も知らぬ相手の、根拠のない肯定だった。だがそれでも、先の出来事で重苦しく沈んでいた心が、僅かに軽くなるのを感じた。
「ありがと。制服も、こんな綺麗にしてもらって……」
シャツを羽織り、ボタンを留める。一見しただけではどこが破れてどこが無事だった箇所なのかわからないほど綺麗に直っている。
西園の凶行に引き裂かれた心まで一緒に縫い止めてもらえたようで、暗かった舞桜の表情がほんの少しだが和らいだ。
「帰ろっか。遅くなっちゃったし」
「ほんとだ」
時計を見た伊織が、真莉愛に視線を移す。
「真莉愛、大丈夫か? こんな遅くなったことないだろ」
「はい。先ほど携帯を見たら、えれながお迎えの人を送ってくれたそうですので」
「そうか。なら俺は神薙を送っていくから、気をつけて帰れよ」
「ありがとうです。舞桜さんも、気をつけてください」
「うん。今日はほんとにありがとう」
そう話しながら更衣室を出て校門へ向かうと、伊織と舞桜にとっては見知らぬ大男が幼女を抱えて直立不動の姿勢で門前にて待機していた。
「真莉愛殿。お迎えに参りました」
「お待たせしました。伊織、舞桜さん、こちらは、鬼灯警察署の警部補さんで梅丸煌牙さんと、その娘さんで雛子さんといいます」
「え、あ、おう。初めまして。真莉愛の友人の、大御門伊織です」
動揺しつつも伊織が挨拶すると、雛子が笑顔で手を振った。
「織辺さん、警察の方とお知り合いだったの?」
「妹のえれなが、雛子さんとお友達なのです」
「あ、なるほど……」
警官と知り合いといえば仰々しく感じるが、友人の保護者となれば別だ。世の中には様々な仕事があり、その中の一つに警察官があるというだけである。
「んじゃ、俺たちはバスだから、またな」
「はい。また明日です」
真莉愛と梅丸親子に見送られ、伊織と舞桜は学校をあとにした。
学校最寄りのバス停に着くと、二人揃ってベンチに腰を下ろした。時刻表によれば、次のバスは十分後に来るようだ。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな……」
薄暗がりの中で俯く、舞桜の表情は冴えない。舞桜だけではない。伊織も、それから他の部員たちも、皆が西園の豹変に動揺していた。原因がわからず、対処の仕様もない現状、以前の加茂川にそうしていたように、ただ耐えるしかないのだ。
ふと、伊織の携帯に部員からのメッセージが届いた。部長が代表してあのあと西園と話した内容を伊織に届けてくれたようで、簡潔に言うなら伊織の謹慎は解除されたが、西園の様子は相変わらず可笑しいままだという。
西園曰く、舞桜が伊織に迫り、伊織が舞桜の制服を引き裂いて襲いかかった。それを察した西園が駆けつけたが、邪魔をするなと伊織に突き飛ばされたと訴えている。
その言い分を部員たちは信じなかった。何故なら男女の更衣室は隣同士。伊織の声も西園の罵声も聞こえていて、その内容から西園を伊織が止めたのだと理解している。
「……謹慎は取り消されたけど、行きづらいな……」
基本的に連絡事項は部のグループチャット画面で一斉送信されるのだが、今回は個人メッセージだった。というのも、他の部員からの励ましや誰も疑っていないという言を部長が纏めて添えてくれていたからだ。
もしこれが西園の目に留まれば、次の部活でなにを言われるかわからないと考えたのだろう。最後に部長も、何とか誤解が解けないかがんばってみると伝えてくれた。
「大御門くん……ごめんね、わたしのせいで……」
「神薙のせいじゃないって。真莉愛も言ってただろ。先輩になにがあったにせよ、俺もこのままじゃ終われないし、何とか足掻いてみせるさ」
「うん……」
到着したバスに乗り込み、一つ空いていた席に舞桜を座らせて伊織はその傍に立つ。ゆっくりと動き出したバスの中で、二人は無言のまま俯いていた。
やがて舞桜の最寄りに着くと、手すりに掴まりながら立ち上がり、伊織を見上げた。
「それじゃあ……また。部活、また楽しく出来るようになるといいね」
「ああ。そうだな」
バスを降りた舞桜が車窓の先で手を振り、出発と共に帰路へと着く。伊織はエンジン音に紛れさせるようにして溜息を一つ吐くと、ぼんやりと窓の外を眺めた。
徐々に人が減っていく車内で、空席が目立つようになってからも、伊織はずっと同じ場所に立ち続けた。
やがて最寄りのバス停の名がアナウンスされると通路を進んで行き、扉が開いてから運転手に定期券を見せて、バスを降りる。背後で扉が閉まる音を聞きながら、また一つ溜息を吐いた。
「どうすっかな……」
浮かない表情のまま家に入ると、家政婦の寿子に風呂を勧められた。余程ひどい顔をしていたようで、今日はゆっくりお休みくださいとまで言われてしまう。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
寿子の言葉に甘えて風呂にゆっくり浸かり、上がる頃合いに整えられた夕餉を食べ、いつもより早く床についた。だというのに、色々あって疲れているはずの体はなかなか寝付いてくれず、眠りに落ちたのは明け方が近くなってからのことだった。




