003 人形
ここに至って私はこれは夢なのではないかと今更のように判じた。身に起こる出来事の数々はあまりにも突拍子がなさすぎる。メリュジーヌと名乗った私の姉だという女性も辰巳屋の店員さんによく似ていたし、人の気配のない屋敷内はほこりひとつないほどに綺麗で現実感が感じられなかった。
通学中の電車の窓からよく目にして見惚れていた辰巳屋の店員さんに対して私が無意識に抱いていた願望が夢となって現れたのだろう。足が恐竜っぽくなっている理由はわからないので、目が覚めたら夢占いの結果でも調べてみようと頭の片隅にメモをする。
これが夢だとしたら私は待ち惚けたまま放課後の教室で眠りこけているのかもしれない。それならもうそろそろ部活が終わっている頃だろう。早いところ起こして欲しいけれど、起こすことなく寝顔を見られているなんて状況になっていたら最悪だ。幸いなことに私はこれが夢だと気付いたので、ここは自力で目を覚ました方が無難だろうと頬をつねってみたりしたけれど効果はない。
どうやったら目を覚ませるのだろうと考えてみるけれどなにも浮かばない。夢の中で夢に気付くことは初めてではないけれど、そういうとき大抵は早起きする必要もないことがほとんどで夢を思い通りに妄想で造り変えて楽しんでばかりいた。それ故に夢から抜け出すために起きようとしたことは一度もなかっただけに夢から目覚める方法を得る参考にはならなかった。
寝顔を見られるかもしれないという懸念はあるけれど、なにも出来ないのなら今はいっそのこと夢を楽しむことにして、自分にとって不都合な部分を修正することにした。その第一歩として恐竜みたいな足を元に戻そうと強く念じるとくるぶしの方から爪先へと徐々に人間のものへと変化していった。完全に元に戻るまで思った以上に時間はかかったけれど、立ち上がってみて足の具合を確かめた限りだと不具合はなかった。たださっきまで履いていた靴はガバガバになり、今の足には合わなくなってしまった。
それなら靴の大きさも都合よく変化させられないかと念じてみたけれど、こっちはいくら念じても変化することはなく時間だけが浪費された。その次にしたことといえば文字を自分の見知ったものに書き換えて日記帳を読めるようにしようとしたが、それも失敗に終わった。
足のときとなにが違うんだろうかと首を捻っていたら「プラティナさま、入室させていただいてもよろしいでしょうか」と肉声ではなく、どことなく合成音声のように聞こえる声が扉越しに尋ねてくる。
「どうぞ。開いてるよ」
と即応じるものの扉はなかなか開かなかったので、もしかしたらと思って裸足のままパタパタと扉の前まで行き手ずから開ける。すると案の定、扉の前に立っていた相手は料理の乗ったトレイを抱えて両手が塞がっていた。私はトレイを受け取りながらちいさく会釈する。
「ありがとう。それと、ごめんね。すぐに気が付かなくて」
「いえ、プラティナさま。ここまできておきながら適切な判断が出来ず申し訳ありません」
「次から両手が塞がってるときは遠回しにじゃなく、はっきりと言ってね。私が言葉の意味をきちんと把握出来ていなかったのも原因だけれどさ。言ってくれれば、ちゃんと私が代わりに扉開けるからさ」
そう告げると相手は返答に困ったように黙ってしまった。
「そういえば、貴女の名前はないていうの? 以前も聞いたかもしれないけれど、ど忘れしてしまって」
「オリブルです」
「そう、オリブルね。オリブルは、もしかして食事を私の部屋に運んで来るのって初めて?」
私の問いにオリブルは困惑したように首を傾げたが、すぐに「はい。今回が初めてになります」と返答をよこした。
「そっかそっか。ねぇ、オリブル。配膳車はある?」
言いながら両手で持っているトレイをカートに見立てて押す仕草をしてみせる。
「ございます」
「使わないの?」
「使用許可を得ていませんでしたので」
「次からは使ってもいいよ。あ、もしかして私じゃなくて姉様からの使用許可じゃないとダメなのかな」
「いえ、問題ありません」
「そう、ならよかった。今後は……そうだなぁ。うん。オリブルの想定する最良な選択を私たち姉妹に害を成す結果が出る可能性がない限り、許可を求めず独自に判断を下していいよ」
「よろしいのでしょうか、私にそれほどの権限を。メリュジーヌ様に設けられている制限の許容を超えてしまうかもしれませんが」
「え、そうなの?」
「はい。基本的に指定された行動以外は禁じられております。多少のことであればプラティナさまに許可を求めても構わないとは言い付かってますが、これまで許可していただいたことは一度もございませんでしたので」
夢の中での私は狭量だったって設定なのかな。それともオリブル同様にメリュジーヌの指示通りにしか判断を下せなかったとかなんだろうか?
なんというか私らしくはないけど潜在的に従属願望があるってことなのかな。だとしたら違和感しかないし、所詮は夢で深層心理を表現しているとは限らないんだから深く考えるだけ無駄だったなと一度巡らせた思考をばっさりと切り捨てた。
「オリブル。姉様の指示はこれまで通りで構わないから私に対してはさっきの指定通りにお願いするよ」
「承知しました。今後はそのように立ち振舞わせていただきます」
「うん。それで早速お願いがあるんだけど、いいかな」
「はい。なんでしょうか?」
「新しい靴を用意してくれないかな。私の足に合わなくなっちゃってさ」
オリブルに足元を見るように視線で示し、素足を見せる。
「プラティナさま、呪いを自力で抑えられるよになられたのですね。今すぐ新しい靴を用意致しますので少々お待ちください」
と言うなりオリブルはぎこちない動きでどこかへと向かって遠く離れて行く。そんな木製球体関節人形の背中を見送り、私はトレイをテーブルに置いてから開けっ放しになっていた扉を閉めた。