龍神様の御座す処
翌朝。真莉愛との待ち合わせ場所に行くと、真莉愛と英玲奈が既に待っていた。
「お早う、待たせちゃった?」
「おはようございます」
「おはようです。今日は早起きしましたので、えれなとお話していました」
にこにこと眩いばかりの笑顔で挨拶する真莉愛と、無表情且つ平坦な声音の英玲奈。正反対の姉妹は今日も変わらず全く似ていないはずなのにどこか似ていて、千鶴のもう一つの日常を実感させる。
「そういえば、千鶴姉さんに話しておきたいことがあったんです」
「なに?」
通学路の途中で、ふと英玲奈が千鶴の手を握りながら思い出したように言った。
「高校で龍神様とやらをしていた五人のうち三人が、学校に来ていないそうです」
「三人っていうと……隣のクラスの人たちかな」
真莉愛に視線をやりながら千鶴が確かめると、真莉愛は一つ頷いた。やはり彼女らは全く無事とはいかなかったらしい。
「一緒に龍神様をした二人のお友達が話していたのをきいたのですけれど……途中から三人の様子がおかしくなって、怖くなって帰ったそうなのです」
「で、翌日……昨日ですね。手紙を届けついでに様子を見に行ったところ、憑物にでも憑かれたみたいに光や音に反応して暴れるようになっていたようです」
「そんな……やっぱりあのあと、治ってなかったんだ」
「あのあと?」
千鶴の呟きに、真莉愛と英玲奈が同じ反応をした。
ふたりに一昨日の放課後遭遇した、龍神様をしていた件の三人の様子を掻い摘まんで話し聞かせた。いま思えば、良からぬものに取り付かれた人そのものな反応であった。
「千鶴は、けがはしていないですか?」
「うん、お話し合いにきてた町長さんが助けてくれたから……」
「待ってください。あのひとに逢ったんですか?」
心配そうな真莉愛に対し、英玲奈は一昨日の桐斗と似たような反応を見せた。珍しく眉を寄せ、複雑な表情をしている。
「英玲奈ちゃんも、百鬼さんとお知り合いなの?」
「ええ、まあ……」
煮え切らない反応に、千鶴は首を傾げる。英玲奈は暫く眉間に深い皺を寄せるという幼子にあるまじき渋い表情をしていたかと思うと、ぽつりと。
「……京にいた頃、鬼族の頭領でありながらわたしに求婚してきた、不審者です」
「え!?」
驚いて見下ろす千鶴を、相変わらず渋い表情の英玲奈が見上げている。その眼差しはどう見ても冗談を言っている風ではなく、千鶴は何と声をかけるべきか困惑した。
「いまで言うストーカーってやつでしょうか。この町にいることは知っていましたが、千鶴姉さんに接触してくるとは思いませんでしたね……」
中身は千鶴より遙かに年上だとわかっていても、小学生の口からストーカーの単語が出てくるのは心臓に悪い。千鶴にとっては恩人だが、言ってしまえば関わったのはその数分だけなのだ。望まざると付き合いの長い英玲奈には、思うところがあるのだろう。
ふたりの関係も知らずに「助けてくれたし、いいひとだよ」などと、軽々しく口には出来なかった。
「何だか、京都にいた神様が結構こっちに来てるんだね。英玲奈ちゃんもそうだし……黒烏先輩だって……」
柳雨の名前を口にしたとき、チクリと胸が痛んだ。
夜闇の中にあってなお鮮やかな紅に沈んだ漆黒の姿は、一晩経っても瞼の裏に鮮明に焼き付いていた。忘れたくても忘れられない。忘れてはならないあの光景が蘇る。
「千鶴姉さん。失うことを恐れるなら、わたしたちが如何にしてわたしたちとして存在しているのか、思いだしてください」
「英玲奈ちゃんたちが……?」
声が沈んだことに気付いた英玲奈が、ふとそんなことを千鶴に言った。
此処でいう「わたしたち」は人間としての英玲奈の言葉ではなく、神族としての言葉だろう。英玲奈は縁切りの神様として存在していた。本来は、病魔や悪鬼などとの縁を絶つ神様だったのが、嫌いな人間との縁を切ることや怨恨対象がこの世との縁が切れていなくなるよう願う人が現れ始め、いまの形となった。
その言葉がなにを意味して、いまの千鶴に与えられたのかわからない。けれど彼女は決して無意味な慰めをしないことは、短い付き合いでも理解していた。だからきっと、胸に留めておけばいつか千鶴の心を救ってくれるはずだと、大切に受け止めた。
「……うん。怖くなったときは、いまの言葉を思い出してみるね」
「そうしてください」
英玲奈との話が一段落したところで、小学校前の信号に着いた。赤信号で足を止め、並んで待機していると横からぎゅっと抱きしめられ、千鶴は隣を見た。
「えれなと仲良しなのはうれしいですけれど、まりあも構ってください」
「ふふ。英玲奈ちゃんをお見送りしたら、真莉愛ちゃんの番だよ」
子犬のようにすり寄り甘える真莉愛の頭を撫でて答えると、英玲奈が微笑ましそうに二人を見上げて「姉がお世話になります」と苦笑した。
信号が変わり、待機していた人の波が動き出す。一拍遅れて千鶴たちも車道へと足を踏み出した。黄色い旗を持ったボランティアの人たちが、横断歩道に沿う形でそれぞれ旗を掲げて子供たちを見守っている。
対岸に着くと、英玲奈は繋いでいた手を離して千鶴と真莉愛を見上げた。
「それでは、また放課後に」
「うん、行ってらっしゃい」
英玲奈を小学校に見送り、千鶴は真莉愛と手を繋いで高校へと向かう。
高校への通学路は、住宅街を抜けてしまえばあとは国道沿いを真っ直ぐ行くだけで、歩道はガードレールで舗装されている。所々に点在するバス停には、駅を目指す県外の高校の制服を着た生徒が並んでいる。暗色のブレザーやセーラーが犇めく様を見ると、和服を模した臙脂のセーラーという鬼灯高校の制服がいかに特徴的かを痛感する。
「千鶴。昨日は千鶴に会えなくて、とても寂しかったです」
「うん……ごめんね」
「でも、それ以上に、心配でした。まりあは千鶴がどうして先輩方と一緒にいるのか、知っているので……」
「え……知ってるの……?」
出会ったばかりの頃に、簡単に良くないものを引き寄せやすいという話をしたことはあった。だが、それ以上のことは明確に伝えた記憶がない千鶴は、思わずオウム返しをしてしまった。
「まりあが知ったのは、秘密基地事件のときです」
「あ……あのときか……」
千鶴が、家に帰れないまま死んだ子供の魂が作る異空間、通称秘密基地に捕らわれたとき。喚ばれてしまった千鶴を助けるための扉となったのが、真莉愛だった。あのとき桐斗と柳雨と伊月が駆けつけ、真莉愛を通じて救出したのなら、確かにある程度説明がされていても不自然ではない。
「……びっくりしたでしょ。関わるだけで不幸になるし嫌な気分になったりするから、普通の人は近付こうともしないんだって」
「そうですね……驚きました。まりあは全然そんなことはないので……ノエルも千鶴を気に入っているんですよ」
「え、真莉愛ちゃんの旦那さまも?」
「はい。お祭りのときに会って、ご挨拶してもらえたのがうれしかったみたいです」
真莉愛の言葉に、千鶴は一瞬「そんなことで?」と言いかけた。が、自分もある意味似たような理由で真莉愛と伊織に一目惚れしたことを思い出し、その言葉は飲み込んで無かったことにした。
「ノエルさん、凄く綺麗なひとだよね。真莉愛ちゃんと並ぶとほんとにおとぎ話の世界みたい」
「ふふ、うれしいです。式には千鶴も呼びますね」
「神様との結婚でも結婚式ってするんだ?」
「はい。えれなもきてくれるのですよ」
真莉愛のうれしそうな表情を見ていると、千鶴自身も胸の奥が仄かに温かくなるのを感じる。人間同士の結婚式に当てはめた想像が正しいのかはともかく、真莉愛が純白のドレスを着たら似合うどころではなさそうだと思った。
「ウェディングドレス姿の真莉愛ちゃん、綺麗だろうなぁ……」
「千鶴はお着物が似合いそうですね。神前式というのでしたっけ。神様がお相手でも、そう言うのかはわからないのですけれど」
「そういえばそうだね。でも……うん、白い着物はちょっと憧れかも」
珍しく年頃の少女らしい会話をしていたら、学校に着いていた。
朝練に励む運動部の声が遠くに聞こえる中、昇降口で靴を履き替える。教室に向かう途中で、噂話に興じる女子生徒の会話が耳に飛び込んできた。
「なんか、最近変な事件が多いよね」
「龍神様とか犬神屋敷とか、あんなのただの都市伝説だと思ってた」
「あたしばあちゃんちに住んでてさあ、結構そういう話聞いてたんだよね。祭の灯籠は関係ない人は流しちゃいけないとか。今時迷信臭いことばっかして意味あんの? って思ってたけど……」
「そういうの無視した連中がひどい目に遭ってんじゃん? マジなんかあんのかなって思うよね」
真莉愛と連れ立って、立ち話をしているせいとたちの近くを通り抜けたとき、千鶴に遠慮のない視線が突き刺さった。
「……てかさあ、アイツがきてからじゃん?」
「夏休み前だっけ。確かに、言われてみれば……疫病神かよ」
「織辺さんもあんなのと組まされて可哀想」
通り過ぎた背中に、聞こえよがしな会話が投げつけられる。逃げるようにして教室に入ると先ほどまでの刺々しい空気は幾分か和らぎ、千鶴は無意識にそっと息を吐いた。
桜組は然程ではないのだが、他学年や別クラスの生徒からは未だにあからさまな棘をぶつけられる。小学校の事件で少しだけ関わった久木小春のような態度のほうが稀で、単独で廊下を歩こうものなら足をかけられ、階段では事故に見せかけて背中を押されることもあるほどだ。
移動教室の度に真莉愛と伊織の世話になり、放課後には手芸部に寄るという真莉愛に送ってもらって、千鶴は無事百鬼夜行部部室へ辿り着いた。
「あ、千鶴きたきた」
「先輩、もう揃ってたんですね」
千鶴が扉を開けると、四人とも部室に揃っていた。桐斗は扉から見て右手側の椅子に座っていて、その正面には桜司が。奥のソファは伊月がひとりで占拠しており、柳雨は桐斗の背後に立って桐斗に抱きつき、頭上を顎置きにしている。
その様子を千鶴がまじまじと見ていると、柳雨がにんまり笑って手を振った。
「おチビちゃん、どした?」
「いっ、いえ、何でも……」
怪我をした一件から、桐斗と柳雨の距離が以前より近くなった気がして、何故か妙に照れてしまう。千鶴自身真莉愛にくっついては癒されているのだから、別に桐斗たちが同じことをしていようと可笑しなことではないと思うのに、この何とも言えない照れは何だろうかと内心首を捻る。
「千鶴、此方へ」
「はい」
呼ばれるままに桜司の傍へ寄っていくと、手を引かれて膝の上に収納された。最初は恥ずかしくて仕方がなかったこの格好も、いまでは千鶴の落ち着く場所になっている。
「そういえば……部室の備品、少しいいものになったんですね」
室内を見回して千鶴が言うと、桐斗と柳雨が揃って伊月を見た。当の伊月は本に目を落としていて、話すつもりはないと言外に訴えている。
「伊月の手形が凄く溜まっててさ、僕が他意なく何か使わないの? って聞いたらこうなってた」
「じゃあ、この椅子と机は……」
「伊月が買ったヤツだよー」
以前の部室は、会議用の長テーブルを二つくっつけたものが中央にあり、その左右にパイプ椅子が四つ並んでいるという、簡素を極めた状態だった。桐斗の背後に置かれたカラーボックスは彼が玩具をしまうのに買ったもので、それは千鶴も把握している。
いまの部室はというと、木製の長テーブルに肘置きのある椅子が四脚。ソファは元々使っていたものが同じ場所にあり、桐斗の私物入れの他に書類棚が一つ増えている。
「青龍先輩」
千鶴の言葉には素直に顔を上げ、続く言葉を待つ。その対応の差に不満を漏らす声が桐斗たちから漏れているが、伊月は全く意に介していない。
「ありがとうございます」
「別に……余っていただけだ」
言われてみれば、柳雨と桐斗はゲームや服をたくさん買っているが、伊月が買い物をしているところを見たことがない。その瞬間も勿論、新しく購入した品を持っていたり使っていたりするところも見たことがなく、強いて言うなら部室などで読んでいる本が時折変わっている程度だが、聞けばこの本は図書館で借りたものであって彼の私物ではないらしい。
「青龍先輩って、あまり趣味のものを持たないというか、身軽ですよね」
「必要ないからな」
「貴様は着物や反物なら、我より多く持っているであろうが」
「龍神サマのお社、そーいや最近行ってねぇな……あれから増えたのか」
「伊月は和服派かー。背が高いからサラッと着るだけで格好いいのズルいよねー」
「なー」
賑やかなふたりに絡まれても最初は黙して構わずにいた伊月だったが、左右を挟んで囀るふたりの根気に負けて、とうとう相槌を返し始めた。
以前の伊月なら、賑やかなところは避けて、ひとりを好んでいた。変わらない日常の中にも穏やかに変わりつつあるものが存在することが、千鶴はうれしかった。