天上の酒と引き換えに
派手な紫色のスーツを着た長身細身の男と、幼女を抱えた現役軍人のような大男が、鬼灯町を闊歩している。道行く人は好奇心を映した視線を送るものの声をかける勇気は出ないらしく、視線ばかりがふたりを見送っていく。
ふたりはそんな何とも言えない空気をものともせずに突き進むと、石段の前で歩みを止めた。見上げれば朱色の鳥居が聳え、左右には狐の阿吽像も見える。
「ここで間違いないようね」
石段を登り、鳥居の前でそっと手を翳すと、静電気が起きたような光が走り、指先に強い抵抗感を覚えた。鳥居の内側を水膜が張ったように波紋が揺らぎ、バチバチと輝く白い光が侵入を拒んで威嚇している。
「あら、困ったわ。お留守みたい」
どうしたものかと背後を振り返ると、桃色の髪をツインテールにした女子学生の姿の少年が、見慣れない男ふたりと幼女を見つめて目を丸くしていた。
「おねーさん、おーじの神社になんか用事?」
「ええ、今回鬼灯町に赴任してきたから、ご挨拶にと思って来たのだけれど、お留守のようなのよねェ」
「ふーん。おーじなら、犬神新聞社にいるよ。わんこ撫でるんだってー」
「あら、そうなの。ありがと、行ってみるわ」
踵を返し、石段を降りていく背中に視線を感じて振り返ると、先ほどの少年がじっと見つめていた。その色は不審というより好奇心で、牡丹はにこりと笑って見せた。
「名乗り忘れていたわね。今日から鬼灯町警察署で勤めることになった、蝶楼司牡丹。……いえ、アナタには雲外鏡と名乗ったほうが通りがいいかしら?」
牡丹の名を聞くや、大きな瞳を更に大きくして驚くと、少年も慌てて口を開いた。
「僕、赤猫桐斗。ここに来たなら知ってると思うけど、百鬼夜行部の一員だよ」
「ええ、知っているわ。アタシたちは警察のサポートという体で、アナタたちの助けになるために来たんだもの。そうそう。ついでにこっちのごついのは送り狼の梅丸煌牙。この子は送り雀の雛子ちゃんよ」
「送り狼も町で仕事する時代なんだ……」
感心して呟きつつ、桐斗は煌牙に抱えられている雛子を見た。雛子は、不思議そうな目で桐斗をじっと見つめていたかと思うと、小さな手を伸ばしてきた。煌牙の背が高く若干遠いため、膝を屈めて桐斗に近付けている。
「んー、なーに?」
その手に桐斗が自分の手を差し出すと、うれしそうにふにゃりと笑って桐斗の指先を握り、握手をするかのように上下に揺らした。
「えーなにこの子、超可愛いんだけどー」
「鬼灯小に通うから、どこかで会うこともあるんじゃないかしらね」
「そっかー、学校楽しみだねー」
愛想良く笑う雛子と戯れてから、桐斗はそっと手を離して石段を数段駆け上がると、かろうじて目線が下になったふたりと雛子を見下ろした。
「引き留めてごめん。おーじに用があったんだよね。じゃ、僕は帰るから」
「ええ、また会いましょ」
桐斗は更に石段を駆け上がって鳥居を越え、拝殿の裏手へと駆けていった。その背を見送ると牡丹と煌牙は踵を返し、来た道を戻っていく。
「犬神新聞社は旧犬神村のほうよね。ちょっと歩くには遠いわねェ……」
牡丹は辺りを見回すと丁字路の角にあるカーブミラーに目を止めた。
「丁度いいわ。アレで行きましょ。ほら」
そう言って煌牙へ手を差し出すと、煌牙はエスコートするように牡丹の手をとった。そして、牡丹が逆の手をカーブミラーに翳した途端、ふたりの周囲の景色が水を零した水彩画のようにぼやけて滲み、次の瞬間には別の路地に立っていた。その傍らではまた別のカーブミラーが、細い十字路を映している。
「新聞社はこの先ね」
背の低い雑居ビルと倉を改装した店舗が建ち並ぶ、新旧入り乱れる風景の中に、その新聞社はあった。犬神新聞社は三階建てのビルを丸ごと所有しており、一階を物置きとガレージに、二階を事務所に、そして三階を生活スペースとして使用している。
建物の前まで来ると、二階から微かに人の声が聞こえてきた。
「二階に全員いるみたいね。早速お邪魔しましょ」
建物に寄り添って設置された階段は薄暗く、大人ではすれ違うことが出来ないくらい狭い。煌牙は雛子を胸の前に抱き直すと、大きな体を縮めながら登っていった。
二階に着くと、左手側に、犬神新聞社と書かれた曇り硝子がはめ込まれた灰色の扉があった。声は扉の中から聞こえており、時折子犬の鳴き声も聞こえてくる。階段は更に上階へ通じているが、いまはこの先に用はない。
扉をノックすると、中から「はいはーい」と元気な応答があり、数秒ののちに奥へと開かれた。
「え……っと、どちらさんッスか?」
応対に出た藁色の髪をした青年は、突然現れた通路を埋め尽くさんばかりの大男と、目に染みる色彩の男に驚き目を丸くした。
「なんだ、紫鏡か。お主もここへ来ていたとはな」
固まっている青年の奥から鷹揚な声が届き、青年は声の主を振り返り無言のまま首を傾げた。が、声の主は説明する気がないらしく、代わりに青年を窘める。
「犬っころ、客人を突っ立たせたままにするな」
「えっ、あっ、すんませんッス! どうぞ、狭いとこッスけど……」
「ありがと、お邪魔するわ」
硬直を解いて場所を空けると、牡丹は何とかそのまま、煌牙はのれんを潜るかの如き仕草で身を屈めながら中に入った。高さは勿論のこと、幅もギリギリで、これでは町のどこへ行っても窮屈そうだ。
室内には出迎えた青年の他に、声の主と思しき白髪の青年と甘栗色の髪をした少女、それからその少女の膝に抱かれている黒豆柴の子犬がいた。
「えっと、取り敢えず、犬神新聞社へようこそッス。おれが編集長の萩尾夜刀ッス」
「あら、ご丁寧にどうも」
夜刀がソファを薦めながら名刺を差し出すと、牡丹はそれを両手で受け取って自分の名刺を渡した。
黒い革張りのソファは木製のローテーブルを挟んで二つ並んでおり、その片方に先客ふたりがいるため、牡丹はあいているもう一方の端に腰を下ろした。煌牙は牡丹の隣に雛子を降ろすと、雛子を挟んだ端に腰を下ろした。
正面にいる先客二名の視界には、両端が深く沈んで中央が若干盛り上がった歪な形のソファが見えている。
「見たところ、アナタお一人なのね」
「はいッス。小太朗はまだ見習いなんで、新聞に関わる仕事は任せらんなくて」
編集長と名乗りはしたが、名刺に書かれている役職を見るに取材も記事作成も編集も全て彼が行っているようだ。
夜刀が小太朗と口にしたとき、少女の膝にいる子犬が玩具のような高い声で鳴いた。名前を呼ばれたと思ったのか、夜刀を見つめて尻尾を振っている。
「えーっと、そんで、こっちが鬼灯神社の白狐桜司先パイで、こっちがそのお嫁さんの千鶴ちゃんッス」
「ええ、白狐ちゃんは知っているわ。約束通り、罪の子を大事にしているのね」
「……なんだ、冷やかしに来たなら帰れ」
「やあねえ、そんなんじゃないわよォ」
じっとりと睨み威嚇する桜司に、牡丹はへらりと笑って手を振った。そんなふたりのやりとりを、子犬を撫でながら見ていた少女、千鶴が「お知り合いですか?」と桜司に訊ねると、桜司はひどく不本意そうに頷いた。
「あれは太古の鏡の妖で、我よりだいぶ昔からこの国に居る」
「うふふ、お陰様で。だから白狐ちゃんが千鶴ちゃんの魂をもらうのもらわないのってやりとりしてたところも、バッチリ見ていたわよ」
「悪趣味な。……まあ、どうせあちらも、熟成させたのちに横取りするつもりでいるのだろうがな」
「熟成……何だか、密造酒の闇取引みたいですね……」
千鶴の言葉に、牡丹は思わず吹きだした。口元を押さえて顔を背け、肩を震わせる。堪えきれていない笑いが時折口の端から漏れるのを、桜司が不機嫌そうに睨んでいる。
ようやっと落ち着いた牡丹に、夜刀が奥で入れてきたお茶を差し出す。それを啜ると溜息を一つ吐いてから、笑いすぎて滲んだ涙を指先で拭いつつ口を開いた。
「言い得て妙だわね。アナタの魂は、妖連中にとっては天上の酒も同然だもの」
「あ……それ、夜刀さんにも言われました」
「でしょうねェ」
牡丹は口元に笑みを引きながら、千鶴を見据えて言う。
「アナタの魂を求めて、色んな悪い子が手を伸ばしてくるわ。アタシたちはそれらからアナタを護るために来たの」
「……あの、わたしは前世でなにか罪を犯して、それで今世で償うために生きて来たと聞いたんですけど」
「そうね」
千鶴は子犬を抱きしめ、恐る恐るといった様子で牡丹に訊ねる。
「その……死んで逃げることも許されない罪だから、護られてるんですか?」
「あら、覚えてたの」
千鶴の問いに、牡丹は僅かに目を瞠って言った。予想外ではあるが、そういうこともあるだろうとどこかで思ってはいたといった反応で頷くと、またお茶を一口。
「本来はね、アナタの魂は七つの寸前で喰われるはずだったのよ。でも、白狐ちゃんが口八丁で丸め込んで熟成期間を長くしたほうが力が増すって持ちかけて、どうにか承諾させたの。これはアナタの魂をほしがってたほうにとっても悪い話じゃないもの」
「なるほど……でも確か、七つを超えたらわたしは桜司先輩のものになるって約束までしていませんでしたか?」
「そうねェ。花屋街でもその辺が引っかかっていたのよね」
久しぶりに知らない単語が出てきて、千鶴は首を傾げた。膝の上では、子犬が千鶴の真似をして首を傾げ、まん丸な瞳で牡丹を見つめている。
「ああ、花屋街っていうのはアタシたち妖の故郷みたいなものね。アナタと一緒にいる子猫のお嬢ちゃんも、そこで現世に干渉する許可をもらってるのよ」
「あ……なんか、聞いたことがあります。現世で人助けをするとポイントみたいなのがもらえて、それで人間と同じお金を使ったり出来るって」
「大凡あってるわね。で、その花屋は白狐ちゃんと取り引きしたの。罪の魂をアナタに与える代わりに、それを作った神様の討伐をするように、って」
「え……」
思いも寄らない言葉が出てきて、千鶴は隣の桜司を見た。色々と聞きたいことが出てきたものの、どれから何と聞けば良いのかわからず、ただ見つめることしか出来ない。
「お主の前世は、罪の魂の持つ力を求めたとある神により、罪を背負わされた。ここでいう罪とは、人間社会に於ける犯罪ではない。神と約束を取り交わし、それを守らずに死ぬことを言う」
桜司は複雑そうに顔を歪め、千鶴を撫でた。千鶴の纏う空気が僅かに重くなったのを察したのか、膝にいる子犬が心配そうに顔を見上げ、か細く鳴いている。
「件の神は、千鶴の魂を手に入れた我ごと喰らうつもりなのであろうな。ゆえに我らは花屋街とも協力し、単独ではなく伊月らと組むことを選んだのだ」
「そうだったんですね……わたしだけじゃなく、先輩まで……」
想像以上に大きななにかが自分を、そして桜司を狙っているのだと知り、千鶴は目を伏せて沈んだ声音で呟いた。
「千鶴ちゃん、スカボロー・フェアや、かぐや姫のお話は知ってる?」
「え……えっと、かぐや姫なら、知ってます」
「それと同じでね、その神様は叶えられない約束を取り付けて、それが出来ないのならお前の家族を連れてくと脅したの。追い詰められたその人間は、自分の命を捧げるので家族は見逃してくださいと言って自害したわ。それが狙いだとも思わずに」
「そんな……」
「その後の転生体も、当然だが前世の約束を知らぬゆえに叶えることなく死んでいる。そうして罪を重ねた先の魂が、お主だ」
自分の魂が特殊だと聞いてから、いったいどれほどの罪を犯したのかと思っていた。けれどそれは、力を求めたものにより無理矢理作られた罪だった。そして、千鶴はもう一つ、とんでもないことに気付いてしまった。
「さっき、死んで逃げることも許されない罪だから護られているのかと言ったわね」
「……はい」
気付きたくなかった。知りたくなかった現実が真実になってしまうと恐れる千鶴に、牡丹は優しく残酷な事実を告げる。
「死ねばまた罪が重なって力が増すか、器を失って抵抗力をなくした魂を喰われるだけだから、アナタは護られているのよ」
生きていても力は増し、死んでも同様に。
一度作られてしまった罪の魂は、誰かに喰らわれるそのときまで、己を喰らう誰かを待ち続けるかのように生き続けなければならないのだ。