第壱話
後世にオペラ座と呼ばれることになる、バレエ館の客席の横側に広がる特別席。
その中でも一番舞台が映えるという区画を二人の貴族が占めている。
一人は中肉中背、舞台に目を向けてはいるがそれは他に見るものがないからであろう。
もう一人は痩せ型で、前者と違って熱心に舞台を見つめている。
まるで、欲しくて仕方のないものを手に入れた子供の様に屈託のないといった風に見える笑みを浮かべながら、片方の佳人が問う。
「どうだ、あれは」
片方の青年貴族は一欠けらの興味がないような目と口調で答える。
「とてもお美しいですね、ご婦人としても遜色はないでしょう」
そのような返答であっても満足であったようでその佳人は真っ赤な唇を引き上げる。
「舞台の上だというだけで、あのようになる。愚民どもに見せるためではないと言うのにな」
青年が蔑んだ様な、それでも初めて興味を見出した口振りになる。
「庶民であれ出すものは出しているのですよ。・・・しかし意外です。変わった焦らされ方が好きなのですね。」
「物事、一方ばかりと言うのは退屈だ。時には緩やかではあるが変化は必要であろう」
「あの娘はむしろ、変化の方がお望みのようですが」
清純とも言えるかんばせを持ちながら、そこだけが妖艶だと言える唇がねっとりと動く。
「ああ、純粋に楽しんでいるのだろう。楽しめば良い、その後の啼き声が更に良くなる」
青年は今更気づいたように舞台の方に目をやる。
「勿体無い事をしました。演目はもう終わりのようです」
「貴様が見ていなかっただけだ。私は目を離したりはしていない」
先ほどの興味は失せたように、青年は素早く席を立つ。
それを制して佳人が、耳元で囁く。
「少し待て、話がある。先ほど貴様が言った事を考えて貰おう」
目だけをそちらに向ける。
「何でしょうか、私の出来ることでしたら。それと、貴方には興味がありません」
「なに、簡単な事だろう貴様にかかれば。それと、私も貴様には興味はない」
口調は冷たく、顔は誘うようであった。
バレエ館の特別席の1つ。ここは貴方との為に、と饐えた臭いのするご婦人が取ってくれた席らしい。
誘っていただいたのであるから、遠慮はしていたが思わず眠りそうになったことも何度かあった。
それだけ此処は退屈であった。
オペラはただ高いだけで何を言っているのか分からない。
踊りはゆっくりとし過ぎて目が疲れる。
庶民の芸術とは耐えるものかと思わず勘違いしそうになったものだ。
始めは気づけなかったが、この演目の主役の踊り子はとても魅力的であった。
何も楽しくはなかったがあの踊り子だけは素晴らしい。
私は不意にあれが欲しいと思った。
綺麗なだけじゃない、どことなくいやらしい。
そう、あれが常に私の物だと言う事は確実であらねばならないとまで思った。
「ねぇ、どうでした。とやかく言う人も多いようですけどバレエも悪いものではないでしょう」
夢を覚めさせられたようで思わず不機嫌な目つきをしてしまった。
そもそも私はこのご婦人の声が好きにはなれない。
友人連中には人気が有るようなのだが・・・
「ええ、エリザ様。あのような物がいると教えてくださった事にとても感謝いたします」
それ以外は綺麗だと思う。それでも、あれを見せられたのだからどうも思いようがない。
「・・・そう、楽しんでいただけたなら何よりです」
ご婦人の不満そうな溜息を無視しつつ早々と辞去する。
急いで、馬車へ乗り込む。
心よりご婦人には感謝している。しかし、それまで。
後は私自身が手に入れなければ、あれを。