友引の弔い
言葉を失い、俯く千鶴の目に、心配そうに見上げてか細く鳴く子犬の姿が飛び込んできた。小太朗は、千鶴の胴に前足をかけて立ち上がりながら、懸命に呼びかけている。千鶴はその小さな体を抱き上げると、頬を寄せて撫でた。
「ありがとう。わたしなら大丈夫……」
肩を抱く桜司の手に力がこもる。隣を見やれば、苦しげな眼差しとぶつかった。
「先輩……わたしを生かしてくれてありがとうございます」
不器用なりに笑みを見せて言うと、桜司は目を瞠った。
罪の魂の持ち主は、幼い頃になにも知らぬまま周囲に疎まれて死んでいく者が殆どであると言っていた。喜びも楽しみも知らずに、なぜ疎まれるのかもわからずに、片手で足る人生を終えるはずだったのを長らえたのは、桜司のお陰なのだ。
「わたしは、今日まで生きてこられたことをうれしく思っています。先輩方に会えて、知らなかったことを知れて、それから、ひとと触れ合う暖かさも教えてくれました」
小太朗と頬を寄せ合いながら、小さな肉球を桜司に見せて微笑む。
「先輩に会わなければ、この子とも会えなかったんですよ」
小太朗はわけがわかっていないなりに桜司に愛想を振りまいて、誇らしげに吼えた。そんなふたりと一匹の様子を眺めていた牡丹が、微笑ましげに「いい子ね」と呟いた。
「そうなんです、凄くいい子なんですよ」
「ふふ。その子もだけど、アナタのことよ」
「えっ」
まさか自分のことだとは思ってもみなかった千鶴が、目を丸くして牡丹を見つめた。小太朗は先ほどからご機嫌で、千切れんばかりに尻尾を振っている。
「犬神は、扱う人によってその姿を変えるものなの。アナタの腕にいるその子が無害な豆柴ちゃんなのは、アナタがそれだけ心優しい証拠なのよ」
「そうだったんですか?」
「はいッス」
編集長用のデスクで皆を眺めていた夜刀に尋ねると、夜刀はへらりと笑って頷いた。
「因みにおれと仕事してるときは、先パイんとこにいる小狐ちゃんみたいな二足歩行のわんこの姿をしてるッスよ」
「あ……そっか、そうですよね。お仕事の見習いをしてるって言ってましたっけ」
「桐斗先パイみたいに、自分の意志で人型とわんこと自在に化けられるようになるにはもーちょいかかるッスかねえ」
「がんばってるんですね。……このままでも十分可愛いんですけど、ね」
最後の一言を小太朗に語りかけるようにして言うと、小太朗は元気よく吼えた。黒い巻尾は一時も止まることなく、小太朗の機嫌を伝えている。
「小太朗ちゃん、ずっと尻尾振ってますね」
「おれが仕事してるあいだ、ずっと先パイと千鶴ちゃんに会いたいって言ってたんで、念願叶ってうれしいんじゃないッスかねぇ」
「桜司先輩も撫でますか? ころころでもふもふですよ」
「いや、我は……」
遠慮しかけた桜司を、小太朗の真っ黒でつぶらな瞳が見つめている。笑っているかのような口元と元気よく揺れる尻尾と真っ直ぐな眼差しの直撃を受け、桜司は渋々小さな頭に手を伸ばした。桜司に撫でられた途端そのまま離陸しそうな勢いで尻尾が振られ、千鶴に向けて微かに風が起こっている。
「ふふっ、犬と狐が仲良くしてるなんて、奇跡みたいねェ」
「……揶揄うな」
桜司と子犬の戯れる様子に和んでいると、ふと視線を感じた。視線の主は、いままで牡丹と煌牙のあいだで大人しくしていた雛子で、その目は真っ直ぐに小太朗をとらえている。
「雛子ちゃんも撫でたいのかな?」
千鶴がそう訊ねると雛子は表情を輝かせ、顔色を窺うように夜刀を見つめた。千鶴と雛子、そして小太朗の視線を受けた夜刀は苦笑して頷く。
「勿論、いいッスよ。仲良くしてやってくださいッス」
雛子は夜刀の許可を得ると、今度は煌牙を見上げた。煌牙が一つ頷き、雛子の背中をそっと押して促すと跳ねるようにしてソファから降り、千鶴の前までテーブルを回って近寄った。
「はい、どうぞ。ふわふわで可愛いよ」
撫でやすいように、膝に乗せて雛子のほうへ向けると、雛子は怖々手を伸ばして頭を撫でた。小さな手と小さな頭が触れ合い、小太朗の尻尾が揺れる。雛子は頬を赤らめ、うれしそうに微笑んだ。
「先輩、どうしましょう……この空間全部可愛いです……」
「……うむ。良かったな」
雛子と小太朗の触れ合いに感激して語彙が崩壊している千鶴に、桜司は何とか一言、それだけ言うと千鶴の頭を撫でた。桜司にとっては可愛い空間とやらに千鶴も含まれているのだが、それを言えば先ほどからひどいにやけ面でこちらを見ている牡丹にどんな冷やかしを受けるか知れたものではない。
「いいわねェ、若いって。羨ましいわァ」
「喧しい。年寄りはすぐそれだ」
「やあねェ、いいじゃないの。こうして集まることも滅多にないんだもの」
すっかりぬるくなったお茶を啜りながら牡丹がしみじみ言うと、夜刀が立ち上がって「入れ直すッスよ」と言った。が、牡丹はそれを制して雛子を呼んだ。呼ばれた雛子が小太朗とお別れの挨拶をしているのを、千鶴がとろけそうな表情で見守っている。
「そろそろお暇するわ。元々挨拶だけのつもりだったしね」
雛子が煌牙の前まで来ると、牡丹と煌牙が立ち上がった。来たときも思ったが、このふたりが並んで立っていると圧迫感が凄い。
「今日は手土産もなしに押しかけてごめんなさいね」
「いえ、それより、ふたりさえ良かったらまた遊びにきてやってほしいッス。小太朗もうれしそうにしてたんで」
「ええ、そうさせてもらうわ」
牡丹と夜刀が挨拶をしている傍らで、煌牙が雛子を左腕に抱え上げた。煌牙が自然な動作で抱き上げ、雛子もすんなり収まる様子を見ていると、本当に親子らしく見える。
「千鶴ちゃんも、また会いましょ」
「はい、ぜひ」
最後に、牡丹は千鶴にウィンク一つ投げて言うと、ひらりと手を振り帰っていった。その後ろを、やはり窮屈そうに身を屈めてついていく煌牙の肩口から、雛子がひょいと顔を覗かせたかと思えば、笑顔で千鶴たちに手を振った。
「雛子ちゃん、最後まで可愛かったですね……」
「お主もな」
客人がいなくなったことで、桜司は距離を詰めて身を寄せ、千鶴の頭を撫でた。膝の上にいる小太朗はいつの間にかごめん寝状態で寝入っており、上から見るとふわふわな球体が二つ並んでいるように見える。
「……今回の事件、小太朗ちゃんにあまり影響が出なかったみたいで良かったです」
無垢な寝姿を見下ろして、丸い背中を撫でながら千鶴が呟く。
犬神屋敷で『生産』された犬神は、未だにあの屋敷の影響を受け続けているという。夜刀は犬神という呪詛そのものの概念であるため屋敷と直結しているわけではないが、小太朗は事件現場である離れで作られ、使役されていた犬神の残滓。呪詛を扱い兼ねた例の一族が自滅に近い形で滅び、行き場を失っていた犬の魂に夜刀が小太朗という名と助手の役割を与えたのだ。
本来人に使役される犬神が、同じ犬神の命名によって定着している小太朗は不安定な状態で、犬神屋敷に大きな異常が起きればその影響を受けかねない。更にあの離れは、蠱毒の壺として何度も使用された結果、あの場自体が呪力を帯びている。今回のように不用意に近付くものがあれば、役割を求めた蠱毒の壺が再び『中身』を呼び込むこともあり得る。
「あんまり影響を受けなかったのは、事件が起きてからすぐ、小太朗に約束をしたのもあると思うッス」
「約束……?」
夜刀はこくりと頷くと、愛おしげに目を細めて小太朗を見つめた。
「呪いってのは言っちゃえば約束と同じなんスよ。対象を言葉で縛って、実行させる。待ち合わせとか貸し借りの約束もそうッスよね」
「それは……確かに、そうですね」
夜刀曰く、言葉が違うだけで元は同じ。どちらも束縛の呪文のようなものだという。ただ、互いに言葉を交わして取り付ける約束と違い、呪詛は一方的に押しつける力で、受け手側には選択の余地がない。呪いの媒体にも、呪われる対象にも、受けるか否かを選ぶことは出来ないため、実行にも破棄にも、強い念が必要となる。
簡単に言えば、約束はその後の人間関係を考慮しないのならば意志一つで破ることが出来るが、呪詛を破るには術者と同等かそれ以上の力が無いと破ることが出来ない。
「なんでまあ、おれは小太朗に約束をしたんス。それを果たすまで、別の命令を受けてしまわないように……屋敷の影響を受けないように」
「その、約束っていうのは……?」
千鶴が訊ねると、夜刀はにんまり笑って人差し指を口元に添えた。
「男同士の秘密なんで、いくら千鶴ちゃんでも言えないッスね」
「ふふ。わかりました」
話しながら小太朗を撫でていると、千鶴の手の下で小太朗が寝返りを打った。お腹が丸出しになり、安らかな寝顔が露わになる。
「あの屋敷はいまも役割を求めてるんで、小太朗の約束は都度更新しないとッスね……今回の件で蠱毒に人間が加わっちまったせいでどうなるか未知数ッスけど」
「夜刀さんさえ良ければ、わたし、また遊びに来ます」
「それは願ってもないッス。優しい人間に触れてるだけでも全然違うんで」
「はい」
丸々としたお腹を撫でて微笑む千鶴を、桜司の手が優しく撫でた。
窓の外は黄昏色に染まりつつあり、もう暫くしたら社へ帰る時間になる。今頃、社の居間では桐斗と柳雨がゲームに興じていて、それをBGMに伊月が本を読んでいることだろう。小狐たちはそろそろ夕餉の支度を開始して、主の帰りを待っている頃合いだ。
彼らと同様に、人の世も日暮れに備え始める時間帯だ。商店街には主婦が行き交い、夕食に悩む会話が雑踏に紛れ始める。子供たちは帰路につき、住宅街の家々から帰宅を告げる元気な声が響く。
失われた日常がある傍らで、変わらない日常がある。
友人を失ってしまった少年――――百澤湊もまた、欠け落ちた日常の中に居た。
夕食時、湊の母が疲れた顔で溜息を吐いた。彼女は、湊の友人で自身の幼馴染みでもある陽斗の家で葬儀などの手伝いに行っており、ここ数日気の休まるときがなかった。それが一段落ついた昨日の夜、更に不幸な知らせが彼らに舞い込んでいた。
「前原さんのところの莉子ちゃん、亡くなったそうよ」
「え……なんで莉子が?」
「さあ……昔から住んでるお年寄りたちは犬神屋敷の祟りだなんだっていってるけど」
「祟り……」
母親は葬儀の場に来た老人たちの潜めた会話に、心底嫌気が差している様子だった。百澤家は祖父母がこの町の出身で長く住んでおり、自身の祖父母から犬神屋敷のことや鬼灯神社のことなど、躾け代わりに聞かされてきた。だがそれらはあくまで子供向けの寓話に過ぎないと思っている。だというのに、死者を悼む場で、まるで無責任なテレビ番組に出てくる有識者のような会話を聞かされては、ストレスが増す一方だった。
現に陽斗の母は息子を失った上に、ろくに知りもしない親戚たちから「馬鹿なことをした報いだ」と囁かれ、遂に倒れてしまったのだから。
「アンタも、祟りなんて馬鹿げてるって思うでしょ?」
「え、あ……うん……」
聞いたことがないくらい苛立った口調で問われ、湊は反射的に頷いた。馬鹿馬鹿しい話だとは思うが、いまは頭ごなしに否定する気になれなくなってきている。
「私もそう思ってたのよ。でもね……陽斗くんのお母さんが、葬儀のときに倒れたって話はさっきしたでしょ」
「うん、聞いた。でも、葬式だってのに周りが陰口言ったせいじゃないの?」
驚いて聞き返す湊に、母親は疲れ切った表情を隠しもせずに深く溜息を吐いた。
「それもあるけど、陽斗くんのお母さん、葬儀のあいだずっと俯いたまま「陽斗があの屋敷で呼んでる」ってブツブツ言っててね。出棺前に年寄りたちがお坊さんに相談しているのを見たんだけど、お坊さんは黙って首を振ってたのよ」
「……どういうことだよ、それ……?」
「詳しいことはわからないわ。ただ、火葬場へ運ぶ直前に突然倒れて……」
そこまで話したところで、母親の携帯端末が音と光でもって通話の受信を告げた。
「はい、百澤……えっ! ええ……はい、わかったわ……そうね……」
どうやら相手は主婦仲間であるらしい。そしてその内容は、あまり喜ばしいものではないようだということも、母親の声の調子と表情から読み取れた。通話を終え、溜息を更に追加して、それから重苦しい空気にぽつりと低く零す。
「……陽斗くんのお母さん、あの屋敷で自殺なさってるのが見つかったそうよ」
「っ、そんな……!」
湊はあれから、彼らに呼ばれる悪夢に苛まれることはなくなっていた。けれど、あの日あのとき、共に逝けなかった自分が呼ばれているのなら、友達の一人である湊以上に縁が深く拠り所でもあった家族が何ともないはずがないのだ。
「他のお母さんたちは、大丈夫なんだよな……?」
「いまのところは聞かないわね。陽斗くんのお母さんは、お姑さんの問題もあったし、介護も一人でしてたから、私が思う以上に弱っていたのかも知れないわ」
深く後悔している様子の母親に、湊はなんと声をかけるべきかわからずにいた。母は常に気丈で、仕事も家事も息子のひいき目を除いても完璧にこなす人だった。それが、友人の死をきっかけにこれほど憔悴してしまっている。
「祟りとかはわかんねーけど、あの屋敷は行かないほうがいいと思う……」
「……そうね。そんな気にもなれないから大丈夫よ。あんたも気をつけなさい」
「うん……」
重く垂れ込めた灰雲のような空気から逃れようと、湊はそっと自室へと逃げ込んだ。部屋の床に放り出したままだったはずの、陽斗から送られてきたデジカメが消えていることに湊が気付くのは、随分経ってからだった。