夢幻の如くでも
小春が学校に着いたときには、間もなく昼休みが終わろうとしていた。登校の途中でコンビニに寄ってきたが、昼食をとっている時間はなさそうだ。
溜息を吐きつつ鞄を置いて席に着く。日常の喧騒に紛れれば気分も変わるかと思って来てみたが、却って疲れが増すような心地だった。
「おそよう。なんか大変だったんだって?」
無理をせず家に帰って休んだほうが良かっただろうかと思っていると、友人が小春を囲んで声をかけてきた。彼女たちは中学からの付き合いで、その頃から同じ吹奏楽部に所属する部活仲間でもある。
小春は溜息を追加して頷き、鞄から小物類を取り出しながら答えた。
「妹が、ちょっとね」
「ふぅん……大丈夫なの?」
「うん、別に死ぬようなことじゃないし」
実際は死にかけていたのだが、いちいち出来事を初めから説明するのも煩わしいと、端的に言うだけで済ませた。
「鬼灯小っていえば、昨日も女の子が一人歩道橋から落っこちたりしたしさ、最近変な事故とか事件多いよね」
「それうちの妹なんだけど」
「あ、そうだっけ……ごめん」
「いいけどさ。結構知られちゃってるみたいだから」
話題を変えるつもりで友人が話し始めた内容は、変わっているようで実は続き同然の出来事だった。なぜなら歩道橋から落ちた子の近くにいたのが、小春の妹だからだ。
そこまでの情報は出回っていないらしく、友人二人は他人事のように話し続ける。
「もういっそ、黄昏郵便に手紙出したら何とかならないかな」
「この前だって吹部だけで四人死んだし、小学生も夏の自殺あわせたら四人でしょ? うちの妹は怪我だけで済んだけど……」
ぼんやり聞き流していた小春だったが、耳慣れない単語が出てきて顔を上げた。その視線を受け、友人二人もどうかしたのかと話を止めて小春に向き直る。
「黄昏郵便ってなに? また変な都市伝説?」
「うん、まあね」
「なんか、神様に直通の郵便ポストがあるみたいな噂。警察とかじゃどうにもならない悩み事を書いて送ると助けてもらえるんだって」
「へぇ……」
話を振った二人も風の噂で聞いた程度で心から信じているわけではないため、小春の気のない反応にも特に気分を害したりせず、再び噂話に戻っていった。
鬼灯町で生活していると、この手の話題には事欠かない。真面目腐った顔で年寄りが話して聞かせる教訓話から、中高生が好きそうな噂のネタまで様々ある。年寄りの言うことはオカルトを通さずに聞けば「川は流れが読めないから奥まで行くな」だったりで実際に役立つ教訓であることも多いのだが。そうでないものまでなにもかもをいちいち本気にしていたらキリがない。
小春も人並みに噂話には興じるが、その内容を聞いたまま信じるほど単純ではない。先ほどの話題も、出所不明のよくある都市伝説としていつも通り聞き流せばいい。そう思っていたのに、なぜか意識の端っこにしつこく引っかかって仕方がなかった。
そして、その変に引っかかる感覚は放課後になっても喉の小骨のように残り続けた。自覚がないだけで、いつも通り聞き流せない程度には疲れていたのだろうか。考え事をしながらも手は日常動作を淡々とこなし、帰宅の用意が整った。
椅子から立ち上がった小春を見上げ、友人が「帰るの?」と声をかけた。
「今日は部活あるよ?」
「病院から連絡あるかも知れなくて」
「そっか。じゃ、先生には言っておくよ」
「ありがと、またね」
軽く手を振って友人たちと別れ、教室をあとにする。放課後の廊下は昼休みに並んで人が多く、話し声も乱雑に入り混じっている。その中に、例の黄昏郵便に願いを叶えてもらったらしいという話し声が聞こえ、小春は思わず意識を向けた。
「……ほら、前の吹部の……」
「一人だけ生き残ったって、そういう……?」
「でも……って言ってたし……に行かなかったからじゃ……」
四方八方から好き勝手話す声が聞こえる中では断片しか聞こえてこないが、彼女らが話しているのは、先日の死亡事故の被害者たちと仲が良かった男子生徒に関することのようだ。彼は予定を立てる段階で誘われたものの、別の予定があって断っていた。もしあのまま着いて行っていたら、死者は五人になっていたかも知れないと、口さがなく噂しているのを聞いたことがある。
その男子が助かったのは、単に行かなかったからだけではなく、黄昏郵便に願い事を書いて送ったからなのだという。しかし、教室でも部活中でも本人が吹聴しているのを聞いたことがない。いったいどこからそんな話が漏れたやら。或いは単なる噂の延長に過ぎないのかも知れない。
「……!」
考え事をしながら歩いていたせいか、階段を降りきったところで、誰かにぶつかってしまった。相手は廊下に倒れてしまい、鞄が傍らに落ちている。
「あっ、ごめん……って、四季宮さん?」
ぶつかった相手は桜組の四季宮千鶴だった。六月に鬼灯高校に転入してきた生徒で、桜組の人気ツートップの二人と仲がいいと友人が話していたことがある。
名前を呼ばれたことで顔を上げ、一瞬目を瞠ったかと思えば、慌てて立ち上がった。
「ご、ごめんなさい……急いでて……」
「ううん、私も考え事してたから」
スカートを払って頭を下げる千鶴は、恐縮していることを差し引いても小さい。毎日運動部並みのトレーニングをしていて、身長もそれなりにある小春とぶつかったなら、向こうだけが吹き飛ぶのも当然といえる。
「急いでたって、なんかあったの」
「えっ……」
単なる雑談のつもりで聞いたのだが、驚いて目を丸くされ、その反応に小春も驚いて見つめ返してしまった。
「あ……えっと、このあと部活で……たぶん先輩はもう部室にいると思うから……」
「そう。じゃあ、尚更悪かったね。怪我とかしてない?」
「っ、だ、大丈夫……」
小春の記憶が確かなら、千鶴はミーハーな友人曰くの『孤高の王子様』と付き合っていて、王子様の取り巻きとも王子仲間とも言われる先輩たちにも囲まれているらしい。正直小春は、誰がモテて誰が人気だという話には興味がないため、友人の恋愛話は殆ど聞いていなかったが、告白もしていないのに失恋したと暫く煩かったのは記憶にある。
胸の前で鞄を抱えて小さくなっている千鶴を見ていると、何だかこちらがイジメでもしている気分になってくる。そうでなくとも、小春は目つきの鋭さと顔立ちのせいで、黙っていると怒っているように見えると言われがちなのだ。他人がこの場を目撃したら妙な誤解される自覚はある。
「はぁ……もういいからいきなよ。私も帰るところだし」
「う、うん、ごめんなさい。それじゃあ……」
すれ違い、昇降口へ向かっていた小春とは別方向へ歩き出す。と、なにか思い出したように足を止め、小春を振り向いた。
「あの……」
小春も千鶴に視線をやり、続く言葉を待つ。千鶴は先ほどまでのいたぶられる寸前の小動物めいた雰囲気から一変して、真っ直ぐに小春を見つめると優しく微笑んで、
「妹さんは、きっと、大丈夫だから」
優しい声でそういうと、小春の反応を待たずに角を曲がって駆けていった。
放課後の昇降口は、休み時間に並ぶほど人が多い。雑談の声や足音がひっきりなしに辺りから聞こえてきて落ち着かない空間だ。そのはずなのに、小春にはいまのいままで千鶴の声しか聞こえていなかった。ましてや最後の一言など、耳元で囁かれて漸く音になるかどうかといった細い声だった。
「隣のクラスまで噂になってたっていうの……?」
小春は、友人に話した以上のことは口にしていない。クラスが違う上に合同授業でも一緒になったことがない千鶴とまともに会話したのも、いまが初めてだ。それなのに、なぜ急にあのようなことを言われたのか、理解出来なかった。
「……ま、いいか」
声に出して振り切ると、小春は今度こそ学校を出て帰路についた。
今日は救急車で病院に向かって、そのあと市営バスで来てしまったため、帰りも同じバスで帰らなければならない。駅から国道を辿るようにして走るバスは、便利なようで少し物足りない。小春が住む辺りは住宅街の奥地であるため、バス停から更に五分ほど歩かなければならないからだ。
いつものように自転車があればすぐだったのにと内心嘆きつつ、バスを待つ。時間を見ると、丁度今し方出たばかりのようで、夕方の帰宅時間とはいえ半端な田舎のバスはすぐに次が来るほど本数があるわけではなく。表示時刻通りに来たとしても二十分ほど待つことになりそうだ。
ペンキが剥げかけたベンチに腰掛け、溜息を吐く。背の高いビルが殆どない町に沈む夕陽は名残を惜しむかのようにいつまでも顔を覗かせていて、西の空に目をやると鋭い橙の陽が目に染みる。
逃れるようにして目を逸らすと、視線の先に見慣れないものを捕えた。
「あれは……ポスト?」
思わず立ち上がり、近付いてまじまじと眺めてしまう。ただの郵便ポストなら街中にあっても何ら珍しくもない。目に留まった理由はその形状にあった。
「資料館で見た、円筒形の庇付きポスト……なんでこんなところに?」
中学時代に課外学習で町内の歴史資料館に行った際に見た、円筒形のポストだ。この形状のポストは他の地域以上に長く利用され、戦時中に金属を徴収されるようになって以降も白狐村に僅かながら残り続け、昭和三十年頃まで利用されていたという。
しかし、さすがに現在は町中どれも角形ポストになっているはずで、小春の記憶にもバス停の近くで円筒型ポストを見た覚えはない。しかも、ポストの正面には古い建物の郵便局まで建っている。
「もしかして、これ、麗奈が言ってた……」
見上げれば屋根の下に黄昏郵便と書かれている。しかも横書きなのに右から始まる、古い表記だ。誘われるようにふらりと中に入れば、局内も古い作りをしており、現代に溢れる機械の類が全く見られない。
辺りを見回し、回転ラックに収められている葉書を一つ手に取って見る。棚に並んだ絵葉書はどれも絵柄が古く、しかもその全てがアンティーク特集などで新しく刷られたものではなく、その当時のものが時代を超えて目の前に存在していた。
「綺麗だけど、絵葉書で頼み事っていうのもな……」
便箋と封筒のセットも売られていたので、気に入った絵葉書と投書用の便箋を手に、窓口へ近付く。が、どこを見ても人の気配がない。
支払いをどうするべきかと思いながら改めて窓口周りを見ると、カウンターに小さな賽銭箱が置かれていることに気付いた。しかも手描きポップで「お支払いはこちら」と添えてあり、近くには料金表まで張ってある。
小春は便箋セットと絵葉書の料金、それから投函する分の切手代を支払うと、鞄からペンケースを取り出して宛名と頼み事を書いた。
『妹の芽衣を助けてください。なにが起こっているのかわからないけど、妹のクラスで起きている妙なことが、無事収まりますように』
小春は、小学校でなにが起きたかを知らない。芽衣はなにも言わずに自殺を図った。前日、事故で友達を歩道橋から突き落としてしまったことは、警察の話から理解した。けれど妹がわざと突き落としたとは思っていないし、周囲の目撃者も口論などが原因で突き飛ばしたのではないと言っていたという。それでも妹は、死のうとした。
母親がヒステリーで、小春を含め弟も妹も大人しい性格に育った。学校でも大人しく目立たない子だと、成績表に書かれることが多い。だからといって突然死を選ぶほど、学校に絶望しているとも思えなかった。
「こんなことしか出来ないのが悔しいけど……お願いします」
糊で閉じた封筒を手にポストへ向かう。普段手紙を投函する要領で中に放り込むと、神社で神頼みするときのように手を合わせた。ポスト相手にこんなことをしたのは高校受験以来だ。
そんなことを思っていると、どこからか声がした。
――――確かニ、お預かり致しマシタ。
いったい誰が、どこからと顔を上げたときだった。
「お嬢さん、大丈夫? 乗らないのかしら?」
「えっ?」
穏やかな老婦人が、小春の顔を覗き込みながら声をかけていた。辺りを見ればバスが止まっていて、小春はバス停のベンチに腰掛けていた。
「あ……す、すみません、乗ります!」
飛び込む形でステップに駆け込み、乗車券を取ってから振り返ると、背後の老婦人に手を差し伸べた。
「あら、ありがとう」
「いえ、こちらこそ……ぼんやりしてしまって」
「まだまだ暑いものねえ。気をつけてね」
「はい」
空いていた優先席に老婦人を誘導し、小春はその横にある手すりに掴まった。バスがゆっくりと動き出す。
何となく窓の外を見ていたが、郵便局はおろか、ポストすら影も形も見えなかった。ただ、鞄の中には大正時代の白狐村を描いた絵葉書が、確かに残っていた。




