歪な神の謀
信じられない気持ちで、千鶴は桐斗の傍まで歩み寄っていく。しかし見間違いでも、気のせいでもなく、そこに倒れているのは暫く見なかった柳雨で、傷が深いのか意識を失っているようだ。辺りに千切れた黒い羽根が散っていて、それらも含めて血だまりに沈んでいる。
「あ……赤猫、先輩……」
震える声で千鶴が桐斗を呼ぶ。桐斗の顔は何故か上空を向いていて、それに気付いた千鶴も視線を追うようにして頭上を見る。と、そこには見慣れない人影があった。
さも当然の顔をして宙に浮き、ソファで寛いでいるようなゆったりとした格好で足を組んでいる。長い金の髪がさらりと風に靡き、暗銀色の瞳が愉しげに弧を描く。服装は日本画で見る天女のそれに似たやわらかな和装で、絵画同様に白い羽衣も纏っている。
「おお、千鶴や。息災のようでなによりじゃ」
呆気にとられて見上げている千鶴に、謎の来訪者は鷹揚に声をかけてきた。その声と口調は、暫く会っていなかった親戚筋の人間のように親しげで、千鶴はただでさえ頭が回らずなにが何だかわからないのに、余計に混乱してしまった。
「ほほ。覚えておらぬかえ。無理もない。そなたと最後に逢うたのは、まだ四つになる前のことであったものなあ」
口元を袖で押さえながら、ころころと笑って言うその言葉。愉快そうな声に、千鶴は覚えがあった。幼い頃に夢の中で聞いた、あの声。自分を賞品のようにやりとりした、あの声たちの片割れだ。
「あ……なた、は……どうして……」
「おお、思い出したかえ。うれしいのう」
にこやかに、親しげに、真上から言葉を下す。千鶴の足元にいる桐斗からはピリピリした空気が伝わってきて、上空と地面との温度差に火傷しそうだった。
彼の来訪者は、千鶴が罪の魂として生まれてくる羽目になった全ての元凶であった。桜司ひとりでは対処が難しいと判断されて他の神や妖に協力を仰いだという、あの。
いまこの場でまともに動けるのは桐斗だけだ。そして桐斗は、防壁を作るのに長けているものの撃退に関しては全くと言っていいほど不得手である。そして相手は桐斗とは比較にならないほど格上の神族。桐斗もそれを理解しているからこそ、なにも言わずに警戒だけをしているのだ。
そんな、下々の者たちを可笑しそうに眺め下ろし、彼は笑って言った。
「なに、いますぐそなたをどうこうする気はないわえ。人の世では、生簀の魚が元気に育って居るか確かめるのも、生産者の務めなのであろ? 人の世にあるものを育てるのならば、人の世に倣おうと思うたまでじゃ」
ぞわりと、背筋が粟立った。
捕食者と被捕食者の、絶対的な立場の差をやわらかく突きつけられたのだ。彼の声はどこまでも優しい。それは子や孫を慈しむ大人のものではない。家畜にはストレスなく美味しく育ってほしいと願う、畜主の声だ。
自然界では、人間も稀に被捕食者の立場になることはある。だがそれは、山道や海で大型肉食獣などに襲われる場合が殆どだ。いまの千鶴のように優しく大事に育つ様子を見守られるなど、体験しようはずもない。
戯れに人の世に倣うと言いながら、平然と人を食料として見る空恐ろしさに、千鶴は小さく身震いをした。言葉を交わせるだけで、此方の言葉を受け入れる器は、彼の中に存在していない。
「其処な鴉は我から家畜を掠め取ったゆえ、仕置きをしたに過ぎぬ。此度は許したが、次はないぞえ」
そう優しく言い添えたときだった。
突然空に暗雲が立ちこめ、ひとすじの雷光が天を走った。雷が真っ直ぐに彼のものを貫かんと激しい豪雨と共に降り注ぐが、一瞬早く来訪者が姿を消した。
「きゃあ!」
鼓膜を劈くような雷鳴に、千鶴は反射的に頭を抑えてしゃがみこんだ。遠い空から、上品な笑い声が響く。
――――年が明け、そなたが熟したとき、再びまみえようぞ。
その声を最後に、望まぬ来訪者は姿を消した。あとに残された千鶴と桐斗は、呆然とその場に座り込んでいた。が、柳雨小さく呻き声を漏らしたのに気付き、ハッとなって顔を覗き込む。
「先輩、血が出てる上に体を冷やすのは危険ですから、一緒に運びましょう」
「うん、そう……だね……ごめん、手伝っ……」
「その必要はない」
鳥居のほうから低い声がして、ふたり揃って振り向いた。そこには、濃紺の着流しを纏った伊月が佇んでいた。伊月は真っ直ぐに千鶴たちの元へ歩み寄ると柳雨の傍に膝をつき、濡れた体を慎重に抱え上げて社の奥を目で示した。
「戻るぞ」
「はい……」
柳雨を抱えた伊月のあとを、千鶴と桐斗は手を繋いで着いていく。
玄関を抜けると、千鶴は脱衣所からタオルを抱えられるだけ抱えて居間に向かった。大きなバスタオルを二枚敷いてその上に柳雨を寝かせると、着物を寛げ、様子を見る。
着物が黒一色であるためにわかりにくかったが、傷は想像以上に深いようだ。肩から腰へと真っ直ぐに切り裂かれており、傷口の周囲は火傷のようになっている。他にも、長時間いたぶったような細かい傷が全身についていて、その全てに赤黒い血と焼け痕がこびりついている。
胸の傷も大きく目立つが、なにより目立つのは右目の傷だ。深く刺し貫いた上で縦に切り裂いたような傷は、攻撃者の底知れぬ怨嗟さえ感じるほどだ。
「ひどい……」
鬼灯神社の周辺に、強い怒りにも似た豪雨が降り注ぐ。本殿の奥にある居間にまで、殴りつけるような雨音が響いてくる。柳雨の傷を確かめる伊月の、いつになく鋭い目が静かな怒りを湛えていて、千鶴は小さく身震いをした。
「青龍先輩、赤猫先輩も、タオル使ってください」
「ありがと。……千鶴は、先にお風呂行っておいで」
「えっ、でも……」
こんなときに、自分一人暢気にお風呂に入るのは気が引けると遠慮しかけた千鶴に、伊月の視線が突き刺さった。
「行け。風邪を引かれたら、看病する相手が増える」
「っ……はい。お先に失礼します」
外の雨にも負けない、低く冷たい声だった。けれど、同じくらい優しい声だった。
持ってきたタオルは居間に預け、一度着替えを取ってから風呂へと向かう。気遣いを無駄にしないよう、急ぎつつもしっかりと体を温めて、それと同時に明らかに動揺してしまっている心を可能な限り落ち着ける。
「いつかは相対しないといけないんだって、わかっていたはずなのに……全然わかってなかった……わたしは、こんなにも、なにも出来ないんだ……」
彼の神と相対したとき、千鶴は己が神に捧げられる仔羊に過ぎないのだと自覚した。どうしようもなく、埋めようのない力の差というものは存在するのだと思い知った。
浴槽で膝を抱え、それでも深呼吸をして暗い考えを吐き出していく。少しでも湯気に溶かして、先ほどよりはまともな顔色で戻らなければならない。伊月の言う通り、看病対象を増やすわけには行かないのだから。
部屋着に着替え、ずぶ濡れになった制服をネットに入れて洗濯機に預けると、千鶴は居間に戻った。
「戻りました。黒烏先輩は……?」
「千鶴……」
泣きそうな顔の桐斗が、弱々しい声で千鶴を呼ぶ。呼ばれるままに桐斗の傍に行って膝をつくと、ずっと限界だったらしい桐斗が千鶴の胸に顔を埋めて泣き出した。
「……傷が、塞がらない」
ぽつりと、伊月が低く呟いた。その声に桐斗の啜り泣く声がより増して、彼の言葉が気のせいでも冗談でもないのだと理解する。
「塞がらないって……」
「柳雨は仮にも、俺と同等の神族だ。神蛇やその辺の妖などより余程力がある。なのに治癒の力が全く働いていない」
難しい顔をして、伊月は柳雨の胸を縦に走る大きな傷に指を這わせた。途端、指先がチクリと痛み、電流が流れたように黒ずんだ。
「そう、か……この傷は……呪詛、だな……」
「う、うそ……っ」
ぼろぼろと大きな瞳から涙が転がり落ち、桐斗の頬を濡らしていく。赤らんだ目元が痛々しく、千鶴は子細が把握出来ないなりに非常事態なのだと察し、泣き続ける桐斗の頭を撫でた。
「呪詛の傷は、自然治癒しない。そして基本的に、術者にしか癒やせない」
「そんな……それじゃあ……」
苦しげに顔を歪め、浅く荒い呼吸を繰り返す柳雨を見る。故郷でなにがあったのか、どうして傷つく羽目になったのか、千鶴にはなにもわからない。知りようもない。だが変えられない過去はおろか、これからの助けにもなれないのはあんまりではないのか。
柳雨の手を取ると、雨と失血でひどく冷え切っていた。
「黒烏先輩……」
思わず涙が溢れ、祈るような気持ちで大きな手のひらを自らの頬に添えた。熱い涙が柳雨の手を濡らし、伝い落ちる。と、その手がピクリと動いて、千鶴は目を瞠った。
見れば、柳雨の手にあった細かい傷がとけるように消えていた。
「あ……」
そこで、千鶴は自身の体質を思い出した。
神が求めるほどの力を持つ魂。その入れ物である肉体もまた、強い力を帯びている。千鶴の意思でそれをどうこうすることは出来ないが、涙一つで小狐が二尾になったのは記憶に新しい。抑も、桜司の外出理由はそれではなかったか。
「……先輩。わたしなら、助けられませんか?」
「残念だが、涙だけではこの傷は癒やせない」
「それなら……もっと強いものを使えばいいんですよね」
伊月と桐斗が、息を飲んで千鶴を見つめる。彼らも、手段があるのならそれで柳雨を助けたい思いはあるのだろう。同時に千鶴を傷つけることへの躊躇いもあり、自ずからそれを言い出せなかったのもよくわかる。
「でも……っ、千鶴が傷ついちゃうよ……」
「黒烏先輩の痛みに比べたら、どうってことないです。それにずっとなにも出来ないで護られてばかりだったわたしが役に立つなら、使ってほしいんです」
沈黙が流れる。こうして黙っていても傷は塞がらない。彼の神に頼んで呪詛を解いてもらうなど、それこそあり得ない。ならば方法は一つしかない。初めからわかりきっていたことだ。
「……わかった。こんな傷一つ一つに処置してたら明日になっちゃうし、手っ取り早くいくよ。千鶴の負担も軽いほうがいいしね。伊月もいい?」
「……ああ。仕方ない」
「じゃあ、やるよ」
手を貸して。との桐斗の言葉に、千鶴は左手を差し出した。その手を取ると、桐斗は手首の内側に唇を寄せ、ぷつりと牙を突き刺した。
「っ……!」
痛みにビクリと肩が跳ねるが、手を引いてしまわないようじっと耐える。暫くして、血が吸い出される感覚がしたかと思うと桐斗が離れ、柳雨に覆い被さった。
「んっ……」
舌で無理矢理唇をこじ開け、吸い取った血を喉に流し込む。なるべく多くを柳雨へと明け渡すため、口の中を小さな舌で蹂躙した。柳雨の喉がこくりと上下し、苦しそうに眉が寄せられる。
「はぁ……っ、あー……もう、僕まで……っうあ、ヤバい、な、これ……」
口移しをし終えたかと思うと、桐斗は柳雨が寝ているソファの傍に崩れた。肩で息をしながら、小さく首を振る。そのとき、桐斗の背後で揺れていた二尾がぶわりと膨れ、白い長毛の三尾になった。同時に、ソファにしがみついている手の爪も鋭く獣のそれに変化し初めた。
「あ、の……大丈夫ですか……?」
「離れていろ」
心配して傍に寄ろうとした千鶴を、伊月が抱き止める。
不安げに見守る中、桐斗の霊力が膨張し、千鶴の身長と同じくらいの大きさの化猫に変化した。
「人型を保てなくなるほど、か……」
大型の白猫になった桐斗は、漸く霊力の暴走が収まったのか、その場に箱座りをして柳雨に視線をやった。いまは人型に戻れないらしく、あきらめ顔で落ち着いている。
本来の目的である柳雨はというと、僅かも塞がる気配がなかった大量の傷が見る間に塞がっていくのが見えた。まるで治療の段階を早送りで見ているような光景が、映像を通さず目の前で繰り広げられている。
これなら夜が明ける頃には治りそうだと、千鶴たちは安堵の息を吐いた。