結局仲良し
「うわああ!?」
九月も半ばのある日の朝。千鶴は、桐斗の叫び声で目を覚ました。
羽織を引っかけて寝室を飛び出し居間へ駆け込むと、桐斗が涙目で飛びついてきた。
「千鶴ー! 柳雨がいじめるー!」
「人聞き悪いなぁ」
千鶴に泣きついている桐斗に対し、柳雨はけらけら笑いながらゲームを続けている。ふたりの様子からして深刻な事態ではなさそうだと判断し、千鶴は一先ず桐斗を宥めて話を聞くことにした。
「それで、いったいなにがどうしたんですか?」
ソファに腰掛け、横から桐斗にしがみつかれた格好のままなにがあったのか訊ねた。画面にはブロックやパーツを積み重ねて建物を作るゲームが映し出されており、柳雨が手際よく大型建築物を建てる様子が流れている。
「センリから、手形……えっと、前に話した人助けポイントがすっごい溜まってるからそろそろ交換においでって連絡が来て……」
「え……それは良いことなんじゃ……?」
桐斗が普段がんばって手形を溜めていることを知っている千鶴が、素朴な疑問を口にすると、桐斗は首を横に振って「違うんだよー」とか細く鳴いた。
「僕が溜めた分じゃないの……なんか……いつの間にか入ってて」
「えっ」
千鶴が驚いて思わず柳雨を見ると、柳雨はにんまり笑って見せた。
「おチビちゃん、なんかあるとオレ様疑うの良くないぜ」
「違うんですか?」
「まあ、オレ様だけど」
「やっぱりそうなんじゃないですか!」
「あっはっは」
全く反省していない様子で笑い飛ばされ、溜息を吐きつつ桐斗を撫でる。
柳雨と桐斗はなにかある度に桐斗が泣かされて、柳雨が笑いながら桐斗を宥め賺し、最終的にいつの間にか仲直りしているのだ。今回もその類だろうといい加減慣れてきた千鶴がここぞとばかりに桐斗のさらさらした毛並みを堪能しているのを、柳雨も桐斗も気付いている。そして桐斗は桐斗で千鶴に撫でられるのは好きなので、桜司の居ぬ間に堪能しようと黙ってくっついていた。
暫くそうしていると、小狐たちへの指示などの用事を済ませてきた桜司が合流して、桐斗の逆側、千鶴の隣に腰を下ろした。
「何事だ」
「わたしもよくわからないんですけど、赤猫先輩の手形? が、たくさん溜まってて、それが黒烏先輩の仕業らしいってことくらいしか……」
困惑気味な千鶴の説明を受け、桜司は小さく「ふむ」と呟いてから、納得したような顔になって桐斗の頬を突っついた。
「これ猫、嫁を離せ」
「ぶー」
不服そうにしながらも桐斗が解放すると、千鶴は早速桜司に確保された。肩を抱いた格好で千鶴を撫で回しつつ、桜司は呆れ混じりの口調で零す。
「全く、面倒だからと嘘屋から寄越された手形を猫に押しつけるとは」
「だってオレ様、前回はちょっともらえたし。子猫ちゃんは出番がなかったからさあ」
「だからって僕に黙って僕の手形使わないでよねー! びっくりしたんだから! 突然身に覚えのない大金が振り込まれたら何事かと思うでしょふつー!」
一頻り吼えてから、桐斗は手の中に和紙を束ねた台帳を現すと、ペラペラめくった。表紙には二尾の猫をモチーフにした朱色の印が捺されていて、中には千鶴には読めない文字で何事かびっしりと書かれている。
「アイツはちょっとしかないっつってたけど、どんだけ入ってたんだ?」
「最新のゲーミングパソコンとゲームソフトがいくつか買えるくらい」
「うっわ、えっぐ」
半笑いで言ってから、柳雨はゲームの手を止めて、自分の台帳を現した。なにもない空間からものが出現したり着物が部屋着に変化したりといった手品めいた行動は、何度目の当たりにしても驚いてしまう。
「おチビちゃん、息してるかー?」
千鶴がまじまじと見ていることに気付いた柳雨が、手をひらひら振って見せた。
「! あ……ごめんなさい、ぼうっとしてました」
「そういや、おチビちゃんはこれ見んの初めてか」
「はい。それが以前言っていた、人助けするともらえるものですか……?」
「だな。花屋街に登録すると、一人一冊配られるんだ。で、がんばった分が中に勝手に記帳されてくってわけ」
基本的な形はどちらも同じ、上部を紐で綴じた和紙の束で、桐斗の表紙は朱色で猫が描かれていたのに対し、柳雨のほうには黒い鳥が描かれている。
以前に、センリという名の狸の妖が全てを見通して働きに見合っただけの額を与えているという話は聞いたことがあるが、まさか台帳が存在するとは思わず、感心しながら桐斗の台帳をじっくり見つめた。
「気になったんですけど……それ、盗られたりしないんですか?」
「あー、それなら……子猫ちゃん」
「ん」
「見てな」
それだけ言うと、柳雨は桐斗に片手を出して見せ、桐斗は柳雨に自分の台帳を投げて渡した。それと入れ替わるようにして、柳雨も桐斗に台帳を投げ、互いに相手の台帳を手にした瞬間、なにも言わずに一度消して見せてから、手の中に再び現した。すると、先ほど入れ替えたはずの台帳がそれぞれ自分のものになっていた。
「とまあ、こんな感じでな」
「もし盗られたりどっか置いてきちゃったりしても、消して戻せば元通りってわけ」
「一応破れても水に落ちても火に突っ込んでも戻りはするが、センリに叱られるから、取り扱いは慎重にってな」
「凄い……便利ですね」
「まーねー」
そう答えながら台帳をひらひらさせていたかと思うと、突然「よし!」と声をあげて立ち上がり、千鶴に手を差し伸べた。
「花屋街行こ! 僕が案内したげる!」
「えっ? えぇ? わ、わたしが行っても大丈夫なんですか?」
突然の申し出に、千鶴は桐斗と桜司を交互に見た。桜司は暫く考えてから千鶴の肩をぽんと叩いて頷いた。
「行ってこい。我のものを身につけて居れば、そうそう手は出されまいよ」
「やったー!」
千鶴は満面の笑みで喜ぶ桐斗に手を引かれて立ち上がると、桜司を見下ろした。金の瞳が細められ、千鶴が不安そうにしているのを察して桜司も立ち上がる。
「支度をしてくる」
「あいよ。子猫ちゃんも気ぃつけてな」
「わかってるよー」
ふたりに続き、千鶴も困惑しつつ柳雨に「行ってきます」と声をかけ、居間をあとにした。残された柳雨はゲームを鼻歌交じりに再開させ、そんな一連のやり取りを、本に目を落としながら伊月が静かに聞いていた。
桜司たちの寝室まで来ると、桐斗は一瞬で外出着に着替えた。祭の夜に見たような、フリルが多く使われた丈の短い和服に膝上の足袋型ソックスをあわせ、それから頭には猫のお面を斜めがけにしていた。
「お主にはこれを渡しておこう」
「鈴……ですか?」
「うむ。玉は入って居らぬが、お主の身に危険が迫ると音が鳴るように出来て居る」
言いながら、千鶴の左手首に紅い組紐を括り付ける。紐の両端についた鈴は、桜司の言葉通り、試しに手を振ってみても何の音もしなかった。
「それから、名も与えておかねばな」
「……?」
「花屋街で人間が本名をばらまいちゃうと、力のある妖に名前から魂を抜かれたりして危ないんだよね」
「えっ」
不思議そうな顔で桜司を見上げる千鶴に、桐斗が横から説明した。衝撃的な内容に、千鶴は言葉を失って桐斗を見る。が、不安に駆られた千鶴を宥めるように、桜司の手が千鶴の頭を撫でる。
「それゆえ、いまからお主に仮初めの名を与える。我に正しい名を呼ばれるまでお主は自身の名をそれと認識することになるゆえ、うっかり口を滑らすこともない。安心して観光して参れ」
「……はい」
千鶴が頷いたのを満足そうな顔で見下ろし、桜司は千鶴の頭に手を乗せたまま小さく息を吸った。そして、
「桜」
と、一言。瞬間、千鶴の視界が白く弾けた。甘栗色だった髪は淡い桜色になり、瞳は紅く染まっている。自身の変化を自覚できずにいるためきょとんとする千鶴を、桜司は満足げに笑って見つめ、頭をくしゃりと撫でた。
「さあ、桜。せっかくの観光だ。一等良い服を着て参らねばな」
「はい」
千鶴――否、桜はそれまでの名を忘れ、違和感を抱くことなく頷くと桜司に続いた。箪笥から夜桜柄の着物と帯、帯飾りなどの一式を取り出して、ふたりがかりで着付けてもらう。最後に桜の髪飾をつけると鏡の前で立ち姿を確認して、桜司を見上げた。
「どうでしょう……変じゃないですか?」
「お主はなにを着ても似合うぞ」
「イチャつくのはあとにしてー」
桐斗が頬を膨らませながら抗議するのを、桜司は笑って流し、桜は照れて俯いた。
「そうだおーじ、一応僕にも」
「仕方ないな」
桐斗の頭に手を乗せ、小さく呟く。その内容は桜には聞こえなかったが、桐斗は顔を上げると「ありがと」と言って微笑んだ。そして桜に向き直り、手を差し出す。
「さ、行こ! すごく綺麗なところだから、気に入ってもらえるといいな」
「はい」
桐斗に支えられながら桜が玄関で慣れない草履を履くと、ふたり揃って振り返って、見送りに来た桜司に「行ってきます」と言い、手を繋いで玄関扉を越えた。
「わあ……!」
扉の先は、祭の夜を思わせる色彩が広がっていた。宵の空に、橙の灯り。朱色の柱に白い壁の建物が並び、暗色の屋根には鴉や猫が所々に見える。昔ながらの日本家屋ではあるものの、鬼灯町以上に背の高い建物が建ち並んでいるため、上を向いていると首が痛くなる。空にも街にも果てがなく、通りには見たこともないような姿をした妖たちが当たり前のように闊歩していた。
桐斗たちが入口として使っているのは大通りから少し外れた路地にある小さな家で、表札には達筆な文字で『八百狐』と書かれている。
「これは?」
「アイツのこっちでの名前だよ。妖ぶって紛れ込むときのためのやつ。千狐のくせに、二百年もさば読んじゃって」
「ふふ。先輩たちって人の名前以外にも名前を持ってるんですね」
「ん……まあね」
どことなく歯切れの悪い桐斗を、桜は不思議そうに首を傾げて見つめた。
「僕は別に、妖としての名前はないからさ。ほら、僕って野良の集合体だから個人名をつけてもらったことがないっていうか……人間名は皆であわせて考えたやつだし……」
「そうだったんですね」
全員の名を聞いたとき、色と本質を現す文字が入っていること、それから花札で名を揃えているところなどからそんな気はしていたが、やはりそうだったのかと納得する。桜は依然元気のない桐斗の手をきゅっと握ると、腕を絡めてくっついた。
「先輩も、人として紛れるためのとは別の、自分だけの名前がほしいんですか?」
「…………」
桐斗はなにも言わない。が、小さく控えめに頷いた。
以前、桜司が言っていた。人によってつけられた傷は、人にしか癒やせないと。その理屈で行くならば、名も無き野良猫に名を与えられるのは人なのではなかろうかと桜は思った。
「それって、わたしが考えてもいいものなんでしょうか……?」
「えっ」
驚きに見開かれたまん丸な瞳で見つめられ、桜も少し驚いた。似たような表情で暫し見つめ合ってから、桜は言葉を選びながら続ける。
「赤猫先輩は桜司先輩のところに住んでいるので、親というか、その……」
「飼い主?」
「そ……そんな感じの存在は、桜司先輩なのではと思ってて」
「アイツにそんな気はないし、名付けるつもりならとっくにそうしてるよ。だからさ、いつか桜が付けてよ。名前をもらう前に死んだ子猫の名前」
「はい、先輩」
桜が頷くと、陰っていた桐斗の表情が明るくなった。
手を繋いで細い路地を出ると、多くの妖で行き交う大路へ出た。この大路は真っ直ぐ北上すると花屋に通じている所謂メインストリートで、この通りに店を出している妖は格が高いものばかりだという。その分プライドが高いものもいれば、気さくな商店街のおばちゃんのような妖もおり、それを見極められるようになるまでは近寄らないことを桐斗に奨められた。
「見極められるくらい通うことになるんでしょうか……」
「嫁入りしたら、そうなるんじゃない?」
「なるほど……」
人の枠から外れるなら、それもあるのかと納得する。すれ違う妖は誰も彼も和装で、時代がかった格好をしており、現代服を身につけているものはいない。ここへ来る前、流れるように着物を薦められたのはこういう理由もあったのかと思った。
「そうでなくても、またこうして連れてきてあげる。桜さえ良ければだけど」
「はい。先輩と一緒におめかしして、また来たいです」
「えへへ、じゃあ、気が早いけどまた来ようね」
やわらかく笑い合い、宵の祭の道を行く。見上げるほど大きな体の妖もいれば、桜の腰ほどの身長しかない小さな妖もいる。特に小さい妖とぶつかってしまわないよう気をつけて、桐斗の案内を聞きながら進んで行った。




