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鬼灯町の百鬼夜行◆宴  作者: 宵宮祀花
参ノ幕◆龍神様
29/65

夜明けを待つ

「千鶴。傷を」

「えっ、あ……は、はい……」


 そう言われて、小さいながらも傷を負っていたことを思い出し、救急箱を取ってきて手当をしようと思って身動ぎをする。しかし、捕らえている腕の力は僅かも揺るがず、手当をするのではと疑問に思っていると、伊月が千鶴の左手を取り傷口に唇を寄せた。


「!? せ、先輩……!?」


 ぬるりと舌が這い、顔が一気に熱くなる。当たり前に年相応の反応を見せる千鶴とは対照的に、伊月は平静そのもので眉一つ動かない。ただの手当で他意はないとわかっているのに、どうしても動揺してしまう。

 気付けばちりつく痛みが消え、牙の痕は見る影もなく消えていた。


「あ……治った……って、先輩は大丈夫なんですか?」

「問題ない」


 伊月までもが本性の姿になったら、居間が渋滞してしまうと思ったのだが、どうやらその心配はないらしい。


「桐斗は、まだ三百年も生きていない若い妖だ。お前の影響も大きく受ける」

「そう、だったんですね……」


 以前に皆と比べて若い妖であることは聞いていたが、これほどまでに差があるのかと思い知る。桐斗は伊月の言葉を肯定するように一声鳴くと、柳雨の枕元にある肘置きに顎を乗せて、見守る体勢になった。


「柳雨はもう大丈夫だろう。桐斗が見ているようだから、今日は休め」

「そうですね……あとは治るのを待つしかなさそうですし……」


 伊月の言葉に頷きはしたが、どうにも気が進まない。こんなとき桜司がいたら、彼の腕に包まれて眠ることが出来たのにと情けないことが過ぎってしまう。

 ひとりになりたくないが、かといって、桐斗をここから引き離すことなど出来ない。伊月も柳雨を案じているだろうし、千鶴だって叶うなら傍にいたい。だが彼らと違って人間である千鶴は体力にも限界がある。同じように徹夜で看病などすれば、伊月の言葉通り迷惑の上乗せになってしまうだけである。


「ふむ。……五分ほど待っていろ」

「は、はい。……?」


 ぐるぐる考え込んでいると、伊月が一言告げて居間をあとにした。残された千鶴は、去って行く大きな背中を見送りつつ、脳内に疑問符を浮かべるばかりだ。

 柳雨に視線を移せば、先ほどまで苦しげだった表情と呼吸が、だいぶ落ち着いてきているようであった。まだ油断は出来ないが、胴体が縦に裂けそうだった傷が細くなっており、効果が出ているのが目に見えてわかる。


「先輩……もう、いなくならないでくださいね……」


 千鶴は、彼の事情を知らない。なぜここにいるのかも、なぜ故郷を捨ててきたのかも何一つ知らない。けれど、いまでは千鶴にとっての日常には、柳雨の存在も欠かせなくなっていた。そのことがいつか彼にも届いてくれればいいと、強く祈った。


「待たせた。行くぞ」

「えっ、はい」


 反射的に答えてから、結局何だったのかと首を捻る。あとを追いかけて、ふと背後を振り返り、千鶴は桐斗に「お休みなさい」と声をかけた。すっかり猫の姿に落ち着いた桐斗はまた一声鳴くと、ゆったりと大きな三尾を揺らして見せた。

 伊月の行き先は、桜司と千鶴の寝室のようだ。この寝台は部員全員が横になれるほど広く、また、縦幅も伊月の身長をゆうに超えるほどある。


「千鶴」

「はい……?」


 呼ばれるままに傍へ寄ると、横抱きに抱え上げられ、そのまま寝台に寝かされた。


「え、と……青龍先輩……?」

「なんだ」


 唐突に視界が反転して驚いているうちに、伊月も隣に潜り込んできていた。仰向けで眠るとき左手側にいつも桜司がいるのだが、そちらは大きくあいており、伊月は千鶴の右手側に横になっている。そして困惑する千鶴を抱き寄せ、小さな頭を優しく撫でた。


「お前は、出来ることをした。だから、今日は休め」


 不器用でぎこちない手つきだが、とても優しく温かい手のひらだった。低い声が胸の奥まで染み込んでくるようで、千鶴は静かに涙を流した。


 怖かったのだ。どうしようもなく。

 彼の神の餌にならないためには、皆の力を借りねばならない立場であることは、嫌というほど理解している。だというのに、柳雨が瀕死の怪我を負ったことで、己のために誰かが命を落とすこともあるかも知れないと、眼前に突きつけられたのだから。


「……お休みなさい、青龍先輩」


 いつの間にか雨は止んでいて、静寂が室内を包む。広い胸板に頬を寄せると、伊月の心音が穏やかに響いてくる。規則正しいその音を聞いているうち、徐々に意識が夜闇に溶けていった。


「…………」


 夜が、音もなく更けていく。切り裂かれた日常の欠片を包み込んで、緩やかに癒していくように。眠る千鶴の頬に残る涙の痕を拭い、伊月は細い体を抱きしめた。


 一方。

 居間に残った桐斗は、肘置きを枕にしたまま眠っていた。体内で暴れ狂った霊力も、いい加減その気になれば抑えられるのだが、眠っている柳雨の傍にいるには、猫の姿のほうが都合が良いからだ。


「…………ぅ、んっ……」


 不意に柳雨の呻く声がして、桐斗は目を開けて顔を覗き込んだ。青白かった顔色も、命の危険しか感じられなかった大きな傷も、すっかり見違えている。末端の細かい傷に至っては、どこにあったのかもわからないほど綺麗になっていた。

 ただ一箇所だけ。右目を縦に走る傷は、どういうわけか消えずに残っている。

 ゆっくりと、柳雨の瞼が押し上げられていく。暫く紅い瞳がぼんやり彷徨って、ふと頭上で止まったかと思えば、下手な苦笑を浮かべた。


「子猫ちゃん、でけえな……成長期か?」

『第一声がそれ!?』


 人間には猫の鳴き声にしか聞こえない桐斗の叫びに、柳雨はくつくつと喉を鳴らして笑った。まだ重たい腕をどうにか上げて、桐斗のふわふわとした顎を撫でる。反射的、本能的に喉が鳴ってしまうのを悔しく思いながらもされるがままにしていると、柳雨は小さく「ごめんな」と言った。

 それに驚いたのは桐斗で、うっかり人の姿に戻ってしまった。


「なーに、らしくない。道草食ってお腹でも下したの?」


 肘置きに頬杖を突いて見下ろしながら桐斗が言うと、柳雨は少しだけいつもの調子を取り戻した笑みを浮かべた。


「ひっでぇなぁ……オレ様だって悪いと思ったら謝るんだぜ」

「ふぅん。そう思うなら、僕より千鶴に謝んなよ」

「おチビちゃんに?」


 不思議そうに問う柳雨だったが、ふと口の中の違和感に気付いた。最初は怪我をしたせいで鉄錆の味がするのかと思っていた。けれど、自分の血と他者の血の違いくらいはわかる。そこに神と人の差があるなら尚更だ。


「これ……おチビちゃんのか……どうりであのエグい傷が治ってるわけだ」

「そーだよ。柳雨は千鶴のこと泣かして心配かけたんだからね。おーじが帰ってきたら怒られるよ」


 ふくれっ面を作って言う桐斗を見上げ、柳雨は丸い頬を指先で突っついた。


「子猫ちゃんは泣いてくんねーの?」

「ばーか」


 悪戯な柳雨の手を掴み、反撃のつもりで手首を甘噛みする。あれほど全身傷だらけで目も当てられない状態だったのが、青白く冷え切った肌をしていたのが、ほぼ元通りになっていた。掴んだ手も温かく、命が通っているのだと実感する。


「柳雨なんかのために泣いたりするもんか」

「冷てえなー子猫ちゃんは」


 掴んだ手に力を込め、赤らんだ目元で、桐斗はけらけら笑う柳雨を睨んだ。思い切り泣いたことなど腫れた目を見ればすぐにわかるだろうに、敢えて触れずに笑うところが大嫌いで、安心するのだ。


「それより、もう逃げないでよね。千鶴、凄く心配してたんだから」

「へいへい、おチビちゃんがねえ」


 桐斗が、いやに含みのある柳雨の物言いにムッとして見下ろすと、柳雨は桐斗の頭をくしゃりと撫でた。いつもの雑な撫で方とは違う優しい手つきに、桐斗は眉を寄せる。


「子猫ちゃんが素直になったら、考えてやってもいいぜ」

「は……」


 空気が抜けたような、乾いた声が漏れた。

 本当にらしくない。そう言いかけて、しかしそれはお互い様だと桐斗は自嘲する。


「ほんとに?」

「おう」


 じっと、睨むように見つめてから、桐斗は諦めて嘆息した。きっといまを逃したら、こんなにもしおらしいことは一生言えないだろうと思ったから。


「……じゃあ、いなくならないで」

「おう、わかった」


 あまりにもさらりと言い切られ、桐斗は眉を寄せて柳雨の顔色を窺った。相変わらず飄々とした読めない表情で、深い緋色の瞳で、複雑そうな様子の桐斗を見上げている。


「ほんとに、約束する?」

「ああ、約束だ。この意味がわからない子猫ちゃんじゃねえだろ」

「うん……」


 約束は呪詛だ。対象を言葉で縛り、その通りに行動させる呪詛。ゆえに怪異は人間に問いを投げかけ、都合の良い答えを得ようとする。妖や神にとっての約束は人間同士で行われる約束以上に重い意味を持つ。人は約束を破れるが、神は約束を破れない。

 桐斗は柳雨の頬に涙の雨を降らせ、小さく「約束、したからね」と呟いた。


「泣くなって」

「っ……泣いて、ないもん……」


 くしゃくしゃと頭を撫でると、涙の雨が本降りになっていく。柳雨は愛おしげに苦笑すると、桐斗の頬を手のひらで包んで優しく撫でた。


「おいで。ソファだけど、いつもみたいに寝ようぜ」

「ん……」


 濡れた目を擦りながら、桐斗はソファを迂回して柳雨の上にうつ伏せで寝そべった。傍らに積まれていた大きなバスタオルを一枚取ると、それを掛け布団代わりに羽織る。見ているほうが痛くなりそうな切傷は痕跡も見当たらなくなっていて、桐斗は安心して広い胸に頬を寄せた。

 とくとくと、命の音が聞こえる。頬には馴染みのある体温が感じられ、後頭部を覆う手のひらは優しく大きい。いつもなら「しおらしいと気持ち悪い」と互いに悪態をつくところだが、今日だけはどちらも黙って気付かないふりをした。


「……生きてる」

「おうよ。お前さんと、おチビちゃんのお陰だ」


 そう言ってから、柳雨はゆるりと首を振った。


「いや……運んだのは龍神サマで、ここは狐のが持つ領域か。結局、全員に助けられたわけだな……なにも告げないで、勝手に出て行ったのに」

「そうだよ。もう逃げられないんだよ、僕らは」

「ははっ、そうだな……オレ様も、なんで戻ってきたのかわかんねーし。そういうことなんだろうな」


 桐斗のやわらかな髪を撫で、目を閉じる。

 時刻は日付を跨ぐ頃。肉体に受けた傷は癒えても、圧倒的な力量差を思い知らされた精神的な傷は、まだ暫く癒えそうにない。

 彼の神に戯れに襲われたとき、真っ先に柳雨の頭に浮かんだのが、この社であった。皆には迷惑をかけられないと過ぎったのは一瞬で、迷いなく真っ直ぐに『帰還』した。朱色の鳥居を越えたとき、帰ってきたのだと安堵した。意識を失う寸前の、己が抱いた偽りのない安堵により、柳雨はこれまで目を背けてきた自身の心を直視したのだった。


「お休み、子猫ちゃん」


 胸の上で眠る桐斗の体温を噛みしめながら、柳雨も徐々に呼吸を深くする。


「……オレ様も結局、籠の鳥だったってわけか」


 それを悪くないと笑って言える程度には、柳雨はこの場が気に入ってしまっていた。

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