4 疲労感
熊との遭遇から私は、更に歩みを進めた。
一応言っておくが、あれにはかなり驚いたのだ。熊なんて何年かぶりくらいに見たのだもの。公爵令嬢が熊を見る機会なんか、多分無い。
歩いて既に数時間が経過している。足元は歩きづらいし、なんだかどこに向かえばいいのかも分からなくなってきた。まあ、実際どこに行くかなんて決めてないんだけど……。
そろそろ日が落ちてきてもいい頃合い。
しかし、それでも一向に森を抜ける様子は無く、正直、今は凄く参っている。本当にすっごく参ってる……。
それは勿論、疲れているからという理由でもあるのだが、それよりも、予想以上に森が広いということ。道という道は複雑に別れていたりするし、特に目印も無いので、どっちに向かえば森を抜けるのかと、森に来ちゃったことを絶望中よ。
目先に広がる光景は限りなく木しかない。たまに野生の鹿とかもいるが、それ以上に木を見飽きた。
それから、私が知っていた頃の森とは地形が変わっていて、どこに行けばどこに着くのかが分からない。この世界は複雑に地形が変化したりすることがあって、それは昔からよく知っていた。
でも、現在は右へ左へさ迷っている。
地形が変化することを把握していることと、それで困惑するかしないかは必ずしも一致するとは限らない。あっちにふらり、こっちにふらり、別れ道では、行き止まりに出くわしたら引き返し、通れなくなっていたりしても引き返し、何度も同じところに後戻りもした。
流石に熊には出会わないけど、そろそろ正解のルートをスムーズに通りたい。それこそ、道を何度も間違えたからこそ、そんな風にかんがえている。
まぁ、要するに迷ったのだ──。
女神なのになんで迷ったのか? なんてことを聞かないでほしい。
女神でも、道に迷うことはあるのだ。特に私。方向感覚に自信の欠片もない。
ただ、道に迷わないようにする魔法はこの世界には存在している。それを持ち合わせていれば、こんな状況、赤子の手を捻るくらい簡単に脱することが出来るのだが──。
「はぁ、魔法……ちゃんと習得しとくべきだったわ」
私は残念ながらその魔法を会得していない。必要だと思っていなかったから取らなかった。実際今まで使わなかったし……。
でも、そうしていざ迷ってしまうと、何故会得しなかったのかと過去の自分を責めたくなるが、そんなことは無意味だと分かっているのでやらない。ただ、後悔するだけだ。
歩いた先に、大きめの岩が幾つか鎮座している。
ちょうど疲れていたし、という理由から座れるくらいの大きな岩の上に腰掛けた。
座り心地は最悪の一言に尽きるのだが、それでも疲弊した体にとっては嬉しいものである。
「辺りを照らす魔法は──、ライト」
低めの疲れの籠った声でそう言葉を発すると小さな光の球が現れる。
ライトの魔法は基礎魔法。冒険者になろうとする人なら殆んどが使えるような魔法だ。しかし、私のライトは少し特別だが……まあ、その辺の説明はいいかな。
ふわふわと浮遊しているそれを手で掴み、岩に出来ていた小さな亀裂に押し込むようにして填める。
岩を中心として、光が森の中をつらつら照らしていた。
「ふぁあぁっ……、流石に疲れたわね。ワーカホリックの労働者並みに疲れたかも……」
淑女とは思えない程に大きく口を開けて欠伸をする。中々見られない公爵令嬢(元)の欠伸は、特に誰も見られることは無い。
それは、誰かが見ていれば、釣られて欠伸をしてしまいそうな位に盛大なものだった。
日が沈み始めようとしていて、空が紅く染まっている。
普段ならば、こんな時間はまだ目が冴えてる位なのだが、何せ王国の都からこの大森林の中まで歩いて来て、そこからさらに奥へと歩いたのだから、貴族だった頃よりも疲れるのは当たり前。
そこに魔法まで使ったとなると、疲労がさらに加算される。
王国で加護を解いたのにも相当の魔力を持っていかれ、体は鉛のように重く、限界に近かった。
ここで寝たら、野性動物に襲われてしまうかしら?
でも、もう眠いわね……。
どうしようかしら? この一帯を焼き払って不安要素を無くそうかしら?
いや、それだと不味いわよね。一応女神だし。
ならば、あの魔法ね。
「それ」
仕方ないというような感じに、指先を空に向かって二、三回ひょいと振ると、半透明な膜が彼女の周囲半径数メートル程を覆った。
無詠唱魔法、それは魔法使いの頂きに達した者だけが使える高位の技術だった。
彼女は何食わぬ顔で張り巡らされたそれを確認すると、目線を下げて座っていた岩から立ち上がった。
「バリア、これで大丈夫かしら? なんだか波長が不安定で心配なのだけど。やっぱり長く使ってないと腕も鈍って来ちゃうのかしら?」
顎に手を当てながら、小首を傾げて呟いた。
張ったはずの膜は不安定な動きを見せながら頼りなく揺れている。
それからサシャは、キョロキョロと辺りを見回して、近くにあった数センチ程に育った雑草の上に申し訳程度に布を敷いて横になった。草はそれなりに良く生えており、ふかふかしていた。
日は山の影に完全に沈みそうになっており、山の輪郭がはっきりと分かるような神秘的な光景が広がっていた。
日没を匂わせるような少し肌に刺さる寒々強い風が吹き抜けて、草木が擦れるような音が静かな森にこだまする。
空の色も紅から紫へと移り変わり、それは夜の訪れを意味していた。
「ふぅ、もう寝ましょうか。一応バリアも張ったし、熊に襲われることも無いでしょう……多分……」
無意識にそう呟いた後に彼女の瞳はゆっくりと目蓋によって覆われた。
まるで死んでいるかのようにピクリとも動かなくなった彼女は、幸せそうな笑みを浮かべながら深い眠りに沈んだ。
普通ならこんなに森の奥で安心して眠れる人などそうそういないのだが、彼女は普通ではない。女神なのである。
ゆらゆらと揺れる半透明のドームが風が吹く度に波紋を産み出す中で木々の風に揺れる音が趣きを感じさせる。
森には、猛獣の声一つなく、それは彼女の存在が大きい為なのか、それとも偶然なのか、彼女は静かな夜を過ごすことが出来た。
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