絡みつく糸
まだ明るい教室内。先ほど英玲奈を見送った莉亜の元に、心海と芽衣が寄ってきた。二人は恨みがましい視線を隠しもせずに莉亜へと向け、小声で問いかけた。
「なんで抜け駆けしたの……?」
「裏切りはなしっていったじゃん」
心海と芽衣の言葉を受け、莉亜は薄く笑うと教室内に視線を放って声を上げた。
「ねえみんなー、クラスの子に話しかけるのに、話しかけていいですかって聞かないといけないのっておかしくなーい?」
教室に残っている児童の数はそう多くはないが、喩え数人でも視線が一斉に集まると居心地が悪い。突然のことに心海と芽衣が驚いて莉亜を見ると、莉亜はにこりと笑って言った。
「わたし、間違ってる?」
「あたしはおかしいと思うなー」
「俺も。授業中は手を上げなさいって言われてるけどさ、友達に話しかけるのになんでお前らにいちいちきかないといけないわけ?」
「ねー」
二人に向けられている視線は、以前翔汰に向けられていたものと同じだ。強い嫌悪と軽蔑。いままで感じたことがないほどの冷たい眼差しに晒され、二人は戦いて後退る。後ろ足が机の脚を蹴り、ガタンと音を立てたのに驚いて息を飲み、我に返った。
このままここにいたら、翔汰と同じ目に遭う。そんな予感が全身を駆け抜けたのだ。
「か……帰ろ」
心海が呟くと、芽衣も頷いてランドセルを引っかけ、逃げるようにして教室から出て行った。
心海たちは、小学校一年生のときからの友人だった。三人とも人見知りをする性格で積極的に輪の中に入ることが出来ずにいたとき、グループを作成する授業で偶然一緒になったときからの仲だ。特に心海は、三人でいることに執着していた。新しい輪を作る勇気がない自分のために、現状維持が最適解なのだと他の二人にも押しつけてきた。
そうでもしないと、孤立してしまう。その恐怖が、幼い心を縛り付けていた。
昇降口を出て門を抜け、夢中で走る。まとわり付く視線から逃げるために。卒業まで続くと思っていた親友の輪が崩れようとしている現実から逃げるために。
走って、走って、歩道橋を駆け上がり、対岸へ渡る。やがて、息が切れて足を止めた心海の背後に、必死に追いすがってきた芽衣が駆け寄ってきた。
「心海、ちゃ……待って……」
夢中で走っていた芽衣は、一瞬前に心海が足を止めたことに気付かなかった。走って追いついた勢いのまま背中にぶつかり、そして――――
「え……っ!」
目の前で心海の体がぐらりと傾いたと思えば、あっと思う間もなく階段を転げ落ちていった。途中でランドセルの留め金が外れたらしく、中身が辺りに散乱している。
時刻は、午後三時。人通りは少ないが、全くいないわけではない。心海が落ちていくところも、芽衣がぶつかったところも、人の目に触れてしまっている。
だがいまの芽衣には、人の目を気にする余裕はなかった。
「あ……ぁ……」
呆然と見下ろすその先で、仰向けに倒れた心海の目が真っ直ぐに芽衣を捕えている。意識があるのか、生きているのか、幼い芽衣に確かめる術はない。近付く勇気もない。逃げ出す度胸もない。ただただ、遠くから近付いてくる救急車のサイレンや大人たちが騒いでいる声をぼんやり聞きながら、その場に佇むことしか出来なかった。
あれからどうやって帰ったのか。芽衣はひとり部屋で蹲っていた。目を閉じれば瞼の裏に心海の顔が浮かんできて、突き落とした芽衣を責め立ててくるようだった。母親が食事の時間だと呼びに来ても答えることが出来ず、膝を抱えたまま眠りに落ちた。
いっそこのまま目覚めなければいいのにと思いながら。
「――――……学校、行きたくないな……」
どれほど願っても、朝は来る。一日の始まりは等しく訪れる。人が生きている限り。そう。生きていれば時間は巡るのだ。
芽衣はカーテンの隙間から朝日が差し込む部屋の中、ぼんやりと天井を見上げながら思った。
「そっか……」
生きている限り朝が来るなら、生きるのをやめてしまえばいい。簡単なことだ。
芽衣はのそりと体を起こすと、昨日の格好のままで着替えることもせずに部屋を出て居間を抜け、台所に向かった。冷蔵庫を覗いていた母親が、そんな芽衣の姿に気付いて眉をつり上げ、バタンと扉を閉じる。
「芽衣! あんた、そんな格好で――――……」
昨晩、風呂も食事も無視して寝過ごした娘を叱りつけようと声を荒げたときだった。芽衣はまな板の上に置きっ放しだった包丁を手に取り、思い切り自らに突き立てた。
「ぎゃああ! 芽衣! 芽衣っ!!」
母親の野太い悲鳴が家中に響き渡り、洗面所で身支度を整えていた高校一年生の姉の小春と、小学五年生の兄の涼太が顔を覗かせた。涼太は、目の前の光景が理解出来ずに立ち尽くし、それを押しのける形で小春が駆け寄ってきた。
「お母さんなにしてんの!?」
「早く! 早く抜かなきゃ、芽衣が!!」
母親はパニックになって芽衣が両手で握り締めている包丁を抜き取ろうと引っ張っている。芽衣の力も小学生とは思えないほど強いため膠着状態になっているが、引き抜く力と押し留める力が加わっていることで、傷を抉ってしまっている。
「抜いたら死んじゃうでしょ!? いいから救急車呼んで!」
「きゅっ、救急車! 救急車!!」
小春の言葉を繰り返しながら部屋をバタバタと駆け回る母の姿を見て、苛立ちながら自分の携帯端末から救急番号にかけた。
「救急です。妹が包丁を刺してしまってて……はい。お腹の右側なんですけど。包丁はそのままにしています。……顔色は……少し悪いです。はい。住所は……」
住所と名前を伝えたところで、遠くの部屋でなにか重たいものが倒れる音が響いた。興奮しすぎた母親が、自室で倒れた音だ。
「……すみません、母もパニックで倒れたみたいなんで、二人分お願いします」
お化け屋敷等で自分以外に大騒ぎしている人間がいると、特別冷静な性格でなくとも落ち着けるという話を聞いたことがあるが、家族が大怪我を負って死にそうなときでもそれが当てはまるとは思わなかったと、小春はぼんやり思った。
薄手の夏服とはいえ、子供の力でも安物の包丁で貫くことが出来るのかと妙な感心を覚える。芽衣は意識が朦朧としており、呼吸も浅い。先ほど、体内を何度か抉っていたせいもあるのだろう。少し体が熱いような気もする。
「ね……姉ちゃん、おれ、なんかすることある……?」
突然の非常事態に動けずにいた涼太が、遠慮がちに寄ってきた。
「母さんの様子を見てきて。たぶん、部屋で倒れてると思う」
「見てくるだけでいい?」
「うん。すぐ救急車くるから、余計なことはしないほうがいいし」
「わかった」
元々大人しい性格の涼太が、より一層しおらしい態度で頷き、台所から出て行った。居間を抜けて廊下を進み、奥の扉を開けたところで、涼太は小さく息を飲んだ。そして中にいたソレから目を逸らさないよう後退り、怯えた顔で戻ってきた。
「……どうしたの」
「なんか、目ぇあけたまま倒れてて、そんで、泡吹いてた……」
「そう」
本当、役に立たない。
心の中だけで母親に悪態をつき、溜息を吐いたところで賑やかなサイレンの音が家の前で止まった。
救急隊が、まずは芽衣をストレッチャーに乗せて運び込み、別の隊員が涼太の指さし案内で部屋の奥へ向かった。担架に乗せられた母親は涼太の言葉通りの姿をしていて、小学生の目にはホラーに映るだろうなと、小春は他人事のように思った。
「付き添いの方は……」
「私が行きます。涼太は学校いきな。大丈夫だから」
「う、うん……わかった」
戸締まりをして芽衣を乗せたほうの救急車に乗り込み、小春も病院へ向かった。
二次救急までを受け付けている鬼灯町総合病院には、鬼灯町内のみならず近隣の町の救急患者が運び込まれることもある。
夏に入る度に忙しくなるが今年は特に忙しいと、隣家に住む看護師の女性がぼやいていたのを、小春は待合室で待機しながら思い出していた。現に今日、小春の家族だけで二人運び込まれているのだ。それも、夏に増えがちな水害などではなく。
真っ直ぐ近付いてくる足音が聞こえ、小春は顔を上げた。案の定、芽衣の手術をした医師が看護師と共に話をしに来るところだった。
「妹さんの手術は無事終わりました」
「そうですか。ありがとうございます」
医師曰く数日の入院を要するが命に別状はなく、出血も抑えられていたため後遺症の心配もないだろうとのことだった。
「お母さんのほうですが、なにか持病等はありますか?」
医師の言葉に、小春は煩わしそうな顔を隠しもせずに頷いた。
「アル中で、ちょっとしたことですぐ興奮して、せん妄? ってのをよく起こします。もしあの人が父を呼んだとしても相手しないでください。浮気して出て行って、家にはもういないので」
治療に尽力してくれている、職務に忠実なだけの相手に向ける言葉ではないと頭ではわかっていても、一番上の子だというだけでいらぬ苦労ばかり背負ってきたせいで母に対して良い感情が持てない。どうせなら間に合わなくなってくれれば良かったのにと、本気で思ってしまうくらいには。
「……わかりました。処置が終わり次第またご連絡差し上げます」
「帰っても大丈夫なんですか」
「はい」
それならと、小春は立ち上がり、医師に一礼してから病院をあとにした。恐らく次に連絡があったときは、入院の手続きや色々な面倒事が押しかけてくるのだろう。けれど暫くのあいだくらいは、なにも考えずにいたかった。
夏の残り香がやけに眩しく、然程熱くもないのに陽炎さえ見える心地だった。




